一週間は静かだった。美術部室での事があってから、黒木も相沢も何も言うこともなく、秋山は穏やかに学校生活を過ごした。寧ろ今までを思えば静かすぎるくらいで、陸上部の友人らと共に新入生勧誘を行う中、そのあまりの華のなさというか、男子高校生的な下品さに呆れ返ることもあった。しかしそれもまた新鮮なもので、「どうしたよ」と言われる度に、彼は今までの関係の不自然さを思った。
たった一週間を離れて過ごしただけで、彼は疑問を投げ掛けられた。喧嘩だの仲違いだの、揶揄混じりの心配は、常に三人で集まって日々を過ごしていた事の証左である。
「なに、部活を頑張ろうと思ったんだ。後輩が出来るからな」
秋山はそう言って、「何より、お前達とも仲良くしたいんだよ」と、ちょっとばかしふざけて返せば、同じくふざけて笑い返された。「気色が悪い」という率直な言葉は、きっと黒木と相沢を前にしては出てこないものだろう。
それでもたまに行き違う廊下の時に、彼女らの視線は物を言いたげに向けられて、周りに向けられた微笑みもふとして潜み、仄暗い表情が浮かび上がる事もあった。秋山は、その静かな態度に焦燥を覚えることもあり、悄然とした様に何かを言いかけたこともあったが、あの夕暮れの部室に放たれなかった言葉は今も舌の上に蟠って、結局は沈黙の、安易な平穏を選んでいた。
この静かさは、何か重く大きい物を、薄氷の下に置いた上での平穏なのだと、薄々ながらに彼は感じていた。現状は、自分が望んだものではない。崩壊の予感を常に抱かせる平穏である。
しかし、一歩進んだ事も事実だった。距離は確かに広げられたのだ。行動が習慣になり、習慣が性格になることは、有名な警句としてよく知られたことである。これをこのまま続けていけば、何時かは勘違いも解消され、自分が望むとおりの関係になるだろう。
「それじゃ足りないと私は言っているんですがね。やっぱり先輩は傷付かないようにしている。いい加減に覚悟を決めて下さいよ」
土曜日。ボウリング場の片隅で、テーブルに肘を付きながら新城は言った。館内は客が殆どおらず、機械音が大きく響いている。
今日日、土曜日とは言ってもボウリング場で遊ぶ人間は少なく、加えて同じ国道沿いに、複合的なレジャー施設が新設されたものだから、このバブルの雰囲気を残したようなボウリング場に遊ぶ客は、新城と秋山の他は老人ばかりである。当初は秋山も新しい方に行くものとばかり思っていたので、赤と白で塗られたプラスチック製の椅子を物珍しげに眺めていたが、投げ始めてみれば何も変わらない。閑散とした館内が居心地良いくらいだった。
新城が不満げな顔をして言った言葉も無視し、秋山はボウリング玉を無造作に投げた。初心者特有の、身体ごと前に向かってつんのめる投げ方だった。それでもピンに強く当たり、「ストライク」と、新城を見て自慢げに言った。
「今日初のストライクだ。人生初かもしれん」
「お二人とこういう場所に来たことは?」
「ないな。ボウリングなんて、滅多な選択肢だろう。オンボロの外観を噂にしたことはあったが」
「それは良かったです。これで先輩にもお二人と離れたものができましたね」
ボールリターンに返ってきた球を重そうに持ち上げて、新城はレーンに立った。「大袈裟だな」と秋山は言う。「何事も一歩からですよ」言いながらぐるりと腕を回し、投げた。力なくごろごろとレーンを転がり、弱くピンを倒す。
新城は不満げに鼻を鳴らし、モニターに表示された数字を見つめた。中央の五本が倒れただけだった。続けて二投目を投じても数本が倒れるばかりで、スペアにはならない。彼女の記録はいずれもそのような結果で、秋山に大差を付けられている。
「意外だな」と秋山は言った。「こんな場所を選んだくらいだから、もっと慣れているかと思ったんだが、お前も素人か」
「先輩にしたって力任せに投げているだけでしょう。これは男女の肉体差でしかありません。そう自慢げな顔を浮かべないで下さい」
「それは悪かった。熟練者に勝った気でいたんだ」
「私もここに来るのは初めてですよ。何せ、ここなら出くわすようなこともないでしょうし」
「黒木と相沢に?」そんな事があるだろうか。
狭い街とは言っても、あの二人が遊び歩く場面を想像することはできなかった。思い返せば今までも、こういったレジャー施設やゲームセンターには赴いたことがない。外出するにしても電車に乗って、映画館に博物館と、騒がしくない場所ばかりを選んでいた気がする。
「だからこそですよ」新城は返ってきた球を膝の上に置いて、磨きながら言った。まるで自分の成績を球に押し付けるような磨き方だった。
「きっと、探していますよ。声を掛けないにせよ、見つめるために。先輩も気付いていたんじゃないですか? 学校の中で、ずっと見つめられていました。まだ諦めてはいないんですよ。だから決別しなければならない」
「それじゃ、ストーカーだろう。あいつらに似合わない言葉の一つだ」
「先輩が似合わせるようにしたんでしょう。いえ、私は元から似合うと思っていましたがね」
ストーカーという言葉が似合う。秋山は球を構えながら、その情景を想像した。たった一人で思い詰め、言葉にする事も出来ず、遂には行動に出る。その行動にしても、随分と弱々しい、殆ど行為と呼べない行為だろう。ストーキングというものは、対象に迫ることがなければ、気付かせることもしない。それは自慰のようなものであり、人間的な弱さの表われでもある。二人には似合わない。
「いや、それとはまた違った形です」新城は知った顔で言った。秋山がボウリング球を投げる。思わず顔を向けてしまったことで、軌道は逸れてガターになった。
責めるような顔を浮かべる秋山を無視し、新城は続けて言う。
「先輩が言っているのは、言うなれば、こそ泥のようなストーカーでしょう。しかし世の中には積極的に思いを伝え、受けいられるまで絡み続けるようなストーカーもいるんですよ。よく事件を起こすのってそういうタイプじゃないですか? こそ泥と比較するのなら、強盗のようなタイプです。そしてお二方はそのタイプですね」
「失礼な事を言うな、お前は。本当に尊敬しているのか?」
「勿論ですよ。何なら証明してあげましょうか? たとえば相沢先輩が受賞した作品を、一言一句違わず暗唱するとか」
「いらん」
再び球を手にし、秋山はレーンの奥を睨んだ。新城に及ばぬまでも、自分だってその作品のことはよく覚えている。「つまんなかったなあ」ぼやくように発せられた言葉に、新城はせせら笑いを浮かべた。
投げ方を覚えてきて、良い感じに力が抜けていた。球がすうっとピンの中心に吸い込まれ、尽くを薙ぎ倒す。
「二度目だ」
再び自慢げな顔を向けた秋山へ、新城は冷ややかに言った。
「そりゃ、先輩。どういう意味ですかね。つまらないとか。ひょっとして、見識眼のなさを主張しているんですか?」
「いいや、素直な感想だ。純文学ってのを、俺は遥の小説に初めて読んだんだが、恐ろしくつまらなかった。だってストーリーが何も進んでないだろう」
あらすじは、女子高校生の主人公が、思いを寄せる男子高校生を偏執的に追っていくといった内容だった。しかし説明してしまえばそれだけである。そこに書かれているのは単なる日常で、重いテーマや作者が伝えたいような思いは見えず、日記のような平熱な文体で描写が綴られていく。女子高校生が受賞者ということもあって、話題にはなったが、特に本が売れてもいない。文壇が向ける視線も厳しいもので、名のある賞の候補にも挙がっていなかった。
「それでもまあ、お前の言うとおり、俺に見識眼がないというなら、そうなんだろう。だって受賞したんだからな。千とか万とか、そういうのには応募されるんだろ」
詳しくはないが。秋山はそう言って椅子に座った。次は新城が投げる番だった。しかし彼女は目尻をひくつかせて馬鹿にしたように笑う。
「なるほど先輩は権威主義なんですね。偉いから偉いと思っている。それでは勘違いと思い込んだのも道理でしょう。芸術的素養に欠けた、馬鹿ですね」
「随分と言うな。そりゃ、お前の前でつまらんと言ったのは悪かった」
「いえ、つまらないのは事実です。相沢さんの受賞作は、とてもありがちな、ちょっと特殊な視点から見る風景を描いたものに過ぎません」
「認めるのかよ」
「起承転結も投げ捨てて、ただ訥々と平熱に、思想にも至らぬ感情を紡ぎ上げていくのは、そりゃ、先輩のような人にはつまらなく思えるでしょう。これは形式の問題ですよ。小説に刺激を求める人にとって、文学なんてつまらない。その上で相沢さんの作品を語るなら、やっぱり下手ですね。何故って前にも言ったように、本音で話していませんから」
新城は磨く手を止めて、指の腹に球の重さを確かめるように撫でながら言った。共に座れば、意識していなかった機械音が大きく聞こえる。秋山は、今まで声を張っていたことに気が付いた。そして新城もまた、感情の高ぶりを覆い隠さず、機械音に負けぬ声で言う。
「私が好きなのは、見せかけた感情ではなく、文体の中に隠そうとして隠し切れぬ感情です。作者が、人間が好きなわけですよ。勿論、中学時代から好きでしたが、それを見て一層意識が強まりました。魅力的な人物が魅力的な小説を書くとは限りませんが、少なくとも相沢さんはそうです。だから現状が我慢しがたい。つまらないものに執着して、実力を発揮しきれず、つまらない人間に軽んじられている現状が嫌なわけです」
彼女は秋山を見ながらそう言った。誰のことを言っているのかは自明だった。しかし秋山は「まあ、お前がそうならそうで良いんだが」と軽く受け流し、無人のレーンを指差した。
新城は眉間に皺を寄せながら立ち上がる。力の入った球を投げる。力が入りすぎてガターになった。
互いにスコアを競い合ったが、終わってみれば酷いもので、秋山も勝利を誇ることなく、「楽しかったよ」と素直に言った。対して新城は悔しそうで、「次は負けませんよ」と自転車を押しながら言う。
国道沿いから道を逸れて、田んぼを左右に置く道の中、二人はどこに行くものとも決めず歩いていた。それでも里山の緑。延々と続く土の色。見飽きた田舎の風景は、先の機械音の中から飛び出てはのどかに美しくも感じられ、ぼんやりと山裾を見つめて言葉数少なく歩を進めている。既に水を張っている田もあれば、まだ土を起こしただけの田もあり、田園は田園で一つ一つに目を凝らせば多様な景観を見せていた。
「好きですよ、私」と新城は言った。「同級生は皆、こんな田舎って言いますけれど、私は好きです。遊ぶところだって、電車に乗らなくても、今日のようにあるじゃないですか」
田園から目を逸らし、秋山を見つめる。
「先輩はどうですか? この街に生まれて、育って」
「どうだろうな」
「と言うのは」
「街の思い出というのが少ない。俺が遊んでいたのは、それこそ電車に乗るか、或いは」と、秋山は彼方を指差した。
北と、僅かにずれて西。それぞれを思い出すように言う。
「薫と遥の家は、どちらも見事なもので、街を感じさせなかった。坂の上に建つ洋館と、駅近くの日本家屋だ。ああいうのは街とは呼ばないだろう。空気が違った」
「違いますか」
「違うね。何か間違ってこの土地に建ててしまったような、文化の違いがある」
「遠いですか?」
「外から眺めても、中にいても」
広がった青空の、橙に染まり始めた西を見て、秋山はふと物寂しくなった。ノスタルジーを地元にいながらにして思うことは不思議だった。それでもこういった緑の橙の、人の作らない色彩がそこかしこに咲き誇る風景に、思い出したように強く惹かれる事がある。それは黒木と相沢と共にいては感じられない感慨だった。あの二人は、郷愁を思うには強すぎる。
ノスタルジーとは、過ぎ去ったものを愛することなのだろうか。既に存在しないから愛おしく感じられるのだろうか。今、こうしてただ中にいる田園風景も夕焼けも、人生とはかけ離れた古く美しい何かに見える。
「故郷って呼び方は、他人行儀だよな」と彼は言った。
「たった一週間だが、俺はもう、薫と遥が懐かしくなってしまった気がする。かつてはそんな事は思わなかったのに」
「それは先輩、早過ぎますよ。寂しがりですよ。夕焼けが眩しすぎたんじゃないですか?」
「そうかもしれない。だがこの街を、何時か故郷と呼ぶ日が来るように、その懐かしさだって遠く思うようになるだろう。それって成長と呼べないか」
「何時になく詩的ですね。ちょっと気持ち悪いかもしれません」
「酷いことを言う」
「世に詩というものがポエムと呼ばれて馬鹿にされるのは、きっと先輩のような人のせいですよ。自分に酔っているのが痛々しいのを文章のせいにされては困ってしまいます」
「お前は人よりも文章が大事か」
「先輩が、見ていられないだけです」
新城はふと強く言った。それは夕焼けの中には硬い言葉だった。自転車の、車輪の回転が遅くなっていく。
「この間、先輩の言葉を呪いだと言いましたが、本当に呪われているのは先輩の方ですよ。何に付けてもお二人を引き合いに出す。こんな夕焼けにもお二人を思い出して、つべこべと理由を付けて離れようとして、でも意図してそうしようとしている時点で根本的には離れることはできないんですよ。貴方の人生は呪われてしまっているんです」
「傍目には羨ましがられているがな。お前もそう思っているんじゃないのか?」
「私が貴方だったら素直に喜ぶでしょうが、貴方が貴方だから、私は素直に喜べませんよ」
「難しいことを言う」
「どこがですか。哀れに思っているだけのことです。それこそ慈悲をあげたいくらいに」
「お前は俺がつまらない人間とか言っていなかったか」
「それだけで何もかもが決まるわけじゃないでしょう。私は視野が広いんですよ」
「もっと世の中を広く見ましょう!」新城は自転車を止め、腕を広げた。車道の真ん中に飛び出てぐるりと回る。
車が通る気配はなく、空に夜が忍び寄ってくるだけで、物音は殆どない。幹線道路の車の音が、春風に混じって遠く聞こえるばかりだった。
「高校時代の思い出なんて、どうせ大人になれば、時折思い出すだけの記憶になります。今の悩みも、後から思えばつまらない、どうしてあんな事でと恥ずかしがってしまうでしょう。故郷もそうですよ。時折思い出すのが故郷なら、それを捨てた事だって大切じゃない。思い出すだけ。懐かしいと思うのは、それを今に求めるほどではないからです。何時かはきっと、そうなります」
「じゃあ、今が苦しい場合はどうするんだ。それが苦しい今は?」
「懸命に努力することです。後で馬鹿馬鹿しいと笑うためにね」
「結局は根性論か」
「感情論でもありますよ。そのために世の中を広く見るべきなのです。ものの見方が異なれば、抱く感情も異なるでしょう。学校生活なんて! 結局はたまたま集まって過ごすだけの、狭い偶然の世界に過ぎません。そこから一歩でも外に出れば、中の出来事は全て馬鹿馬鹿しく、うだうだ言っているのが下らなく思えることでしょう」
新城は朗らかに声を伸ばして言う。歌うようだった。緑から黒に色を変えつつある山々を背景にして、彼女は秋山を見つめながらすらすらと、以前から考えていたように語り続ける。
秋山は自転車のハンドルを抑えたまま言った。
「学校の外に問題がある場合は。生まれたときから今に至るまで、問題があった場合は」
「それもまた同じですよ。外に出ましょう。広い世界を見に行きましょう」
「薫も遥も、俺には酷く広く、遠く見える。俺の外に広がっているように感じる」
「だから、それこそが狭い見方だと言っているのです。もっと広く、視点を変えて、世界を楽しもうじゃありませんか。理屈で変えようとするから、慈悲なんて言い出すんです。そんな無力さなど、視点を変えれば何てことはない、下らないものですよ」
道路の端と中央の、少し開いた距離に留まって、「外に出ましょう」と繰り返し新城は言った。
「広く遠いと思えるものだって、見方を変えれば下らない。外に出れば、恐ろしく醜く思えることもある。しかし」唇を舌で濡らした。新城は自分自身の言葉に熱中しているようだった。「しかし、それでも尚、中にある下らないものが手を伸ばしてくるのなら、その時こそ、思い出にすらせず、本当に捨て去るべきでしょう」
「先輩」新城の笑みはいつの間にか潜んでいた。暮れなずむ夕暮れの中、彼女の顔には陰影が強く表われて、瞳の明るさは影に沈んでいる。
「先輩が望むものは、お二人に嫌われるだけでは叶いません。何故なら、お二人は決して貴方を嫌いになりませんから」
「離れるだけでも十分じゃないか」
「いいえ、全く足りません。だから、先輩がお二人を嫌いになって下さいよ。あんなものと馬鹿にして、縋り付くのなら蹴り飛ばしてしまうほどに」
その時、暗闇の向こうに光が見えた。自動車のライトだった。新城は自然な足取りで秋山の側に近付き、言った。
「私はお二方のためだけでなく、先輩のためも思って言っているんですよ」
自転車が押される。二つの車輪が並んで回る。車が通り過ぎていく。排気ガスを至近に吸って、秋山は少し咽せた。