昔から、救いなんてものはありませんでした。昔に遠坂家から間桐家へと移り、そこからは地獄のような日々。しかしいくら地獄の業火でも、慣れればいつかはぬるま湯となります。
心を壊し、何も考えないようにすれば辛くはありません。蟲にどんな陵辱を受けようとも、そんなものなのだと思えばいい。私の運命はずっとそれを続ける道なのだと、諦めてしまえば良い。
そう思っていました。
高校生の冬。お爺様は「聖杯戦争」に向けて準備を進めていました。いつものように、蔵で蟲に囲まれ穢される。なんてことのない日常が始まります。
周囲でパタパタパタパタパタパタとなり続ける足音と、ジィジィジィジィと響く鳴き声。それはやがて私の脚を這い、胸を覆い、中へと入ってきます。上には、不敵な笑みで私を眺めるお爺様。
私は静かに目を瞑り、それを受け入れます。その時、異様な音が蔵中に響き渡りました。ラッパのような……というより、ラッパそのものの音が、まるで誰かを称えるファンファーレのように。
「レディースandジェントルメン!と、言っても後者は既にクソジジイだがねぇ。」
そんな声と共に、お爺様の背後に背丈の高い女性が立っていました。彼女の傍では左右に三本ずつ腕を持った、人間サイズの人形が上二本の両腕でラッパを吹いています。
「貴様ァ!二度と間桐の敷地を跨ぐなと……!」
「おっと、そう怒らないでよ。臓・硯・パ・パ♡」
お爺様が声を張り上げて怒っている。そんな姿は久しく見ていませんでした。そして、「臓硯パパ」という言葉。まさか、彼女はお爺様の娘なのでしょうか。そんな意味もない疑問が、脳に浮かびます。
「にしても160年振りってとこかな。前からだいぶ人間性を失ったね。もうパパってアタシよりバケモノなんじゃなぁい?」
口を開こうとしたお爺様の顎を掴み、反論できないようにした後、女性は蟲の中へと飛び込みました。まるで彼女を避けるように、蟲は一斉に動いて道を作ります。
「あちゃぁ……あんな可愛い子をめちゃくちゃにしちゃって。まったく罪深いねぇ。」
一歩、また一歩と私へ近づいてくる女性。やがて、私を取り巻いていた蟲すらも何処かへ姿を消します。そして目の前まで来て、彼女は私の目線に合わせるようにしゃがみこみました。
「これ、このクソジジイにやられたの?」
「クソジジイというのが……お爺様のことなら……」
「そっかぁ。ごめんねぇ、うちのパパがさ。」
そう言うと共に、彼女の右手に掴まれていたお爺様がバラバラになって砕け散りました。その後、そこにいたのは小さな一匹の蟲。恐らく、お爺様なのでしょう。
「あなた名前は?」
「間桐……桜…………」
「そっか。お姉さんは手毬って言うんだ。桜ちゃん、立てる?」
そう言って差し出された手。私は握ろうと手を伸ばしました。ギュとかたく握られた手は、とても冷たい。それはまるで、彼女の身体が人形であるかのようです。
「あの…………お爺様は……?」
私は手を引かれるまま歩きつつも、恐る恐る問いかけます。
「ん?あぁ、クソジジイのこと気になる?アタシの『中』でちょっと大人しくしてもらってるだけ。まぁ暫くは出てこないと思って大丈夫だよ。」
「お爺様には……その、逆らわない方がいいと思います……」
「ん〜?そっかぁ、君にとっては絶対的存在だったワケだねぇ。大丈夫、パパは私にだけ甘いから。」
おちゃらけた様子で、簡単に私の中の絶対を壊してしまった彼女は、そのまま私に服を着せてダイニングの椅子へと座らせました。
「ちょぉっと待っててね、桜ちゃん。大事な話があるから。」
そう言って部屋から出て行ったと思えば、数分後に兄さんの髪の毛を引っ張りながら扉を蹴り開けて入ってくる。
「痛い痛い痛いっ!なんなんだよお前は!!」
「それを今から話すの!ほら、さっさと桜ちゃんの横にすわりなワカメくん!!」
「慎二だって言ってるだろ!」
悪態をつきつつも、隣へと腰掛けた兄さん。私に怒ってる時よりも不機嫌そうな顔をしています。
「さて、それじゃあ改めて自己紹介といこうかな。」
そう言って、手毬さんは私達に向かい合う形で座りました。
「お姉さんの名前は間桐手毬。君たちのよく知るシワシワお爺様の娘だよ。好きに呼んでくれていいからね。」
「娘だぁ!?」
「どうしたワカメくん。驚くことはないだろう。」
「だから慎二だって……あぁ!もういい!それよりも娘ってどういうことだよ!」
「そのままの意味だけど?あ、やっぱり若く見えちゃう?そうだよねぇ、アタシ美人だもんねぇ。」
「話を自己完結させるな!僕に説明しろって言ってんだよ!」
「え〜……」と渋い顔をして、彼女は自身の出自を語ってくれました。曰く、第一次聖杯戦争時代から生きている方で、今は魔術で若い身体を保っているのだとか。
「とはいえ決して不老ってわけじゃないから、あと数百年したら死ぬだろうねぇ。」
軽くそんなことを言ってしまえるのは、きっとこの人が凄い魔術師なのだからでしょう。続けて会話は、兄さんと手毬さんの二人の間で交わされて行きます。
「さて、本題へ行こうか。アインツベルンは知ってるかな?」
「聖杯戦争を作り出した家のひとつだろ。爺さんが言ってた。」
「その通り。あそこはすっごく魔術の得意な名家なんだよ。まぁ、もう無くなっちゃったけどね。」
「はぁ?」
「3日前、突然アインツベルンの人間が全員行方不明になった。彼らの城に残ってたのは血痕と滅茶苦茶になった家具のみ。原因は不明だけど、予想するに聖杯戦争関連だろうね。」
「それがどうしたんだよ。どうせ他の参加者に殺されただけだろ。」
「そうならいいんだけど、状況が余りにも異様すぎるんだ。何とも言えないのが現状。アタシはそれの調査に来たの。」
そこまで話して、彼女は胸ポケットから小さな布を取り出しました。「これは?」と、兄さんが不思議そうにそれを受け取ります。
「触媒だね。サーヴァントを呼び出すためのものだよ。君たちには聖杯戦争に参加してもらいたい。」
「……なんだって?」
「桜ちゃんは戦闘センス皆無だけど、一目見てわかるくらい洗練された魔力を持ってるからね。ワカメくんはその逆で、魔術はからっきしだけど他の才は秀でている。」
手毬さんはもう1つ、禍々しい本を兄さんへと差し出しました。
「それを桜ちゃんと接続すれば、遠隔から他人でも彼女の魔力を扱えるようになる。」
そして兄さんはその本を引ったくって、惚けた様子でそれをまじまじと見つめています。
「これを……これを僕に使えってのか……」
「そうだね。実質的に君は前線に出ることになるけど、別に良いよね?」
「はは……ははは……」
少しずつ漏れ出る笑い。それはやがて大きく、高らかなものへと変わっていきました。
「ははは!いいさ、僕がやってやるよ!使い魔を上手く使ってやる!それで聖杯戦争に勝てばいいんだろ!?」
「おぉ、そんなに嬉しい?お姉さんびっくりしちゃった。でも、そうだね。きっとそうすれば、アインツベルンの悲劇を引き起こした張本人にも出会えるだろうから。」
その時、思い出したようにお姉さんは私の手へ小さなペンダントを渡します。「これは……?」と小さく聞くと、彼女は優しく笑って言葉を返してくれました。
「魔力の接続をするための道具。ピアスとかの方がいいんだけど、君は開けてないみたいだしね。暫くはこれを胸にさげておきなさい。」
私がそれに頷くと、彼女は「よし…」と呟いて私の首にペンダントをつけてくれます。それは紫の光を微かに放ち、私の身体をひっそりと照らしていました。
それが、私たちの始まりでした。聖杯戦争という悲劇の序章。紡がれるのは、きっと悲惨な物語。でも私は願っています。この舞台が……ハッピーエンドで終わることを。