アイルの手首には、黒革の手枷がある。
信徒の証である銀十字のかわりに、手枷の短い鎖を鳴らして、祈りを捧げていた。
「願わくは、この祈りが届かんことを」
本来なら、この後に神の名を呼ぶ。
――主よ、と。
けれどアイルは、ほんの僅かに口を閉ざし、目を伏せて続けた。
「……我らの迷いを、貴方の光が照らしますよう」
まだ、その名を呼ぶ準備が、自分にはできていなかった。
教会に来て数週間を経て、アイルの生活は一変した。
それまでは夜に活動し、日の出前に祈りを終え微睡んだ。一ヶ所に留まらず、旅を続ける日々だったのだ。
けれど、そのすべてはもう過去だ。
今では、朝に目覚め、夜に眠る生活に変わった。
ラグナと交わした、あの契約のために。
アイルに与えられた部屋は、教皇塔の二階にある。
教会側では「監査部屋」と呼ばれていた。
それは信頼ではなく、監視のための空間だった。
簡素な寝台に、燭台と書物机。かろうじて祈れる空間。天井近くに細い採光窓があるが、空の灰色すら眩しく思える。
唯一の出入り口は、内部からは鍵もかけられない。廊下側から誰かが中を覗く気配にも、もう慣れてしまった。
この部屋は、誰がどう見ても――完全な、檻だった。
けれど、それでも、アイルにとってはまだましだと思える待遇だった。
定時になれば、温かい食事が用意される。真冬の雨風を遮る屋根も、毛布もあるからだ。
最近では、朝と夜の礼拝の時間だけ、許可を得ずとも外出が許されるようになった。
ただし。
今日だけは禁止だと、告げられていた。
理由は明白だ。
議会が召集されたからだった。
だから今日は、朝から一度もラグナに会っていない。
「……どうなったのやら」
小さく口にして、アイルは寝台に腰掛けた。
この階は、ある意味でラグナの権力の縮図だった。
上階へと向かう階段の前には、教皇ラグナ直属の護衛『儀仗隊』が立ち、下層へと向かう階段の前には、教会警備隊が睨みを利かせている。
この階の中心にある監査部屋――アイルの部屋を挟んで、両者は日々、沈黙のまま睨み合っている。
寝るにはまだ早い。
しかし、起きているには、消費される蝋燭が勿体なかった。
火を消して寝台に潜ろうとした直後、扉の外から声がかかった。
「アイル」
ラグナの部下――儀仗隊の隊長の声だ。
寝台から降りて、アイルは扉に歩み寄る。
「何事でしょうか?」
「よかった、まだ起きていたか。至急、移動の準備を。会議が終了しました。陛下が、こちらにお立ち寄りになります」
「……わかりました」
小さな溜息が喉を漏れたが、それは扉の向こうには届かなかった。
アイルは、ラグナの顔を思い浮かべる。
――議会は、どうなったのだろう。
自分に関する話で、彼が何を問われ、何を語ったのか。
それを知ることはできない。
※
扉を開け廊下に出ると、すでにラグナが歩いて来るのが見えた。白金の外套に包まれた少年の姿は、遠目にも目を引く。
だが今日は、どこか疲れているようにも見えた。髪は僅かに乱れ、外套の裾には雨に濡れたのだろう、水滴が滲んでいる。
その金の瞳も、微かに翳っていた。
「待たせたな、アイル。着いて来い」
穏やかな声。だが、その口元は少しだけ強張っていた。
「お疲れ様です、ラグナ様」
アイルは礼儀として頭を下げる。
ラグナは頷き、先頭に立って階段へ向かっていく。
その後ろ姿を、エルヴィンが一礼して追いかけた。
「どこへ?」
歩きながら、アイルは問う。
三階は執務室、その上がラグナの私室だ。
構造は知っていたが、意図が読めなかった。
アイルの居室は、監査部屋と定められていたからだ。
「お前の部屋に案内する」
だから、ラグナにそう短く返され、その意味をすぐに理解できなかった。
(俺の、部屋?)
しかし、足を止めるわけにもいかず、アイルはそのまま後に続いたのだ。
四階の入口に着くと、ラグナは振り返り、護衛に告げた。
「ありがとう、クルト。ここから先はいい。下がってくれ」
一瞬の間。
クルトと呼ばれた男が、何か言いたげに口を開きかけた。
「承知しました。何かあればお呼びください」
結局、彼は了承し階段を下りていった。
「二人とも、入っていいぞ」
ラグナが私室の鍵に触れて扉を開けると、アイルとエルヴィンは中に入ることを許された。
入ってすぐの部屋を、アイルはよく知っている。
契約を結んだ場所だからだ。
書物机に椅子、書架。どれも覚えがある。
ラグナが示す奥の扉、その先だけが未知だった。
「アイル、監視はいないから安心するといい。お前の部屋はあっちの奥。エルヴィン、あとを頼めるか? 俺は……少し休ませてくれ」
それだけ言って、ラグナは扉とは反対にある、浴室へと消えていった。
「ではこちらに、貴方の部屋があります」
エルヴィンが慣れた仕草で扉を開ける。
そこは、大きな寝台が置かれた部屋だった。
「寝室?」
アイルの漏らした言葉を、エルヴィンは無言で肯定した。
床には分厚い絨毯が敷かれ、暖かい室温が保たれていた。
「こちらに」
エルヴィンが先を歩き、寝室のさらに奥にある部屋を示した。
簡素な扉だった。
部屋は元は物置だったのだろうか。相応の広さだった。
壁は塗り直された、真新しい形跡がある。
寝台、机と椅子、書棚――調度品は最低限に整えられているが、どれも真新しい。
窓が一つある。だが、その先に広がるのはラグナの私室――外の景色ではなかった。
そして何より、この部屋に足を運ぶには、必ずラグナの私室に入らなければならない。
つまり、これは。
「……なるほど。確かに、監視はないですね」
アイルが呟くと、エルヴィンは気まずそうに視線を逸らした。
「ええ……これが陛下の仰った『貴方の部屋』です」
アイルは、小さく笑った。
ラグナの言葉に嘘はないのだろう。
本当に監視する意図はないはずだ、おそらくは。
教皇の目。それが、同じ意味を持つことに、気づいていないのだろうと、アイルは推測した。
「アイル、ついて来てください」
エルヴィンは静かに促し、アイルの『部屋』を出る。
彼は、寝台の脇にあるバルコニーの窓を開いた。
冷たい外気が、一気に流れ込んでくる。
エルヴィンが振り返り、言葉の代わりに穏やかな目で促した。
「見てください」
彼が外を指差す。
雨は、運良く止んでいた。
とうの昔に日は暮れて、灰色の空と静寂が、聖都全体を覆っていた。
塔から見下ろす聖都リザービリアは、まるで石の箱庭のようだった。
この街は、小高い丘の上に築かれている。
その最頂に位置するのが、教皇の住まいであるこの塔――太陽神教会の象徴だった。
その高さゆえに、聖都の全貌が一望できた。
いくつもの尖塔と、連なる建造物。時折噴き上がる、蒸気の白。
石畳の道は迷路のように走り、広場の中央には祈りの場の屋根がのぞく。
だが、それらのすべてを取り囲むようにして、分厚く高い城壁が立ちはだかっていた。
まるで、街そのものが、巨大な檻に閉じ込められているかのように。
「ラグナ様は、基本的にこの塔から出ることがありません。用がある者は、自らここまで足を運ぶからです」
エルヴィンは静かに言った。
少しだけ迷って、アイルは言葉を継ぐ。
「それは、出ないのではなく……出られない、の間違いなのでは?」
エルヴィンの返答はない。ただ琥珀色の瞳が揺れる。
それを答えだと、アイルは受け取る。
「教皇陛下は、太陽神の現し身。神の代理人です。この世で最も尊く、絶大な権力を持つ方だと、私は今まで認識しておりましたが――記録官殿の様子を見るに、やはり違うのですね」
どこまで踏み込むか悩み、アイルは結局そう口にしてしまった。
同時に、エルヴィンはそれを理解させるために、窓の外を見せたのだろう。
アイルは、視線を僅かに伏せた。
塔の頂から見える景色は、本来なら権威の象徴のはずだった。
それは、誰よりも高い場所にあって、誰よりも狭い。
空を覆う灰色の雲と、塔を囲む壁。
その内側だけが、ラグナの見ることのできる全てなのだと。
「アイル。貴方の察しの良さは、助かります」
「それをいうならば、記録官殿のやり口もでしょう? ですがおかげで納得しました。ラグナ様は、あの部屋が『自由』だと、本当に思われているのですね」
アイルの言葉に、エルヴィンが困惑した表情を浮かべる。
思わず笑って、アイルは自分の部屋へ向かう。
窓を閉めたエルヴィンが、続く気配を感じた。
「ラグナ様は以前、教皇私室には許可を与えた者しか出入りできないと、私に話してくださりました」
契約を結んだあの日、隣の部屋の椅子の上で、アイルはそう聞かされていた。
「まぁ、ですから――エルヴィン助祭。貴方が懸念するほどではありませんよ。私はラグナ様を信じております」
小さな部屋に入って、そう言った。
ラグナがその権力を持って、監視させないと示したのだから。
「私の階級をご存知で?」
「見ればわかりますよ。左手首の銀十字。緑の飾り石は助祭位の証でしょう」
アイルは与えられた着替えを机の上に置きながら、エルヴィンの手首を示す。
「本当に目敏い。しかし、意外でした。貴方なら、もう少し怒るかと思っていました」
「まあ……野営や監査部屋を思えば、文句は言えませんよ」
その言葉に、エルヴィンはわずかに苦笑した。
「必要なものがあれば、私にお申し付けください。可能な限りは対応します」
そう言って、彼は一冊の手帳を差し出した。
「議会の議事録の写しです。貴方に関する内容ですから」
「私に?」
アイルは少しだけ首を傾げた。
渡された紙面には急いで筆写された跡があり、数箇所で文字が滲んでいた。
「後ほど、必ず目を通します」
本来なら、アイルに読む権限はないはずだ。
だからこそ、アイルは静かにそれを受け取った。
※
エルヴィンが部屋を辞した後、アイルは与えられた部屋で議事録に目を通していた。
おそらく、全ては渡されていない。
けれど、許される限界をあの記録官は選んだのだろう。
ふと、隣の部屋――ラグナの寝室の外に、人の気配がした。
小さな音を立てて扉が開き、濡れた髪を肩に掛けたままのラグナが立っていた。
重く堅苦しい衣装ではなく、簡素な衣服を身に纏う。
「居心地は、どうだ?」
アイルの部屋に顔を覗かせた少年は、たしかに年相応の表情を浮かべている。
「エルヴィンも、それを気にしていたな。まぁ、悪くない」
アイルは苦笑して、そう告げてやる。
ラグナは何かを読み取るように視線を向けて――そして、そっと目を逸らした。
「……悪かった」
短く、それだけを残して、ラグナは再び奥へと戻っていった。
アイルは、その背を見送りながら、ふと思った。
――結局。
自分も、あの人もどこにも行けない。
お互いに、檻の中にいるのだ。