祈りの残響にその名を呼ぶ   作:砂月(さつき)

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第6話 檻の中

 アイルの手首には、黒革の手枷がある。

 信徒の証である銀十字のかわりに、手枷の短い鎖を鳴らして、祈りを捧げていた。

「願わくは、この祈りが届かんことを」

 本来なら、この後に神の名を呼ぶ。

 ――主よ、と。

 けれどアイルは、ほんの僅かに口を閉ざし、目を伏せて続けた。

「……我らの迷いを、貴方の光が照らしますよう」

 まだ、その名を呼ぶ準備が、自分にはできていなかった。

 

 教会に来て数週間を経て、アイルの生活は一変した。

 それまでは夜に活動し、日の出前に祈りを終え微睡んだ。一ヶ所に留まらず、旅を続ける日々だったのだ。

 けれど、そのすべてはもう過去だ。

 今では、朝に目覚め、夜に眠る生活に変わった。

 ラグナと交わした、あの契約のために。

 

 アイルに与えられた部屋は、教皇塔の二階にある。

 教会側では「監査部屋」と呼ばれていた。

 それは信頼ではなく、監視のための空間だった。

 簡素な寝台に、燭台と書物机。かろうじて祈れる空間。天井近くに細い採光窓があるが、空の灰色すら眩しく思える。

 唯一の出入り口は、内部からは鍵もかけられない。廊下側から誰かが中を覗く気配にも、もう慣れてしまった。

 この部屋は、誰がどう見ても――完全な、檻だった。

 けれど、それでも、アイルにとってはまだましだと思える待遇だった。

 定時になれば、温かい食事が用意される。真冬の雨風を遮る屋根も、毛布もあるからだ。

 最近では、朝と夜の礼拝の時間だけ、許可を得ずとも外出が許されるようになった。

 ただし。

 今日だけは禁止だと、告げられていた。

 理由は明白だ。

 議会が召集されたからだった。

 だから今日は、朝から一度もラグナに会っていない。

「……どうなったのやら」

 小さく口にして、アイルは寝台に腰掛けた。

 

 この階は、ある意味でラグナの権力の縮図だった。

 上階へと向かう階段の前には、教皇ラグナ直属の護衛『儀仗隊』が立ち、下層へと向かう階段の前には、教会警備隊が睨みを利かせている。

 この階の中心にある監査部屋――アイルの部屋を挟んで、両者は日々、沈黙のまま睨み合っている。

 

 寝るにはまだ早い。

 しかし、起きているには、消費される蝋燭が勿体なかった。

 火を消して寝台に潜ろうとした直後、扉の外から声がかかった。

「アイル」

 ラグナの部下――儀仗隊の隊長の声だ。

 寝台から降りて、アイルは扉に歩み寄る。

「何事でしょうか?」

「よかった、まだ起きていたか。至急、移動の準備を。会議が終了しました。陛下が、こちらにお立ち寄りになります」

「……わかりました」

 小さな溜息が喉を漏れたが、それは扉の向こうには届かなかった。

 アイルは、ラグナの顔を思い浮かべる。

 ――議会は、どうなったのだろう。

 自分に関する話で、彼が何を問われ、何を語ったのか。

 それを知ることはできない。

 

 ※

 

 扉を開け廊下に出ると、すでにラグナが歩いて来るのが見えた。白金の外套に包まれた少年の姿は、遠目にも目を引く。

 だが今日は、どこか疲れているようにも見えた。髪は僅かに乱れ、外套の裾には雨に濡れたのだろう、水滴が滲んでいる。

 その金の瞳も、微かに翳っていた。

「待たせたな、アイル。着いて来い」

 穏やかな声。だが、その口元は少しだけ強張っていた。

「お疲れ様です、ラグナ様」

 アイルは礼儀として頭を下げる。

 ラグナは頷き、先頭に立って階段へ向かっていく。

 その後ろ姿を、エルヴィンが一礼して追いかけた。

「どこへ?」

 歩きながら、アイルは問う。

 三階は執務室、その上がラグナの私室だ。

 構造は知っていたが、意図が読めなかった。

 アイルの居室は、監査部屋と定められていたからだ。

「お前の部屋に案内する」

 だから、ラグナにそう短く返され、その意味をすぐに理解できなかった。

(俺の、部屋?)

 しかし、足を止めるわけにもいかず、アイルはそのまま後に続いたのだ。

 

 四階の入口に着くと、ラグナは振り返り、護衛に告げた。

「ありがとう、クルト。ここから先はいい。下がってくれ」

 一瞬の間。

 クルトと呼ばれた男が、何か言いたげに口を開きかけた。

「承知しました。何かあればお呼びください」

 結局、彼は了承し階段を下りていった。

「二人とも、入っていいぞ」

 ラグナが私室の鍵に触れて扉を開けると、アイルとエルヴィンは中に入ることを許された。

 

 入ってすぐの部屋を、アイルはよく知っている。

 契約を結んだ場所だからだ。

 書物机に椅子、書架。どれも覚えがある。

 ラグナが示す奥の扉、その先だけが未知だった。

「アイル、監視はいないから安心するといい。お前の部屋はあっちの奥。エルヴィン、あとを頼めるか? 俺は……少し休ませてくれ」

 それだけ言って、ラグナは扉とは反対にある、浴室へと消えていった。

「ではこちらに、貴方の部屋があります」

 エルヴィンが慣れた仕草で扉を開ける。

 そこは、大きな寝台が置かれた部屋だった。

「寝室?」

 アイルの漏らした言葉を、エルヴィンは無言で肯定した。

 床には分厚い絨毯が敷かれ、暖かい室温が保たれていた。

「こちらに」

 エルヴィンが先を歩き、寝室のさらに奥にある部屋を示した。

 簡素な扉だった。

 部屋は元は物置だったのだろうか。相応の広さだった。

 壁は塗り直された、真新しい形跡がある。

 寝台、机と椅子、書棚――調度品は最低限に整えられているが、どれも真新しい。

 窓が一つある。だが、その先に広がるのはラグナの私室――外の景色ではなかった。

 そして何より、この部屋に足を運ぶには、必ずラグナの私室に入らなければならない。

 つまり、これは。

「……なるほど。確かに、監視はないですね」

 アイルが呟くと、エルヴィンは気まずそうに視線を逸らした。

「ええ……これが陛下の仰った『貴方の部屋』です」

 アイルは、小さく笑った。

 ラグナの言葉に嘘はないのだろう。

 本当に監視する意図はないはずだ、おそらくは。

 教皇の目。それが、同じ意味を持つことに、気づいていないのだろうと、アイルは推測した。

 

「アイル、ついて来てください」

 エルヴィンは静かに促し、アイルの『部屋』を出る。

 彼は、寝台の脇にあるバルコニーの窓を開いた。

 冷たい外気が、一気に流れ込んでくる。

 エルヴィンが振り返り、言葉の代わりに穏やかな目で促した。

「見てください」

 彼が外を指差す。

 雨は、運良く止んでいた。

 とうの昔に日は暮れて、灰色の空と静寂が、聖都全体を覆っていた。

 

 塔から見下ろす聖都リザービリアは、まるで石の箱庭のようだった。

 この街は、小高い丘の上に築かれている。

 その最頂に位置するのが、教皇の住まいであるこの塔――太陽神教会の象徴だった。

 その高さゆえに、聖都の全貌が一望できた。

 いくつもの尖塔と、連なる建造物。時折噴き上がる、蒸気の白。

 石畳の道は迷路のように走り、広場の中央には祈りの場の屋根がのぞく。

 だが、それらのすべてを取り囲むようにして、分厚く高い城壁が立ちはだかっていた。

 まるで、街そのものが、巨大な檻に閉じ込められているかのように。

 

「ラグナ様は、基本的にこの塔から出ることがありません。用がある者は、自らここまで足を運ぶからです」

 エルヴィンは静かに言った。

 少しだけ迷って、アイルは言葉を継ぐ。

「それは、出ないのではなく……出られない、の間違いなのでは?」

 エルヴィンの返答はない。ただ琥珀色の瞳が揺れる。

 それを答えだと、アイルは受け取る。

「教皇陛下は、太陽神の現し身。神の代理人です。この世で最も尊く、絶大な権力を持つ方だと、私は今まで認識しておりましたが――記録官殿の様子を見るに、やはり違うのですね」

 どこまで踏み込むか悩み、アイルは結局そう口にしてしまった。

 同時に、エルヴィンはそれを理解させるために、窓の外を見せたのだろう。

 

 アイルは、視線を僅かに伏せた。

 塔の頂から見える景色は、本来なら権威の象徴のはずだった。

 それは、誰よりも高い場所にあって、誰よりも狭い。

 空を覆う灰色の雲と、塔を囲む壁。

 その内側だけが、ラグナの見ることのできる全てなのだと。

「アイル。貴方の察しの良さは、助かります」

「それをいうならば、記録官殿のやり口もでしょう? ですがおかげで納得しました。ラグナ様は、あの部屋が『自由』だと、本当に思われているのですね」

 アイルの言葉に、エルヴィンが困惑した表情を浮かべる。

 思わず笑って、アイルは自分の部屋へ向かう。

 窓を閉めたエルヴィンが、続く気配を感じた。

「ラグナ様は以前、教皇私室には許可を与えた者しか出入りできないと、私に話してくださりました」

 契約を結んだあの日、隣の部屋の椅子の上で、アイルはそう聞かされていた。

「まぁ、ですから――エルヴィン助祭。貴方が懸念するほどではありませんよ。私はラグナ様を信じております」

 小さな部屋に入って、そう言った。

 ラグナがその権力を持って、監視させないと示したのだから。

「私の階級をご存知で?」

「見ればわかりますよ。左手首の銀十字。緑の飾り石は助祭位の証でしょう」

 アイルは与えられた着替えを机の上に置きながら、エルヴィンの手首を示す。

「本当に目敏い。しかし、意外でした。貴方なら、もう少し怒るかと思っていました」

「まあ……野営や監査部屋を思えば、文句は言えませんよ」

 その言葉に、エルヴィンはわずかに苦笑した。

「必要なものがあれば、私にお申し付けください。可能な限りは対応します」

 そう言って、彼は一冊の手帳を差し出した。

「議会の議事録の写しです。貴方に関する内容ですから」

「私に?」

 アイルは少しだけ首を傾げた。

 渡された紙面には急いで筆写された跡があり、数箇所で文字が滲んでいた。

「後ほど、必ず目を通します」

 本来なら、アイルに読む権限はないはずだ。

 だからこそ、アイルは静かにそれを受け取った。

 

 ※

 

 エルヴィンが部屋を辞した後、アイルは与えられた部屋で議事録に目を通していた。

 おそらく、全ては渡されていない。

 けれど、許される限界をあの記録官は選んだのだろう。

 ふと、隣の部屋――ラグナの寝室の外に、人の気配がした。

 小さな音を立てて扉が開き、濡れた髪を肩に掛けたままのラグナが立っていた。

 重く堅苦しい衣装ではなく、簡素な衣服を身に纏う。

「居心地は、どうだ?」

 アイルの部屋に顔を覗かせた少年は、たしかに年相応の表情を浮かべている。

「エルヴィンも、それを気にしていたな。まぁ、悪くない」

 アイルは苦笑して、そう告げてやる。

 ラグナは何かを読み取るように視線を向けて――そして、そっと目を逸らした。

「……悪かった」

 短く、それだけを残して、ラグナは再び奥へと戻っていった。

 アイルは、その背を見送りながら、ふと思った。

 ――結局。

 自分も、あの人もどこにも行けない。

 お互いに、檻の中にいるのだ。

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