バグ・ロジック ―無能力者の成り上がり観測記― 作:来世で会おう
「……痛風、だと?」
無人の空間から響いた声は、先ほどまでの余裕が消え、明らかな苛立ちを含んでいた。
人間、図星を突かれると怒るものだ。それは能力者だろうが、ただのチンピラだろうが変わらない。
「違うか? さっきから君、移動のたびに右足への加重を避けている。透明化で姿は消せても、質量移動に伴う『床鳴り』のリズムまでは消せてないぞ」
俺はコンビニ袋をぶら下げた左手をだらりと下げ、右手でボサボサの頭を掻いた。
周囲の警官たちは呆気にとられている。無理もない。武装した特殊部隊が手も足も出ない相手に、栄養失調気味の一般人が喧嘩を売っているのだから。
「……殺す」
ふっ、と風が凪いだ。
殺気が肌を刺す。視覚情報はゼロ。だが、俺の脳内にはすでに、奴の行動予測ルートが赤線で引かれている。
(来るなら最短距離。怒りで視野が狭くなっている単細胞なら、正面突破だ)
俺は一歩も動かない。ただ、ポケットに入れていた右手で、百円ライターを握りしめただけだ。
ヒュッ!
俺の頬のうぶ毛が揺れるのと同時に、俺は首をわずか数センチだけ左に傾けた。
直後、さっきまで俺の頭があった空間を、見えない「拳」が通過する風圧が通り過ぎる。
「──は?」
透明人間が驚愕の息を漏らす。
俺はその隙を見逃さない。拳を振り切ったであろう空間の少し下──脇腹のあたりに向けて、手に持っていたライターを軽く放り投げた。
カツン。
空中で硬質な音が鳴り、ライターが何もない空間で弾かれた。
「やっぱりな」
俺は口角だけで笑う。
「攻撃の瞬間、君は『実体化』する。質量を持った拳で殴るためには、自分も質量を取り戻さなきゃいけないからな。
「偶然だ! マグレで避けてんじゃねえぞ!」
再び殺気が膨れ上がる。今度は連撃だ。
俺は半額弁当を守るように抱え込みながら、瓦礫が散乱する歩道へと後退した。
(マグレ? 違うな)
俺は避けているわけではない。「見えている」のだ。
奴が動けば、微細な気流が乱れる。
奴が息をすれば、空気中の湿度がわずかに変化する。
奴が踏み込めば、アスファルトの粉塵が舞う。
それら数千の環境情報を脳が並列処理し、そこに浮かび上がる「空白の人型」をリアルタイムでレンダリングしている。
凡人がスマホの画面を見ている間に、俺はずっとこの「世界のバグ」を見つめ続けてきた。その代償として青春も、まともな職も失ったが、今この瞬間だけは──俺は誰よりも
「ちょこまかと……!」
透明人間の焦りが濃くなる。
奴の攻撃は荒く、大振りになっていた。俺はショーウィンドウの破片が散らばるエリアへと奴を誘導していく。
「なあ、そろそろ種明かしをしてやろうか」
俺は息を切らすフリをして、膝に手をついた。
「君の能力は『光の屈折操作』と『分子透過』のハイブリッドだ。最強に見えるが、実は燃費が最悪だろ?」
「……黙れ」
「特に『透過』は脳への負荷がデカい。だから君は、無意識に呼吸のリズムに合わせて透過のオンオフを切り替えている。吸う時は透過、吐く時は実体化。……分かりやすいよ、君のバイタル」
嘘だ。
そんな法則はない。だが、こいつのような「自分の能力に溺れているタイプ」は、もっともらしい理屈を突きつけられると、無意識に自分の呼吸を確認してしまう。
(今、意識が呼吸に向いた)
その一瞬の迷いこそが、俺が待っていた
「ここだ」
俺は足元に落ちていた、砕けたショーウィンドウのガラス片──その中でも特に細かく、鋭利な破片が集まっている場所を指差した。
奴は俺を殴るために、大きく踏み込んでくる。
姿は見えない。だが、奴が「地面を踏みしめる」瞬間、そこには必ず重力が掛かる。
俺はポケットから、もう一つの武器を取り出した。
現場監督が昼休みにくれた、缶コーヒーの残り。それを口に含み──霧状にして、思い切り目の前の空間へ吹き付けた。
「ぶっ!?」
汚い? 生きるか死ぬかの瀬戸際だ、文句は言わせない。
空中に漂ったコーヒーの霧が、一瞬だけ人の形を縁取った。
奴は反射的に顔を覆い、後ずさる。
その足が、俺が誘導した「ガラス片の山」を、体重を乗せて踏み抜いた。
「──ギャアアアアッ!!」
絶叫が響く。
透過していればガラスなどすり抜けたはずだ。だが、俺のコーヒー攻撃に驚き、顔を守ろうと咄嗟に『実体化』してしまった。
その結果、奴の全体重が、鋭利なガラスの刃に突き刺さる。右足の裏が裂ける感触が、音として俺の鼓膜に届いた。
「痛いか? でも、まだ終わりじゃないぞ」
激痛で集中力が途切れれば、精密な計算が必要な『光学迷彩』は維持できない。
空間がノイズのように歪み、徐々に男の姿が露わになる。
ジャージ姿の、どこにでもいそうな若い男。右足を押さえてうずくまっている。
「く、そ……能力が、消え……!」
「言っただろ。君の能力は脳のキャパシティギリギリだって。痛みという強烈な信号が入れば、
俺は完全に実体化した男の前に立ち、手にしたコンビニ袋を揺らした。
中に入っているのは、のり弁。今は冷めてしまっているが、こいつのおかげで重心のバランスが取れた。
「チェックメイトだ。……警察の方々! 犯人、出てきましたよー!」
俺が間の抜けた声で叫ぶと、呆然としていた機動隊員たちがようやく我に返り、雪崩のように男を取り押さえた。
──
事件はあっけなく幕を閉じた。
確保された犯人は「悪魔だ……あいつは悪魔だ……」とブツブツ呟きながら連行されていった。悪魔じゃない、ただの貧乏人だ。
俺は誰にも礼を言わず、騒ぎが大きくなる前に現場を離れようとした。
弁当の片寄りを直しながら、路地裏へと足を向ける。
「──見事だな」
背後から声をかけられた。
警察官ではない。もっと重く、湿った、血の匂いを知っている者の声だ。
振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
黒いロングコートに、片目を眼帯で覆った初老の男。その佇まいは、周囲の闇に溶け込んでいるようだった。
「誰です? 俺はただの通りすがりですが」
「通りすがりが、ランクAの異能者を『缶コーヒー』と『言葉』だけで無力化するかね? 灰谷零くん」
俺は目を細める。なぜ俺の名前を知っている?
「……俺に何か用ですか。言っておきますが、金ならありませんよ」
「逆だ。金を稼ぐ気はないか、という話だよ」
男は懐から一枚の名刺を取り出し、指先で弾いた。
回転しながら飛んできたそれは、俺の胸ポケットに正確に収まる。
『警視庁・対異能犯罪特務班 室長
「君のその『眼』と、腐りきった性根。……我々の
久我山と名乗った男は、ニヤリと笑った。それは警察官というより、共犯者を誘う悪党の笑みだった。
「特務班……?」
聞いたことがある。警察内部でも「汚れ仕事」を専門とする、異能者たちの墓場みたいな部署だ。
「断ると言ったら?」
「君の先月分の家賃滞納、さらに言えば昨日の現場での備品窃盗未遂……すべて見逃してやってもいい」
俺は舌打ちをした。
完全に調べ上げられている。
「……日当は?」
「今の現場の十倍は出そう。ボーナスも弾む」
俺は胸ポケットの名刺に触れ、それから冷え切ったのり弁を見つめた。
十倍。それがあれば、明日は温かい飯が食える。
それに──この男の背後に見える「巨大な組織の闇」が、俺の脳裏に焼き付いている両親の死の謎と、どこかで繋がっているような気がしてならなかった。
「……話だけは、聞いてやりますよ」
灰色の空の下。
これが、俺が表の世界から姿を消し、異能を狩る「影」となる始まりだった。
(続く)