バグ・ロジック ―無能力者の成り上がり観測記― 作:来世で会おう
神代の全身から、凄まじい熱気が立ち昇った。
彼は零の言葉を信じ、意識のすべてを足元の冷却液──フルオロカーボン系の高効率熱媒体──へと集中させた。
「……おおおおおっ!」
神代が酸素分子の運動エネルギーを強制的に跳ね上げる。床に広がっていた液体が、一瞬で沸点を超え、猛烈な勢いで白煙を上げて気化し始めた。
サーバー室は瞬く間に、視界を遮るほどの濃密な「霧」に包まれる。
「無駄だと言ったはずだ! 霧を発生させたところで、私の『位相』は変わらない!」
侵入者が嘲笑う。だが、その声には微かな困惑が混じっていた。
彼が再び零を捕らえようと手を伸ばした瞬間、その指先が、零の喉元を通り過ぎて空を斬ったのだ。
「……何……!?」
「当たらないだろ。……神代、そのまま気化を続けろ。霧の『密度』に
零は冷静に、霧の中で揺らめく「影」を見つめていた。
侵入者の姿が、陽炎のように歪んでいる。
「種明かしをしてやる。……君の空間操作は、君自身の『視覚』に頼っているんだ。三次元の座標を脳内で認識し、それに対応する位相へ自分の肉体をズラす。……だが、この霧はどうだ?」
零は霧の中を悠然と歩き出した。
「神代が作ったこの霧は、場所によって温度も密度もバラバラだ。光の屈折率が狂い、君が見ている世界の『座標』と、実際の物理的な『位置』に、数センチの誤差が生じている。……レンダリングエラーだよ、お前の空間操作は」
「数センチのズレなど、力で押し潰せば済むこと!」
侵入者が苛立ち、空間を直接「握り潰す」ような動作を見せる。
バキバキと、虚空がガラスのように砕ける音が響いた。だが、その破壊の余波は零の隣を虚しく通り過ぎる。
「……見えた。そこだ」
零がポケットから、先ほど弄んでいた「十円玉」を取り出した。
それを、ただ投げるのではない。
神代が作った、局所的な「高圧気流」の渦の中へと、滑り込ませるように放ったのだ。
「神代、三時の方向! 圧縮空気を一気に解放しろ!」
「言われるまでもない!」
神代が残りのスペックをすべて注ぎ込み、空気の「砲身」を作り出す。
十円玉は超高圧の酸素に押し出され、
ガキンッ!
何もないはずの空間から、硬質な破砕音が鳴り響く。
侵入者のヘルメットの一部が砕け散り、そこから鮮血が霧の中に飛び散った。
「ぐ、ああああっ!? なぜ……位相を、貫通しただと……!?」
「位相を貫いたんじゃない。……君が『痛み』に反応して実体化した瞬間を、俺のロジックが追い越しただけだ」
零は霧の中から、侵入者の目の前へと姿を現した。
その瞳は、十年前の火の海の中で、両親の死を看取った時と同じ、凍てつくような「無」の色をしていた。
侵入者は膝をつき、砕けたヘルメットを抑えて激しく咳き込んだ。
神代が作り出した霧が晴れていく。
床には血痕が点々と落ちており、そこには確かに「物理的な実体」を持った男がうずくまっていた。
「……終わりだ。リストを返してもらおうか」
神代がふらつきながらも歩み寄り、酸素を凝縮した刃を侵入者の首筋に突きつけた。神代の鼻血は止まっておらず、限界を超えた能力使用による代償は明白だった。だが、その瞳にはエリートとしての矜持と、零への奇妙な信頼が宿っていた。
「……フ……フフフ……。まさか、名門の御曹司と、灰谷の亡霊にここまで追い詰められるとはな……」
侵入者が、血の混じった笑い声を上げた。
彼はゆっくりと顔を上げ、零を睨みつけた。
「……灰谷零。君は、自分の両親が何を研究していたか、本当に理解しているのか?」
「……『異能の起源』。そして、その制御方法だろ」
「違うな。……彼らが辿り着いたのは、『制御』などという生温いものではない。彼らが作ろうとしていたのは、この世界のバグを恒久的に固定する……『神の設計図』だ」
零の心臓が、大きく脈打った。
侵入者の言葉が、脳の奥深くに眠っていた古い記憶の断片と共鳴する。
父が最後に握りしめていたUSBメモリ。母が火の中で叫んでいた言葉。
「我々『パンドラ』は、その続きを引き継いだに過ぎない。君の両親を殺したのは我々ではない。……彼らの才能に恐怖した、君の隣にいるような『体制側』の人間たちだよ」
「……戯言を」
神代が低く唸る。だが、侵入者は動じない。
「君たちが守っているその『リスト』。……そこに載っている異能者たちが、なぜ生まれてきたのか。……いずれ、君も知ることになる。この世界のすべてが、人為的に作られた『バグ』であることをな」
次の瞬間、侵入者の周囲の空間が、今までとは比較にならないほど激しく歪んだ。
「神代、離れろ!」
零が叫ぶのと同時に、侵入者の体が「内側」へと折り畳まれるように縮小していく。
強制的な空間転移。
神代の酸素の刃が空を斬り、爆風がサーバー室を揺らした。
後に残されたのは、砕けたヘルメットの破片と、サーバーラックにこびりついた血痕だけだった。
ーー
事件から一時間後。
応急処置を受けた神代と、放心状態の凛華、そして零は、久我山の私室に集まっていた。
「……侵入者の逃走経路は追えない。空間転移の痕跡は、凛華のシステムでも追跡不能だ」
久我山は重苦しい口調で告げた。
彼のデスクの上には、侵入者が残したヘルメットの破片が置かれている。
「だが、収穫はあった。……凛華」
「……うん。零くんが攪乱してくれたおかげで、彼が盗もうとした【未登録異能者リスト】の中に、私が『
凛華が震える指で操作すると、ホログラムが浮かび上がった。
盗まれたデータには、不可視の追跡パケットが仕込まれている。それは今、東京の地下深く、地図に載っていないエリアで微弱な信号を発していた。
「パンドラ……。奴らの言っていたことは、本当なんですか、久我山さん」
神代が、包帯を巻いた腕を押さえながら問い詰めた。
「私の家族が……体制側が、灰谷の両親を殺したと。……特務班も、それを隠蔽しているんじゃないのか?」
久我山は答えなかった。
ただ、窓の外に広がる、偽りの平和に満ちた東京の夜景を見つめていた。
「……灰谷。君はどう思う」
零は、手の中の十円玉を見つめた。
侵入者を撃ち抜いた時、十円玉は高熱で歪み、黒ずんでいた。
「……誰が殺したかは、どうでもいい」
零の声は、どこまでもフラットだった。
「ただ、一つだけ分かった。……あいつらは、俺の『眼』を欲しがっている。なら、それを利用して、あいつらの喉笛を食い破るだけだ」
零は椅子から立ち上がり、部屋を出ようとした。
「おい、灰谷」
神代が声をかけた。
零が足を止めると、神代は気まずそうに顔を背けながら、ぶっきらぼうに言った。
「……さっきの霧の中。……私の背中を守ったのは、評価してやる。……借りは、次の任務で返す」
「……利子、高くつくぞ」
零はそう言い残し、暗い廊下へと消えていった。
一人残された凛華は、零が座っていた席の下に、一枚の紙片が落ちているのに気づいた。
それは、十年前の事故現場の記録写真のコピーだった。
写真の裏側には、零の筆跡ではない、乱れた文字でこう記されていた。
『バグを愛した息子へ。いつか、君が世界を
凛華はそれを静かにポケットにしまい、零の後ろ姿を追って、深い闇の中へと視線を向けた。
(続く)