バグ・ロジック ―無能力者の成り上がり観測記―   作:来世で会おう

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第8話:日常の亀裂、群衆の心理

 1. エリート、泥に降りる

 

 パンドラの侵入から三日。追跡信号は東京湾の地下深くに位置する旧軍施設跡で停止したまま動く気配を見せなかった。

 

 久我山室長の判断は「待機」。下手に踏み込めば敵の自爆を招き、唯一の手がかりを失うリスクがあるからだ。

 

「……というわけで、室長の命令だ。灰谷、貴様の護衛兼監視として、今日から行動を共にする」

 

 西新宿の薄暗い路地裏。築四十年のボロアパート『あけぼの荘』の前に、場違いな高級外車が止まっていた。

 

 運転席から降りてきた神代颯は、高級ブランドのカジュアルシャツに身を包んでいるが、その表情は死地へ向かう兵士のように硬い。

 

「護衛? 悪いが、君を座らせる椅子どころか、床に足の踏み場もないぞ、お坊ちゃん」

 

 俺はコンビニで買った「おつとめ品」のパンを齧りながら、三階の自室へと階段を上る。神代は眉間に深い皺を刻みながら、埃っぽい手すりに触れないよう細心の注意を払ってついてきた。

 

 ガチャリ、とドアを開ける。

 

 六畳一間の室内。そこには神代が想像していたであろう「貧困」とは少し違う景色があった。

 

 家具はほとんどない。だが、壁一面に古い回路図や、手書きの数式、さらには新聞の切り抜きが、まるで巨大なパズルのように隙間なく貼り付けられていた。

 

「……何だ、この部屋は。正気か?」

 

「脳の外部メモリだよ。俺の『眼』は情報を拾いすぎる。こうして紙に書き出して、論理の繋がりを固定しておかないと、寝ている間に脳がパンクするんだ」

 

 神代は呆然と壁を見つめていたが、やがて一枚の古い写真に目を止めた。

 

 俺と、笑っている両親。その写真は、唯一、数式に汚されていない場所に貼られていた。

 

「……灰谷。貴様は十年間、ずっと一人でこれ(復習)を続けてきたのか?」

 

「いいや、パンを齧りながら、どうやって次の家賃を払うか考えていただけさ」

 

 俺はパイプ椅子を神代に差し出した。

 

「座れよ。お茶はないが、水道水なら飲み放題だぞ」

 

 神代は複雑な表情で椅子に腰掛けた。エリートとしての誇りと、目の前の男が背負ってきた「泥」の重さ。その格差(ギャップ)に、彼は戸惑っているようだった。

 

 2. 凛華のティータイム

 

『あはは! 神代くん、顔が引き攣ってるよ! 自撮り送ってよ!』

 

 神代の耳に装着された通信機から、凛華の楽しげな声が漏れる。彼女はS.A.Sの作戦室で、ポテトチップスを片手にこの様子をフルHDで監視しているのだ。

 

「うるさいぞ、凛華! 私は任務を遂行しているだけだ!」

 

『任務ねぇ。あ、零くん、神代くんをからかうのもいいけど、ちょっと外を見て。新宿駅の東口。なんか「嫌な感じ」がするのよね』

 

 凛華の言葉に、俺は窓を開け、遠くに見える駅ビルの方角を見た。

 

 そこは、世界で最も乗降客数が多い巨大な迷宮だ。

 

「……嫌な感じ、か。確かに。……群衆の密度が、物理的にあり得ない偏り方をしてるな」

 

 俺の網膜が、数キロ先の「人の流れ」を捉える。

 

 通常、人の波は障害物を避けて滑らかに流れる。だが、今の新宿駅周辺は、目に見えない「防壁」があるかのように、特定の地点で不自然に滞留し、渦を巻いていた。

 

「神代、車を出せ。……放っておくと、数分以内に将棋倒しで死人が出るぞ」

 

 

 3. 「見えない壁」の正体

 

 新宿駅東口広場。そこは阿鼻叫喚の寸前だった。

 

 通勤客や観光客、数千人が入り乱れる中、ある特定の区画だけが「無人」になっていた。人々はその区画に近づこうとすると、理由のない恐怖感や不快感に襲われ、反射的に避けてしまう。その結果、周囲の通路に人が密集し、圧死寸前のパニックが起きようとしていた。

 

「どけ! 特務班だ! 道をあけろ!」

 

 神代が叫び、酸素を薄めることで群衆を物理的に押し開ける。

 

 だが、問題の「空白地帯」に踏み込もうとした瞬間、神代の足が止まった。

 

「……っ! 何だ、これは。急に、吐き気が……。この先に進んではいけないと、本能が拒絶している」

 

「神代、それは『本能』じゃない。……脳に直接打ち込まれた『偽の信号』だ」

 

 俺は平然と、神代を追い越して空白地帯へと歩を進める。

 

 確かに、一歩進むごとに脳の奥がチリチリと焼け付くような不快感がある。だが、俺の「眼」はその信号を、単なる「ノイズ」として処理していた。

 

「凛華、周波数を解析しろ。……ここ、特定の音域と、微弱な電磁波が干渉して『特定の情動』を誘発してる」

 

『了解! ……ビンゴ! 周辺のデジタルサイネージ(広告ディスプレイ)、全部ハッキングされてるわ。映像の裏側に、人間が認識できないサブリミナルな「嫌悪信号」が埋め込まれてる』

 

「犯人は、あの中心にいる」

 

 俺が指差した先。広場の中央にある噴水の縁に、一人の男が座っていた。

 

 男はスマホをいじりながら、周囲で起きているパニックを愉しそうに眺めている。

 

「……能力名【心理的死角(ブランク・スポット)】か」

 

 俺は男に歩み寄る。

 

「おい。自分の承認欲求のために、何千人を危険に晒すのは感心しないな」

 

「……あ? 何でお前、普通に歩いてこれんの?」

 

 男が驚いて顔を上げる。彼のランクはせいぜいC。だが、デジタル広告という「拡声器」を利用することで、能力を街規模に拡大させていたのだ。

 

「お前ら警察だろ? 近づくなよ。もっと信号を強くして、お前の脳をグチャグチャに──」

 

「神代、今だ。……『真空の音叉(おんさ)』を作れ」

 

「……何?」

 

「耳を塞いで、男の頭上で酸素を一気に膨張、直後に収縮させろ。音波による『逆位相のノイズ』で、あいつの脳を強制リセットするんだ」

 

 神代は一瞬で意図を理解した。

 

 彼は右手を男に向け、極限まで圧縮した空気の弾丸を、男の耳元数センチで炸裂させた。

 

 ──キィィィィィィィンッ!! 

 

 物理的な破壊力はない。だが、空気の激震が「音」として、男の平衡感覚と脳の演算機能を直撃した。

 

「あ、が……あ……っ!」

 

 男が泡を吹いて倒れる。同時に、広場を支配していた「目に見えない拒絶感」が、魔法が解けたように霧散した。

 

 4. 重なる影

 

「……ふぅ。やれやれ、のり弁一食分の労働にもなりゃしない」

 

 俺は、意識を失った男を警官たちに引き渡し、再び「おつとめ品」のパンを口にした。

 

 神代はまだ少し顔色が悪いまま、俺を見つめていた。

 

「灰谷。……貴様は、あの不快感をどうやって耐えた。私の能力をもってしても、脳が拒絶したというのに」

 

「慣れだよ。……俺にとっては、この世界の異能すべてが、耳障りなノイズなんだ」

 

 俺はそう答え、去ろうとした。

 

 だがその時、凛華の焦った声が通信機に飛び込んできた。

 

『待って、二人とも! 今の犯人のスマホ……解析したけど、これ、ただのハッキングじゃない!』

 

「何だと?」

 

『ハッキングプログラムのコードの中に、昨日パンドラの侵入者が残していった「あのヘルメット」のチップと同じ署名(サイン)が入ってる。……つまり、この男はパンドラから「力」を与えられた実験台だったってことよ』

 

 俺と神代の視線が交差する。

 

 ただの承認欲求モンスターによる嫌がらせだと思っていた事件が、再び「あの組織」に繋がった。

 

「……灰谷。追跡信号が動いたぞ」

 

 久我山室長の重い声が、全員の耳に届く。

 

「場所は──神代家が所有する、プライベート・リゾート島だ」

 

 神代の顔から、一気に血の気が引いた。

 

 自分自身の「家」が、宿敵の巣窟になっている可能性。

 

 

 

「……最悪の日常だな、お坊ちゃん」

 

 俺はパンの袋を丸めてゴミ箱に捨てると、初めて神代の肩を、力強く叩いた。

 

「行くぞ。……君の家の掃除、手伝ってやるよ」

 

(続く)

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