「見ろ、あれがテルモピュライの隘路だ」
コルネリウスは右手を上げると、はるか遠くに見える崖を指さした。聳え立つ岩壁の足元に、細々とした小道が見える。そのすぐ脇は一気に海に落ち込む絶壁だ。
俺たちは、山道を少し降りた場所にある見晴らしの良い尾根にいた。千人隊長は部下の百人隊長数人を伴っている。俺たち四人もその場にいて彼の説明を聞いていた。
「南方帝国の船団は町はずれの海岸に直接停泊はできない。地形が険しすぎるからな。それに町の港は先立って我々が完全に閉鎖した。従って唯一の上陸地点は神殿の丘から三キロ先にある砂浜に限られる。そこから神殿と町に接近する街道には一か所難所がある。それがテルモピュライだ。片方を岩壁、もう片方を海沿いの絶壁に挟まれており、その幅は二十メートルほどだ」
「た...隊長どの。そこをたった三百人で....」
俺が思わず声を漏らすと、コルネリウスは平然と頷いた。
「ああ。ファランクス隊形をとれば容易には突破できん。たとえ敵の人数が何万人であろうともな」
彼はそう言うとミレニウスを見た。
「君はどうするんだ、ミレニウス?」
「俺?」
ミレニウスは一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの眠たげな表情に戻った。
「俺はゴルギアスの奴が神殿に現れるのを待つ。そん時が分かれ目だ」
「分かれ目って....どういう意味だ?」
俺はミレニウスに尋ねた。すると彼は呟いた。
「....ゴルギアスは『収集機』の中に残ってる『霊気』を欲しがってるんだ。自分の体内にそれを取り込むためにな」
「....取り込む....と...どうなるんだ?」
俺は思わず声を落として尋ねた。
「奴は魔王になる」
ミレニウスは答えた。その口調は収穫の時期を話し合う農夫のように平静だった。
「ま....魔王....!」
俺は声を上げた。コルネリウスも眉を上げてミレニウスを見る。
「そう。魔王さ。あん中にギチギチに詰まった『霊気』...ことに『魔霊気』を取り込んじまったら、死ななくなるだけじゃあねえ」
ミレニウスはけだるそうに溜め息をき、言葉を継いだ。
「その力は魔物顔負け....ヘタすりゃあ人間とドラゴンの相の子みたいな化け物に変身しちまう。一度見てみな。そりゃぁおぞましいモンだぞぉ」
「ゴルギアス卿の狙いは不老不死だけではなく、まさにその絶大な力...ということか」
コルネリウスは腕組みすると呟いた。俺は額に汗が浮かぶのを感じた。
「そ....そいつは...止めないととんでもないことになるな」
「そうゆうこと」
ミレニウスは言うと、コルネリウスの肩に手を置いた。
「んなわけだ。個人的にはコルネリウス、お前さんを助けてやりたいが、こっちはこっちでやりたいことがあるんでね。ま、死なない程度に頑張ってくれ」
「ふん...」
コルネリウスは軽く笑うとこう応じた。
「励ましは感謝するが、ミレニウス...。死なない程度、というのは余計だ。私は王家のために死ぬ覚悟はいつでもできている」
「またそれかよ」
ミレニウスはやや鼻白んだ表情になった。
「コルネリウス、お前さんまさか....マカベウス王の暗殺を止められなかったから死んで落とし前をつけようとか思ってるんじゃぁねぇだろうな」
それを聞いたコルネリウスの顔から笑みが消えた。だが彼は何も答えず前を向いた。
「お前さんが自分を許せねぇから死んで帳尻を合わせようってんなら...それは違げぇと思うけどな。王女さんもまだ若けぇんだ。これからずっとお前さんを必要とするだろうよ。カッコ悪くても生きてたほうが俺はいいと思うがなぁ」
ミレニウスがボソボソとした声で続ける。だが、コルネリウスは顔を上げると百人隊長たちに指示した。
「町に降りて食料その他の物資を集めろ。念のため三日分だ。だがそれ以上はいらん」
「た...隊長どの。本当に全員玉砕するつもりなのですか?」
俺は思わず聞いた。だがコルネリウスはこちらに顔を向けることさえせずに、尾根を降り始めた。
* * * * * * * * * * * * * * * *
「....ったく。真面目一徹で融通が利かねぇったらありゃしねぇな」
遠ざかっていくコルネリウスたちの背中を見守りながらミレニウスが呟いた。
カエルス少年は目に涙を溜めながら言った。
「三百人で十万を....そんなのムチャだ....」
リラ嬢はミレニウスを見上げた。
「おじさん、止めないの?」
だがミレニウスは去っていく兵士たちを眠たげな目で見下ろした。
「無駄だよ。あいつはああいう男だからな」
「でも....おじさんが強く言えば...」
リラ嬢が言うとミレニウスはだるそうに溜め息をついた。
「勘弁しろや。俺はあいつの親じゃねぇんだ。あいつ自身が死にてぇんなら俺にはどうすることもできねぇよ」
そう言うと、ミレニウスは傍らに立っていた馬の手綱を引いて道を下り始めた。俺たちは彼についていった。彼は背に荷物を載せた馬の顔を見上げると、言葉を継いだ。
「この馬だってそうさ。王女さんを救った礼だって置いて行きやがったが、本音ではもう二度と乗るつもりはねぇってことだろ。あとはせいぜい死にざまを見届けてやるくらいしかできねぇさ」
「ミレニウス....援軍は来ないのか?」
俺が尋ねると彼は肩をすくめた。
「さあな。あいつのことだ、南方帝国の刺客どもを尋問して吐かせた時点で侵攻計画に気づいて連合国に伝令を出したはずだ。だけど受け取ったほうがどれくらいそれを真剣に取るかは、運次第ってとこもあるからな」
「見捨てられるかも....しれないんですね」
そう言いながらカエルス少年が片手で涙をぬぐった。
だが、その時ミレニウスがふと立ち止まった。
「匂う......な」
「どうした?何が匂うんだ?」
俺が尋ねると、ミレニウスはやや真剣な顔で言った。
「刺客どもだ。近くにいる」
「匂いで....わかるのか?」
「ああ。まぁ....正確に言うと...『空気の色』みたいなもんだが」
俺は周囲を見回した。何の変哲もない山道だ。周囲の木々の間から覗く空も、遠くに見下ろせる町も普段の通りだ。
だが、その時、鐘の音が聞こえてきた。
カーン...カーン...カーン...カーン...
澄んだ鐘の音は、数日前駐屯地で聞いたものとは違う。
聞こえてくる方角も山の中腹方面だ。
少し山道を下ると、やがて視界が開けた。少し眼下には、いつぞや泊まった修道院が見える。鐘の音は修道院から鳴り響いていた。
だが、礼拝を告げる鐘の叩き方とは明らかに違う。ヒステリックなほど連打しているのが見て取れた。
俺たちは足を止めると、目を凝らした。そして、目に入ってきた光景を理解すると、俺は息を呑んだ。
修道院の周囲に男たちが大勢たむろしている。服装と肌色から、明らかに南方人だ。皆武装している。そして数人が修道院の扉を激しく叩いていた。
「あ...あいつらいつの間に...!」
俺が思わず叫ぶと、ミレニウスが言った。
「...潜伏してやがったんだろうな。もうすぐ海を渡って味方がここを占領するからって待ちきれなくなったってとこだろう」
「...ルクレアさんが危ないぞ。おいミレニウス...早く千人隊長に知らせ.....」
「いや。俺が行く」
俺は思わずミレニウスの横顔を見た。その顔はいつもの眠たげな顔ではなかった。
「俺も.....」
「いや、俺ひとりでやる」
彼は俺に被せるように答えると、いきなり走り始めた。
俺は慌てて馬の手綱を持つと、カエルス少年とリラ嬢を伴って追いかけた。
だが、俺たちとミレニウスとの距離はアッという間に開いていく。ミレニウスの走り方は実に奇妙だったが、恐ろしく早かった。一歩一歩、地面を蹴って跳躍し数メートルを下る。まるで鹿や野山羊が走っているようなものだ。
やがて山道がなだらかになってきた。ミレニウスはもはやはるか前方にいる。俺は馬の背に乗ると、カエルス少年とリラ嬢を引っ張り上げた。
馬を走らせて追うと、やっと同じくらいの速度だ。俺たちはやがて修道院に裏から近づく道に入った。だがその頃には完全にミレニウスの姿は見えなくなった。
俺は速度を落とし、下馬すると、カエルス少年に手綱を託し、音を立てないよう指示した。剣を抜き、足音を忍ばせて修道院に近づく。
「アルァクイク・アジンズィ!アルァクイク・アジンズィ!」
男たちの叫び声と女たちの悲鳴が聞こえた。
「放して!放して!」
それを聞いた瞬間、俺の中で血が沸騰した。
ルクレアさんが危ない。
俺はダッシュすると、修道院の裏手から前庭の方に躍り出た。
だが、俺の目の前には仁王立ちになったミレニウスの背中があった。
「おわ...っと!」
突き当りそうになった俺は思わず勢いを挫かれて叫んだ。その瞬間、俺たちのすぐ横で南方人の武装兵が一人崩れ落ちていくのが見えた。
視線を建物の扉の前に移すと、後ろ手に手を縛られた修道女たちが座り込んでいる。怯え切った表情だ。その中に彼女もいた。ルクレアだ。
だが、女たちの脇にも致命傷を負った武装兵が倒れていた。
戦いは始まっていたのだ。
呆気に取られていた武装兵たちが、一斉に喚き声を上げて剣を振り上げる。反りのついた半月刀だ。
だが、ミレニウスが呟く声が聞こえた。小さな声なのに、なぜかハッキリと聞こえた。
「こいつに手を出す奴は...許さねぇ」
ミレニウスの横顔がチラリと見えた。その目は大きく開かれている。俺はなぜか背筋にひどい悪寒が走った。
次の瞬間、近くにいた武装兵が三人ほど殺到してきた。
ヴン...........
風鳴りの音がして、突風が吹く。ミレニウスが剣を振ったのだ。
武装兵のひとりの身体が袈裟斬りで真っ二つになる。二人目の腕も切り離され宙を舞った。
三人目が斬りかかる。だが、ミレニウスにはその角度も速度も読み切ったかのような動作で躱すと、また剣を振った。
そして彼は今しがた斬った相手に背を向けると、残りの敵に向き直った。まだ二十名ほどいる。
ミレニウスはやおら地面を蹴って敵方に突進した。奇妙な動きだった。地面の上を滑るように一挙に距離を詰める。
ヴン...........
慌てて刀を振り上げたひとりの両手が切断された。その隣の男が反応する前にミレニウスが剣を払う。大量の血しぶきが飛び、苦痛の叫びが上がった。
その頃になって、俺の目の前にいた男の頭部がゆっくりと首からズレて落ちて行った。
俺はやっとのことで剣を構えた。だがその頃には、武装兵たちがひとり、また一人と斬られ崩れ落ちていた。
ミレニウスの身体が、石だらけの川底を泳ぐ魚のように兵士たちの間を通り抜ける。その度ごとに血しぶきが跳ね、力の抜けた身体が倒れ、首や手が宙を舞う。
俺が今まで見た中で、最も奇妙な戦いだった。剣と剣が打ち合わされる音もしない。掛け声も、雄たけびもない。ただ、ミレニウスの剣が風を切る音だけが響く。
「アルツァ!アルツァ!」
生き残った男たちが叫ぶ。弓を構えた数人が前に出て、ミレニウスに狙いをつけ一斉に射撃した。
ヴン...........
またも凄まじい突風が吹いた。矢が全てヘシ折られパラパラと地面に落ちる。
それを見た武装兵たちは目に恐怖を浮かべ後退し始め、次の瞬間には悲鳴を上げながら修道院の前の坂を転がるように逃げ出した。
ミレニウスがそれを追いかける。俺も慌てて後を追った。
だが、坂の上に立った瞬間、俺は走るのを止めた。
坂を必死で駆け下る武装兵たち。ミレニウスは、先ほど見せた鹿のような足さばきで彼らを追っている。
剣が閃くたびに武装兵が倒れる。奇妙な夢を見ているような光景だった。ミレニウスに追い抜かれた者から順に、壊れた人形のように兵たちが倒れていくさまは滑稽ですらあった。
数秒後には、最後のひとりが倒れ、あれほど騒がしかった空気に静寂が戻った。
ミレニウスは足を止め、剣を血払いすると、ゆっくりと振り向き、坂を登ってこっちに戻ってきた。
だが、俺は彼を見て思った。
心中に浮かんだのは、尊敬よりも、賞賛よりも、畏怖だった。
こいつが俺の敵なら、絶対に勝ち目はない、と。