「セヴルス、こいつらを頼むぞ」
ミレニウスはそう言って歩き始めた。その手に握られた二本の剣が陽光を受けて鈍く光る。
「.........ちょっと行ってくるぜ」
俺が返事をする間もなく、ミレニウスは丘の頂上の端に立った。
次の瞬間――彼の身体がふっと沈んだ。
彼の姿が見えなくなった俺は慌てて彼がいた場所に走り寄った。
見下ろすと、ミレニウスは跳躍しながら道なき道を駆け下りている。
トンッ.....トンッ.....トンッ.....
鹿のように。いや、鹿より速い。
岩場を蹴る音すら聞こえない。ただ、影が滑るように動いている。
俺の隣に来たリラ嬢が息を呑んだ。カエルス少年は声も出せなかった。俺もその背中を目で追うしかなかった。
ミレニウスはあっという間に丘の麓にたどり着くと、帝国軍の群れに向かって足早に歩いていった。
隘路を突破した帝国軍は、それ以上の進軍を続ける前に、コルネリウス隊の処刑ショーを楽しむ心づもりだったようだ。皆、武器を下して寛いだり車座になって雑談している。
ミレニウスが近づいても気づきさえしなかった。だが、まるで仲間の一員であるかのような気軽な様子でミレニウスがその輪に入っていくと、数人がふと顔を上げた。
ミレニウスが軽く両手の剣を振った。準備体操のような何気ない動作だ。すると、その周囲にいた帝国軍兵士たちが糸の切れた操り人形のように崩れていった。
驚いた帝国軍兵士たちが警告の叫びをあげ、次々に武器を取り上げる。
その瞬間、ミレニウスが地面を蹴って走り始めた。またも、鹿のような奇妙な走り方だ。
近くの兵士たちの脇を通過する。剣が陽光にひらめく。たちまち数人が崩れ落ちる。
ようやく事態を理解した帝国軍兵士が次々と雄たけびを上げて斬りかかる。
ミレニウスはその斬撃すべてを最初から読んでいたかのように身を翻すと、ごく軽い動作で剣を振り抜く。
斬りかかってきた兵士たちが脱力したように武器を取り落とし、ゆっくりと倒れていった。
騒動は帝国軍陣営全体に急速に波及していった。誰も彼もが武器を取り、慌てふためいている。だが、ミレニウスから遠くにいる者たちはその存在さえ視認できておらず、いたずらに喚き声を上げながら首を振って辺りを見回しているばかりだった。
ミレニウスの周囲にいた兵士たちがあらかた倒れてしまうと、帝国軍は何かに気づいたようだった。
明らかに、『いつもと違う』相手だ。
コルネリウス隊は、頑強で、よく訓練され、士気の高い、打ち破るのが難しい『人間の壁』だった。
だが、今現れたこの男は、何もかもが違う。
兵士たちが遠巻きに包囲し始めると、ミレニウスは立ち止まって両手の剣を振って血払いした。
帝国軍の陣営から号令が聞こえ、隊列が整えられた。だがその瞬間ミレニウスはまた走り始めた。
両手の剣を左右に広げるように軽く持ち、滑るように突進していく。
迎え撃つ側の帝国軍の兵士たちは叫び声を上げながら武器を構えた。
同時に、帝国軍の陣営から一斉に矢が打ち上げられた。真っ黒になった矢の塊が、先ほどまでミレニウスがいた辺りに向かっていく。
だが、もはやミレニウスはそこにいなかった。彼に斬り捨てられた負傷者や、恐れ退いて遠巻きにしていた帝国軍の兵士たちが大量の矢を喰らって悲鳴を上げた。
一方、ミレニウスは整列した兵士たちに到達すると跳躍した。
トンッ...........
密集して武器を構えていた集団の前列を飛び越えて内側に降り立つと、彼は両手の剣を振った。
たちまち十人ほどが倒れる。
怒号と悲鳴が聞こえてくる。集団に立ち直る暇を与えず、ミレニウスは泳ぐように移動しながら剣を振り続ける。
彼が通過すると、次々と兵士が崩れ、倒れ、あるいは悲鳴を上げて武器を放り出す。
剣と剣が打ち合わされる音もない。
身体と身体がぶつかる音もない。
もはや、これは戦争ではなく『刈り取り』だった。ミレニウスは敵兵という畑に入っていって刈り取りを行っている農夫にしか見えなかった。その手際の良さは滑稽味すら感じさせた。
待ち構えていた集団が総崩れになり、大多数は怯えた声を上げながら西方向に退いていった。
だが、まだ勇ましいのが残っている。中隊規模の人数が槍を構えてミレニウスを取り囲み始めた。
槍対剣では圧倒的に不利だ。いくらミレニウスと言えども、無傷では済むまい。
俺は唾を飲み込み、拳を握りしめながら見守った。
槍兵が一斉に突進する。
数知れないほどの槍の穂先が突き出された。カエルス少年が叫び声を上げて目を手で覆った。
トンッ........
再びミレニウスが跳躍する。次の瞬間彼は槍の柄の上に乗っていた。そのままバランスを取り滑るように移動してく。
慌てた槍兵たちが今度は狙いを上げて穂先を突き出す。するとミレニウスの姿が突如として消えた。
カンッ...カンッ...カンッ...カンッ...カンッ...
槍の柄がみるみるうちに寸断され、それから槍兵たちが次々と悲鳴を上げて倒れ始めた。
眼を凝らすと、ミレニウスは極端に身を低くした姿勢を取っていた。槍のふすまを搔い潜り、兵たちの下半身に深手を負わせている。
槍兵たちの一角が崩れる。密集し過ぎて動きの取れない隊形のただ中にミレニウスは入り込んでいた。
そこから先は、一方的な戦いだった。
ミレニウスが身体を回転させると、数人が一気に倒れる。その居場所に敵が気づいた頃には、彼は魚が泳ぐように群衆の中を別の場所へ移動していて、次の瞬間にそこでまた数人が崩れ落ちる。
しかもミレニウスは時々あからさまに『手を抜いて』いた。
軽い手傷だけを負わせ、相手に悲鳴を上げさせるだけで通り過ぎる。
するとパニックに陥り反撃のつもりで武器を振り回した軽傷者が、周囲の仲間を次々と負傷させていく。
やがてパニックが伝染し、隊全体が統制を失って各々勝手に行動し始めた。
号令が何度も響いたが、誰も聞いていないようだ。祭りの日の群衆のように無秩序な群れの中で、ミレニウスは自由気ままに動いていてた。一か所で一挙に敵を薙ぎ倒したかと思えば、何もせずに歩き回り、別の箇所でまた剣を振り回す。
後方に控えていた軍勢から増援が駆けつけても、どこに敵がいるかもわからないまま右往左往し、パニックの渦に巻き込まれていくばかりだった。
「ぐ.......軍勢全体が止まってます......ね」
それを見ていたカエルス少年が茫然と呟いた。
「そりゃ...そもそも、敵がどこにいるのかもわかってないからな」
俺ももはや慄然としながら答えた。
「し.......信じられないです。ミレニウスさんって..........本当に人間なんでしょうか?」
少年が尋ねた。
「らしい......な。本人はそう言ってるからそうなんだろう。だが.........」
だが、と俺は思った。
今まで俺はとんでもないことを見落としていたのだ。
セレウコス邸の前でゴルギアス配下の兵たちと戦ったとき、
ミレニウスは明らかに『手加減』していたのだ。
刺されたのも、矢を受けたのも『わざと』だったのだろう。
ミレニウスが『本気』を出したら、百人程度だった彼らは一瞬で全滅だったろう。
ミレニウスは敢えてそうしなかったのだ。
無駄に殺さないためか。あるいはまだ子供のリラ嬢に余計な流血を見せないためか。
「セヴルスさん!見てください!」
その時、カエルス少年が叫んだ。
顔を上げると、彼は東の海を指さしていた。
陽光に照らされて光る海面。その向こうに小さな影がいくつも浮かんでいた。
「よく...見えないな。南方帝国の増援か?」
俺は嫌な予感に唇を歪めながら言った。だがカエルス少年が首を振った。
「違います!白い帆に白い旗印.....王国連合です!」
「じゃあ.....じゃあ......間に合ったのね!」
リラ嬢が弾けるように手を叩いて叫んだ。
俺は喜んだが、すぐ気を引き締めた。
援軍が到着するまで、コルネリウス隊の残りの者たちは生きていられるだろうか。その前に帝国軍が腹いせに処刑してしまったら終わりだ。
眼下の戦場に目を移すと、帝国軍は少しづつ後退していた。
ミレニウスは敵の群れの中に入り込み、相変わらず好き放題に剣を振り回している。次々と兵が倒れるが、振り向いたときには姿を消している。
帝国軍にしてみれば、まるで伝染病か何かを相手にしているようなものだ。
すると、捕らわれの身になっていた王家軍の生き残りの姿が徐々に見えてきた。武装を剝ぎ取られ裸ではあったが、まだ弱々しく動いている。
やがて、潮が引くように帝国軍が退いていくと、生き残りのうちの数人がヨロヨロと立ち上がった。コルネリウスの姿もある。
彼らは這うように近くに落ちていた武器に手を伸ばして拾い上げると、一斉にそれを天に突きあげ、足を引きずりながら帝国軍陣営のほうに向かっていった。
その時だった。
ミレニウスが戦うのをやめ敵の群れから出てくると、スタスタと歩いてコルネリウスに近づいていった。
その足取りのあまりの日常的な軽さに、俺は現実感覚を失いそうになってしまった。
ミレニウスはコルネリウスに何事か話しかけている。それに対し千人隊長は必死で身体を支えながら答えているようだ。
するとミレニウスは両の剣を地面に突き刺すと、おもむろに千人隊長に近づき、右の拳を振り上げてその顎を殴りつけた。
コルネリウスは失神して地面に倒れ伏し、周囲の王国軍兵士は茫然とそれを見つめた。
「ミレニウスさん.......いったい何をやって.....」
カエルス少年が目を丸くして言った。俺は呆れながら呟いた。
「ミレニウスにしてみりゃ.......せっかく助けに行ったのに死に急がれちゃぁたまったもんじゃないってことだろうな....」
ミレニウスは剣を拾い上げるとまた走り出した。唖然と見ていた帝国軍陣営がまた騒ぎ立つ。
「良かった.....国が救われたんですね...」
カエルス少年が涙を浮かべ、心底安堵した表情を浮かべた。だが俺は戒めた。
「まだ安心はできないぞ。帝国軍が諦めて撤退してくれたらいいが、逆にこれからが戦さの本番になるかも知れない」
それを聞いた少年は顔を引き締めた。
だが、リラ嬢は涙を手で拭いながら笑顔を浮かべている。
すると、その笑顔が凍り付いた。
彼女の目がだんだんと虚ろになっていく。
俺は怪訝に思い、反射的に彼女に向かって手を伸ばした。
だが、彼女は俺の手をすり抜けると、ゆっくりと膝から崩れ落ち、地面に倒れた。
「お..........お嬢様!」
「リラさん...!リラ...」
俺とカエルス少年は慌てて駆け寄り抱き起した。
すると俺は気づいた。リラ嬢の後ろ首に、小さな針が刺さっている。
危険信号が頭で鳴った。
敵襲だ。
俺は何かを考えるより先に、カエルス少年の腕を掴んで身を低くした。俺と、リラ嬢を抱えた少年の頭上を何かが高速で通り過ぎる。針のようなものが兜に当たって金属音を立てた。
俺は肩から弓を下して矢をつがえながら振り向き、何かが飛んできた方角に狙いをつけた。
視界に入ってきたのは黒い影。しかも複数だ。
一の矢を放つと、手応えを感じる前に二の矢をつがえた。その途端、押し殺した悲鳴が聞こえた。
すると丘の頂上の周囲ぐるりから、黒い影が次々と姿を現した。
黒装束。黒帽子に黒マスク。見えるのはギラギラと光る眼だけ。
忘れもしない。
南方帝国の刺客たちだった。