花嫁姿の少女が戴いたヴェールが暴かれると、――時間が、止まった。
閉じた瞼が花開いてはじめて現れる、熱に焦がされた砂糖の色の瞳。溶けそうなほどに緩んだ双眼を彩る、薄紅の頬と唇。熟れる前から馨しく薫る紅玉を思わせる姿は、天に愛された芸術家が白雪を削って創り上げたに違いなかった。
吐息ひとつ、少しの空気の震えで壊れてしまいそうな存在。
あまりにも場違いな生き物相手に甲板の男たちは息を呑んだ。開けば野太い声を出す口なものだから不用意に喉を動かすことすら躊躇うというもの。
名案だとばかりに皆横の男に倣えっていけば、甲板を包むのは不自然な沈黙である。
それでも静寂が訪れないのは波が震え、風が吹いているからだ。船の上に誰がいようとも変わらずに海に音は溢れている。
さて。潮風が一度、燦然とした日差しに透けるハシバミの髪を弄んだ。
花の薫り。鉄錆とも硝煙とも縁ない香りを纏う妖精のごとき子供は、無垢な微笑みを浮かべてこう紡いだ。
「ごきげんよう?」
衣装も言動も、そして美貌も。
シャルリアにとっては武器である。
生まれて十五年も経てば、この見目に映える言葉遣いも仕草も熟知するというもの。加えて今日は〝着飾る〟という言葉が霞むほどにシャルリアは丁寧に磨かれた後だ。
豪奢でありながらも繊細さを忘れることない純白の婚礼衣装に、その衣装に劣ることのない美貌。人懐っこさを感じられるような軽やかな
庇護欲をそそる容貌と一貫性のない言動は、気味の悪さと同時に神秘性を生む。
弱々しいでしょう? 間違っても敵にはならないでしょう?
可愛らしいでしょう? 壊しそうで触れるのも恐ろしいでしょう?
言葉遣いで、身体で。言語ではなく表現で訴えてみる。
結果、甲板に降り立った沈黙は雄弁であった。
(待って甲板?)
もはや条件反射で被った妖精の仮面であるが、そもそもシャルリアは現在地すら把握していなかった。
(目が覚めたら屈強な男たちに囲まれていた件について)
なにせほら、先程までぐずぐずと夢のなかにいたもので。
白ひげの船で過ごして三日。
落ちてきた
(身の安全を保証してもらう旨のことを言って、ってウタにはお願いしたけど)
まさか乗船するとは思わないではないか。
(どうとでも受け取れる言い方は完璧だった)
ウタによる発言――わたしたち
つまり、相手にどういう解釈をされるかわからない。
つまり、自分がどういう解釈を付けてもかまわない。
後出しするつもりで具体案を指し示さなかった結果ではあるものの、白ひげによる保護(であるのかの判断はまだ先送りであるが)は想定外。なんてったって笑い飛ばされたのだし。ただウタが白ひげを助けた形になった以上、今後ちょっとでも関係者への繋ぎができればラッキー程度の希望的観測はあった。
今後事態がどう転ぶかはわからないが、現状船長ニューゲートによる「客人」という公言のおかげで、シャルリアとウタはつつがない扱いを受けている。
得体の知れぬウタであったり、なにより世界貴族に連なるシャルリアに反感はあるだろうが、表立った冷遇などはなく、すっかり拍子抜けするとともに感心してしまった。戦後、それもお世辞にも善戦と言えない代物。気が立っていそうなものだが、シャルリアとウタに突っかかってくる者など一人もいなかった。一番隊隊長マルコという古株の預かりということもあり、
シャルリアたちが一日を過ごす場所は医務室だ。
船医たちの城では、確実に二人へと目が行き届く。そも命を預かる船医が、治療の妨げとなるような要素を自らの
――オヤジの顔に泥を塗ることなかれ。
彼らの根幹となる意思を思えば、知りに勝る統制力である。
(この統制力があっても戦争中に傘下から裏切りが出るんだから〝仏〟のセンゴクの知略に拍手を送るべきなのか、それとも〝海賊王〟ゴール・D・ロジャーの買った恨みに溜息を吐くべきなのか……)
過ぎたことは何も言えず、またシャルリアには当事者たちに問う術もない。
口を閉ざしたままで、鼻歌。ふと、手を動かしながら思考するシャルリアに声がかかる。
「あー、その、……何か不便なことはないかよい?」
強いて言うなら医務室から動けないことである。
しかしながらシャルリアは別に好んでここを出ようとは思わない。
何不自由なくという訳ではないにしろ、ここで身の安全を保証されているのは、あくまでも白ひげの公言「シャルリアとウタは客人」によるものであり、預かりを任されたマルコの人望と尽力によるもの。裏を返せば、二人のセンサーに引っ掛からない程度の悪意であればなにかしらの被害を被る可能性があるのだ。彼らの威光が仕事をしない恐れのある場所に、わざわざ出向く必要はない。
なので。この三日間で同じことを問われるたびに、シャルリアは小首を傾げて同じ言葉を返すようにしている。
「んーと、特にはない、です?」
「ならいいよい」
我儘放題言われるよりかはマルコとて手間がかからなくて良いだろうに、今日も今日とて、彼はちょっとだけ返答に見合わない顔をした。
「何かあったらおれを通して言ってくれよい」
白ひげの右腕的存在による「出来る限りの便宜は図るよい」の義理の言葉は、たとえ建前であっても有り難い。こういうタイプの組織では、上が丁重な扱いをする相手を、下は絶対に不義理には扱えないので。
(言い聞かせていただいてありがとうございます)
決して無人になることはない医務室で、あえて同じ問答をする意味――くれぐれも不用意なことをするなよ、
(仕事人だあ)
仕事といえば、ただ飯食らいというのも性に合わない。よりも、手持無沙汰からシャルリアは針仕事をさせてもらっている。
飲み食いして遊んでいたとしてもここにいる限り文句は言われたりしないだろうが、このどこか張り詰めた空気が満ちっぱなしの船で暢気に遊んでられるほど図太い神経はしていない。任せられた布巾やら袋やらの作成に関して特に納期はなく、急ぐこともない作業は仕事とは名ばかりの時間潰しのためのようなものだ。余所の持ち場にやることもできず、かと言ってないがしろにはできず、ようやく絞り出した妥協案。
現状シャルリアが対人業務を担うことは、ない。うん、妥当。
「ただいま」
「おかえり、お疲れさま」
しかし、ウタは違った。
活動的な彼女には医務室はどうにも窮屈で、針仕事なんてものには早々に飽きて放り出した……のではなくシャルリアの分担とし、
シャルリアのような目に見えて厄介事な
人柄の合う合わないは仕方ないにしろ、何やら可愛がられているというが、納得も納得。
(それはそう)
なにせウタの性質は
自由気ままに奔放で、でも目が離せなくて憎めない。つい助けてあげたくなってしまう。
――天性の〝愛される〟という素質。
赤髪の船で成長していれば、今よりももっとルフィに似ていたに違いない。それこそシャンクスの持つ
(だからこそ一番似てるのはエース)
素直なわりに卑屈なのは自己肯定感の低さゆえだ。
否定され、応えもなく。本来なら折れしまっても可笑しくない。ただ、他の追随を許さない才能があり、人や場所という環境に恵まれたために、上手く生きてくることができてしまった。
結果的に良い方向に進んだのを悪いこととは、決して思わない。でも。
(ほんっとままならない世界だよ)
寂しいことだな、とは思った。
考えている間に、壁を背に座って作業するシャルリアの横へと、ウタが座った。そして肩に頭を預けてくる。
「あのさあ……」とウタが言い淀んだので。
「どうしたの?」とシャルリアは訊いてみた。
「今日、その、甲板掃除だったんだけど」
「うん」
「なんか、……色々思い出しちゃって」
「うん」
「やっぱりさ、浮かんでくるのは楽しかったことばっかりなんだよ」
「うん」
「自分で言うのもなんだけどお転婆で」
「想像つくよ」
「それはどうも!」
何をいまさらとばかりに頷いてみれば随分と威勢の良い返事である。
「まあ、だから怒られたこととかもあるんだけど、それでもたぶん、ううん絶対、可愛がってもらった記憶のほうが多いの」
誰が聞いているかもわからない。ウタが自らの
話さないのが得策なのは理解していて、なおも積もる想いがあるからこそ吐き出さずにはいられないのだ。
だからせめて、と名も場所も伏せてウタが溢す。
「嫌われてたとは思えないの
「捨てられたとは、思いたくないの
「でも、目も、合わせてくれなかった
怯えた声音、か細く震える身体。
言葉にするのが怖いと思いながらも、それでも言葉を紡いでいく彼女の姿は懸命だ。
「わたしのこと、要らなくなっちゃったのかな……?」
つまり、それは。
それは、つまり。
「寂しい?」
「……うん」
ウタの思いを尊重するのなら、本当の意味でウタを救いたかったのなら、赤髪は彼女の手を離すべきではなかったのだろう。
望んだことではないとは言え、エレジアを亡国にしたのは違うことなくウタの能力である。最も罰せられるべきなのは幼子を唆した亡霊なのだとしても、起こってしまったことは変えられない。
それでも赤髪は国滅ぼしの罪を被った。汚名を背負うことで、受けなくても良い罰を受けた。
きっと人は、それを――愛と呼ぶ。
お互いを想い過ぎたが故に拗れた親子の関係を、本当の意味で知るのは現時点でシャルリアだけだ。事の背景も顛末も知っているからこそ彼女は
だからこそ、とシャルリアも語る。
「やっぱりウタは会うべきだよ
「目を見てしっかり話すの
「空虚に投げつけても何も返ってこないよ。そんなの自己満足にもならないよ
「だから、直接あの人にどうしてって訊くんだよ。そしたらきっと応えてくれるよ」
かつてのウタを、シャルリアは知っている。
画面の向こうの存在でしかなかったときだって、最期は赤髪と話すことができていた。実際に関わってみれば、なおのこと会話をすれば和解出来るだろうことも簡単に想像がつく。
でも、今すぐに、という話じゃない。
だったら、時がくるまではシャルリアが使わせてもらう。
「私を必要として」
手を組もう。
「私とお喋りして
「私を守って
「私のために能力を使って
「くだらないことで泣いて笑って私を楽しませて」
ウタがシャルリアを
友情がないとは言わない。ウタのことは好ましい。ただ、長らく
だからせめて、使う分は返さねばなるまい。
「愛してあげる」
趣味の悪い等価交換だ。
シャルリアは重ねる。
「わからないことは教えてあげる
「道に迷ったら手を引いてあげる
「落ち込んだときには慰めてあげる
「立ち止まったときには背中を押してあげる
「悩んだときには笑い飛ばしてあげる
「泣いてるときには抱きしめてあげる
「頑張ったときには頭を撫でてあげる
「どんなことをしでかしたって許してあげる
欲しかった言葉も、
やってほしかったことも。
亡国の日に心を置いたまま育ったウタが、無償の愛を受け取るだけ受け取って終われるわけがないことを、シャルリアは理解しているので。
親が子を慈しむように、子が親を焦がれるように。
欠けた部分は、全部シャルリアが与えて満たしてあげる。
「今とあんまり変わらないじゃん」と言われて、返すのは「そうかな?」
「でも、それでいいよ」と頷かれたので、抱きしめて「ありがとう」
ウタが赤髪と会うまでの一時的なものだ。人生まで縛るつもりはないので許してもらうとしよう。
「もしも要らないって言われたりとか、百万が一にも返ってこなかったらね」
そうしたらね、とシャルリアは続ける。
まず絶対有り得ないことであろうけれど。
「そうだなあ、そのまま二人で逃げちゃお。ぜーんぶ放っぽって、ぱーっと遊んで、面白可笑しく歳くって死ぬわけ」
その場合逃げ切れるかどうかはウタの力にかかっているのだが、まあご愛嬌ということで。
「で、来世あたりで親子になろ」
シャルリアのような
「今生は血も胎も身体も役に立ちそうにないから来世で生んであげる。可愛い
「わたしたちで?」
「そう、絶対苦労するけど絶対楽しいでしょ」
「あはは、悪くないかもね。でもシャルリアのことちゃんと呼べるかなあ」
「ん、乗り気? 今生から練習してくれていいよ? お母さんでも母上でもママでも」
「……お、お……」
照れか。それとも調子に乗り過ぎたか。
「……オフクロ……」
「いやどうしてそこで男気を発揮したし」