虹への道標 作:なお
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第0-1話 遠い夏
セミの声が遠くで響いていた。
部屋の中は、カーテンを閉めても暑い。
扇風機の風が、机の上の退学届をはためかせる。
牧宏斗は、ベッドの上で上半身を起こし、片手に松葉杖を抱えていた。
右足には固定用のギプス。
数週間経っても、痛みは消えてくれない。
身体よりも、心のほうが痛かった。
スマホの電源は切ったままだ。
連絡を取る気力もない。
ニュースの音も、SNSのざわめきも、どれも遠く感じた。
外では子どもたちの笑い声が響いている。
夏休みが始まったばかりだというのに、
宏斗の部屋だけは、季節から取り残されたように静かだった。
「……水、切れたな」
喉が渇いた。
松葉杖を脇に挟み、壁を伝いながら立ち上がる。
数歩進むだけで、全身の力が抜けていく。
冷蔵庫までの距離が、こんなにも遠いなんて思わなかった。
水のペットボトルを掴んだ瞬間、バランスを崩して倒れた。
鈍い音と、痛み。
息を詰めながら床に横たわる。
情けなさが込み上げて、目頭が熱くなった。
「……なにしてんだ、俺」
握りしめた手のひらに汗が滲む。
かつては誰よりも速くコートを駆け抜けていた脚が、
今は、数歩歩くことすらできない。
数日が過ぎた。
空は今日も、真夏の青をしていた。
気分転換として、宏斗は珍しく、ベランダに出た。痛みすら感じる日差しと容赦ない空気が身体を包み込む。
その時、隣のベランダの窓が開き、隣から声がした。
「……宏くん?」
声がするほうに顔を向けるとベランダ越しに一人の女の子が立っていた。彼女の名前は上原歩夢。宏斗の幼馴染だ。
久しぶりに見るその姿は、変わらず優しい笑顔をしている。
「ひさしぶり。こっちに帰ってきてたんだ。連絡くれたら会いに行ったのに」
「……悪い。ちょっと、色々あって」
宏斗は苦笑いを浮かべて答える。
歩夢の視線が、宏斗の足へと向かう。
白いギプスと、寄りかかる松葉杖。
一瞬、空気が止まった。
「……宏くん、それ……」
「怪我。まあ、派手にやった」
「そんなに……痛くないの?」
「平気だよ」
嘘だった。
宏斗は、できるだけ明るく笑おうとした。
だがその笑みは、どこか無理をしているのを歩夢はすぐに見抜いた。
「……学校は?」
「……やめた」
「……え?」
歩夢の瞳が揺れた。
しばらく言葉を失い、ただ風の音だけが二人の間を流れた。
「やめちゃったの……?」
「うん」
短い返事だった。
それ以上、理由を聞かれたくなかった。
歩夢は小さく息を飲み、悲しそうに目を伏せた。
夕陽が彼女の髪を染め、涙のような光が頬を照らす。
「……そっか。ごめん、知らなかった」
「気にすんな。俺が決めたことだし」
宏斗の声は静かで、どこか遠かった。
けれどその目は、どこか助けを求めているようにも見えた。
少しの沈黙のあと、歩夢が小さく笑った。
その笑みは、悲しみの中に優しさを混ぜたような色をしていた。
「ねえ、宏くん」
「ん?」
「もし……次、どこか行くところが決まってないなら、うちに来なよ」
「うち?」
「うん。虹ヶ咲学園。海が見える学校だよ。いろんな人がいて、みんな自分のペースで頑張ってる。……宏くんも、ゆっくりでいいから、元気になってほしいなって思うの」
その言葉は、優しいのに、真っ直ぐだった。
風の中に溶けていくような声なのに、心の奥にまっすぐ届いた。
「……俺なんか、行っても浮くだけだろ」
「そんなことないよ。宏くんはこれまで頑張りすぎた人だし、今はゆっくりしても良いんじゃないかな。もし、今は歩けなくても──また立てるようになる。そう信じてる」
歩夢は微笑みながらそう言った。
宏斗は目を伏せ、言葉を失った。
何かが胸の奥で溶けていく感覚。
歩夢の言葉が、久しく感じなかった“あたたかさ”として沁みてくる。
「……ありがとな、歩夢」
「ううん。宏くんが笑ってくれたら、それでいいの」
彼女はそう言って、柔らかく笑った。
その笑顔を見て、初めて心の中に小さな光が灯った気がした。
夜。
宏斗はベッドに横たわり、天井を見上げていた。
松葉杖が壁に立てかけられ、足の痛みがまだ残っている。
でも、あの言葉が耳から離れなかった。
「うちに来なよ。虹ヶ咲学園。」
彼女の声が、何度も何度も頭の中で響く。
傷だらけの脚に、もう一度力を入れてみる。
まだ痛い。けれど、ほんの少しだけ、動かせた気がした。
窓の外では、風鈴の音が涼しく鳴っている。
夏の風が頬を撫でた。
「……虹ヶ咲、か」
小さく呟いた声は、どこか希望の色をしていた。
まだまだラブライブは勉強中なので未熟者ですがよろしくお願いします!