虹への道標   作:なお

2 / 4
第0-2話 風を吹かせる

朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の壁に細い光の筋を描いていた。

蝉の声が遠くで鳴いている。

夏休みが始まったばかりだというのに、部屋の空気は重く、息を吸うたび胸に圧がかかるようだった。

 

牧宏斗はベッドに座り、右足をギプスで固定し、松葉杖を脇に抱えていた。

数週間前の怪我は、まだ完治していない。

松葉杖なしでは、数歩も歩けない。

それでも、決めたことがあった。

 

「……行こう」

 

机の上に置かれた封筒を見つめる。

虹ヶ咲学園の編入試験願書。

歩夢に勧められ、迷った末、昨日署名をした。

迷いはあった。けれど、それでも前に進むしかなかった。

 

数日後。

夏の強い日差しの下、松葉杖を突きながら玄関を出る。

一歩一歩、足に響く鈍い痛みに、胸がぎゅっと締め付けられる。

それでも、心の奥には、ほんのわずかに希望の光が差していた。

 

虹ヶ咲学園の校門をくぐると、潮の匂いと開放感に包まれる。

普段通るだけでも、空気が違う。

学校の外観は、海に面した開放的な造りで、どこかのびのびとしていた。

 

教室に入り、編入試験が始まる。

科目は国語、数学、英語。

もともと成績には自信があり、少し復習していただけで、ペンは自然に走った。

文字を追いながら、久しぶりに心が少し落ち着く。

勉強だけは裏切らない、そんな安心感があった。

 

試験が終わり、校舎の廊下を松葉杖でゆっくり歩く。

周囲の景色に目をやると、体育館の方向からボールの弾む音が聞こえてきた。

 

“ドン、ドンッ──”

 

思わず足が止まる。

久しぶりに聞くあのリズムに、胸の奥がざわついた。

懐かしい、という感覚でもない。

ただ、心のどこかに引っかかる感情があった。

 

音のする方向へ、無意識に歩を進める。

体育館の窓越しに見える光景に、宏斗は一瞬息を飲んだ。

 

コートの中で、バスケットボールを軽やかに操る女子がいた。

その動きは正確で、スピードがあり、観客もいない中で淡々とシュートを決めていく。

「すごい……」

思わず呟く。

名前も知らない。顔も知らない。

それでも、目の前の光景は、心を揺さぶった。

 

胸の奥で、かつての自分が蘇る。

汗まみれでコートを駆け、仲間と笑い、ボールに夢中だった日々。

右足に痛みが走ると同時に、ぎゅっと胸が締め付けられ、急にその場から離れたくなった。

 

「……帰ろう」

 

慌てて視線を逸らし、体育館を後にする。

過去の自分と今の自分の距離が、はっきりと目に見えた瞬間だった。

 

 

数日後、編入試験の結果が届く。

封筒を開けると、合格の文字が目に飛び込んできた。

母はほっとしたように微笑み、

「よかったね、宏斗」と声をかけてくれた。

 

それでも、心の奥の穴はまだ埋まらない。

それは、身体の痛みと同じくらい、簡単には消えなかった。

 

編入初日。

教室に入ると、クラスメイトたちの視線が集まる。

 

担任教師からクラスメイトに紹介され、軽く挨拶をする。

 

「牧宏斗…怪我しているけどよろしくお願いします」

 

 

 授業が終わり、授業合間の休憩時間。クラスメイト達が、俺の机に集まってくる。

 

「どこから来たの?」「ケガは大丈夫?」「LINE交換しない?」

質問の嵐。

松葉杖をつきながら答えるだけで、心のエネルギーが少しずつ削られていく。

 

昼休み、廊下で一息ついていると、後ろから声がかかった。

 

「宏くん、お疲れさま」

 

振り返ると、歩夢が笑顔で立っていた。

彼女は初日からの慌ただしい環境の中で、安心できる存在だった。

 

「質問攻めで参ったよ」

「ふふっ、でも、みんな宏くんに興味あるんだよ。

 新しい風って感じ」

 

「俺が“風”か……足も痛いのに」

「それでも、ちゃんと前に進んでるよ」

 

その言葉に、胸の奥が少し温かくなる。

松葉杖に頼りながら歩く自分の足も、少しずつ軽く感じられた。

 

「ありがとう、歩夢。お前がいなかったら、ここまで来れなかった」

「そんなの、気にしなくていいよ。

 宏くんがここにいてくれるだけで十分だから」

 

夕陽が校舎の窓をオレンジに染める中、二人はゆっくり歩いた。

風が頬を撫で、海の匂いが微かに漂う。

 

「……こういうの、悪くないな」

「ん?」

「なんでもない」

 

小さく笑った顔に、歩夢も自然に笑みを返す。

止まっていた時間が、ほんの少しずつ動き始めた瞬間だった。

 

松葉杖をつきながらも、確かに一歩を踏み出した。

それはまだ小さな歩幅だが、確実に、前に進むための一歩だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。