虹への道標 作:なお
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の壁に細い光の筋を描いていた。
蝉の声が遠くで鳴いている。
夏休みが始まったばかりだというのに、部屋の空気は重く、息を吸うたび胸に圧がかかるようだった。
牧宏斗はベッドに座り、右足をギプスで固定し、松葉杖を脇に抱えていた。
数週間前の怪我は、まだ完治していない。
松葉杖なしでは、数歩も歩けない。
それでも、決めたことがあった。
「……行こう」
机の上に置かれた封筒を見つめる。
虹ヶ咲学園の編入試験願書。
歩夢に勧められ、迷った末、昨日署名をした。
迷いはあった。けれど、それでも前に進むしかなかった。
数日後。
夏の強い日差しの下、松葉杖を突きながら玄関を出る。
一歩一歩、足に響く鈍い痛みに、胸がぎゅっと締め付けられる。
それでも、心の奥には、ほんのわずかに希望の光が差していた。
虹ヶ咲学園の校門をくぐると、潮の匂いと開放感に包まれる。
普段通るだけでも、空気が違う。
学校の外観は、海に面した開放的な造りで、どこかのびのびとしていた。
教室に入り、編入試験が始まる。
科目は国語、数学、英語。
もともと成績には自信があり、少し復習していただけで、ペンは自然に走った。
文字を追いながら、久しぶりに心が少し落ち着く。
勉強だけは裏切らない、そんな安心感があった。
試験が終わり、校舎の廊下を松葉杖でゆっくり歩く。
周囲の景色に目をやると、体育館の方向からボールの弾む音が聞こえてきた。
“ドン、ドンッ──”
思わず足が止まる。
久しぶりに聞くあのリズムに、胸の奥がざわついた。
懐かしい、という感覚でもない。
ただ、心のどこかに引っかかる感情があった。
音のする方向へ、無意識に歩を進める。
体育館の窓越しに見える光景に、宏斗は一瞬息を飲んだ。
コートの中で、バスケットボールを軽やかに操る女子がいた。
その動きは正確で、スピードがあり、観客もいない中で淡々とシュートを決めていく。
「すごい……」
思わず呟く。
名前も知らない。顔も知らない。
それでも、目の前の光景は、心を揺さぶった。
胸の奥で、かつての自分が蘇る。
汗まみれでコートを駆け、仲間と笑い、ボールに夢中だった日々。
右足に痛みが走ると同時に、ぎゅっと胸が締め付けられ、急にその場から離れたくなった。
「……帰ろう」
慌てて視線を逸らし、体育館を後にする。
過去の自分と今の自分の距離が、はっきりと目に見えた瞬間だった。
数日後、編入試験の結果が届く。
封筒を開けると、合格の文字が目に飛び込んできた。
母はほっとしたように微笑み、
「よかったね、宏斗」と声をかけてくれた。
それでも、心の奥の穴はまだ埋まらない。
それは、身体の痛みと同じくらい、簡単には消えなかった。
編入初日。
教室に入ると、クラスメイトたちの視線が集まる。
担任教師からクラスメイトに紹介され、軽く挨拶をする。
「牧宏斗…怪我しているけどよろしくお願いします」
授業が終わり、授業合間の休憩時間。クラスメイト達が、俺の机に集まってくる。
「どこから来たの?」「ケガは大丈夫?」「LINE交換しない?」
質問の嵐。
松葉杖をつきながら答えるだけで、心のエネルギーが少しずつ削られていく。
昼休み、廊下で一息ついていると、後ろから声がかかった。
「宏くん、お疲れさま」
振り返ると、歩夢が笑顔で立っていた。
彼女は初日からの慌ただしい環境の中で、安心できる存在だった。
「質問攻めで参ったよ」
「ふふっ、でも、みんな宏くんに興味あるんだよ。
新しい風って感じ」
「俺が“風”か……足も痛いのに」
「それでも、ちゃんと前に進んでるよ」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
松葉杖に頼りながら歩く自分の足も、少しずつ軽く感じられた。
「ありがとう、歩夢。お前がいなかったら、ここまで来れなかった」
「そんなの、気にしなくていいよ。
宏くんがここにいてくれるだけで十分だから」
夕陽が校舎の窓をオレンジに染める中、二人はゆっくり歩いた。
風が頬を撫で、海の匂いが微かに漂う。
「……こういうの、悪くないな」
「ん?」
「なんでもない」
小さく笑った顔に、歩夢も自然に笑みを返す。
止まっていた時間が、ほんの少しずつ動き始めた瞬間だった。
松葉杖をつきながらも、確かに一歩を踏み出した。
それはまだ小さな歩幅だが、確実に、前に進むための一歩だった。