現パロっぽい要素があります。
スズ×レトになるかと思います。
湯気の匂いがまだ肌にまとわりついていて、髪の先から落ちた水滴が、床に小さな点を作った。タオルを肩にかけたまま廊下へ出ると、夜更けの空気が少しだけ冷たくて、火照りが遅れて引いていく。リビングの灯りは落としてあって、窓の外の街灯がカーテンの隙間に細い線を引いていた。
ソファの端に腰を下ろした瞬間、背中の力が抜けそうになる。眠気がまだ残っていて、まぶたの裏に湯船の白さが貼りついて離れない。
『あれ、スーちゃん?どうしたの?』
ルルの声はいつも通り柔らかい。近づく気配に、シャンプーの甘い匂いがふわっと混じった。
『いや、お風呂で寝ちゃってさあ……』
言いながら、首の後ろを指で押す。そこだけ、妙に固い。
『お疲れ様だね〜。肩、揉んであげよっか』
返事をする前に、ルルが背後へ回って、両手を私の肩に置いた。指が沈むたび、奥に溜まっていた重さがじわっとほどけていく。押される位置が的確すぎて、逆に笑いが出そうになるのに、声は息だけになって漏れた。
『ああぁ〜……そこ……』
『えへへ〜。いっぱい気持ちよくなってくれたら、嬉しいな〜』
指先がゆっくり移動していく。押されるたび、呼吸が深くなる。背中の芯が少しずつ温まって、さっきまで張りつめていたものが、薄く剥がれていく感じがした。
そのとき、部屋の奥で唐突に電子音が鳴った。静けさを割る、いつもより大きなチャイム。家の中の空気が一段跳ねて、ルルの手がぴたりと止まる。肩に残った指の温度だけが、急に輪郭を持った。
『ん、こんな夜中に誰だろ』
返事を待たずに、もう一度チャイムが鳴る。短く、催促するみたいに。
親機の画面が廊下の壁で淡く光った。暗い家の中で、その四角だけが浮いて見える。画面の隅に『エントランス』の表示が出ていた。私はタオルの端を握り直して、画面の前に立つ。
モニターに、背の高い影が映っていた。入口灯の白い光をまとって、輪郭だけが硬い。顔ははっきり見えないのに、立ち方で分かる。
『……大佐』
通話ボタンを押すと、機械越しのノイズがわずかに混じった。相手の息遣いは聞こえない。ただ、沈黙が重い。
『出かけるぞ』
スピーカーから落ちてくる声は低く、いつも通り硬い。まだ集合玄関の向こうにいるはずなのに、家の中まで押し入ってくる。
『え、こんな時間から?』
言いながら、画面の中の影から目を逸らせない。返事の間も、大佐は動かない。
『そうだ。早くしろ』
言い切られて、喉の奥が乾く。理由が出てこないことが、いちばん嫌だった。
『ルルは?』
背後の気配を確かめるように、わずかに振り返る。リビング側でルルがこちらを見ている。暗がりの中で、目だけが心配そうに光った。
『お前だけだ』
短い答え。画面の中の影は、それ以上の説明をする気配がない。
『……いきなり何?』
声が荒くなりかけて、私は息を飲み込む。通話の向こうで、沈黙が少しだけ長くなった。
『いいから黙って来い』
機械音が、その言葉をさらに冷たくする。
『はあ……はいはい』
ため息で言葉を押し出して、私は通話を切った。画面が暗くなって、残ったのは自分の呼吸だけだった。
『ルル。少し出かけてくる』
言いながら、私は声の調子をわざと軽くした。深刻さを持ち込みたくなかった。理由を言えないのは、私も同じだから。
『こんな遅くに?大丈夫?』
ソファの影がわずかに動いて、ルルの声が返る。心配が、まっすぐに滲んでいる。
『大佐が着いて来いってうるさくてさ。まあ、すぐ帰ってくるよ』
言い訳みたいに笑ってみせる。自分でも薄いと思うのに、ルルの前ではこれ以上の言葉を選べなかった。
『そっかあ。気をつけてね』
柔らかい返事が返ってきて、逆に胸が痛んだ。背中を向けたまま、私は小さく頷く。とりあえず上着だけ掴んで羽織り、玄関の方へ足を進めた。
靴を履く音が、夜の家に響く。鍵の金属音が短く鳴り、扉を開ける。共用廊下の冷えた空気が頬を撫でて、背後で扉が閉まる音がした。部屋の温度が、そこで切り離された。
◇
エレベーターを降りた瞬間、外の冷気が肌を刺した。オートロックのガラス扉を抜けると、夜の空気は部屋の中とは別物だった。街灯の白い光が、アスファルトを薄く濡らしたように照らしていて、遠くの車道の音だけが低く続いている。さっき羽織った上着の内側に、まだ家のぬくもりが残っているのが分かった。
入口の脇に、大佐が立っていた。風に髪がわずかに揺れても、姿勢だけは崩れない。視線がこちらへ向いた瞬間、呼吸の乱れまで測られた気がして、胸がひとつ縮む。
顎をわずかに動かされて、私は黙ってついていく。駐車場へ向かう足音が二人分、同じ間隔で伸びていく。深夜の敷地は妙に広く感じて、数歩歩くだけで自分の体温が外へさらわれていった。
車はすぐそこに停まっていた。ロックが外れる乾いた音が、夜気に吸われていく。
『乗れ。スーズ』
『はいはい……っと』
助手席に滑り込むと、シートの冷たさが背中に貼りついた。ドアを閉めた途端、外の音が薄くなる。ガラスの向こうで街灯の光が滲んで、大佐の影が運転席に収まる。
『出すぞ』
エンジンが低く唸り、車体がわずかに震えた。暖房が入るまでの数秒、車内は外と同じ温度のままだった。発進の揺れが腹の奥に伝わって、私は無意識にシートベルトを引く。金具が噛み合う音が、やけに大きい。
街灯の光が、窓の外を一定のリズムで流れていく。マンションの敷地を抜け、曲がり角をひとつ越えても、行き先を示すものは何もない。大佐は前だけを見ている。ハンドルを握る手の位置も、迷いがない。
『どこに行くの』
返事の代わりに、ウインカーの音が一度だけ鳴った。短く曲がって、また直進。答えは出ない。
『着けばわかる』
それだけ。言葉の端が切れて、会話の余地が閉じられる。車内に残るのは、エンジン音と、タイヤが路面を噛む微かな摩擦音だけだった。
返事が短いほど、喉の奥が狭くなる。インターホンの画面越しに見た影の硬さが、そのまま隣に座っているみたいで、目を逸らす場所がない。
『……また教えてくれない。どうしていっつも、私にだけ何も教えてくれないの』
言ってしまってから、声が少し震えているのに気づく。暗さが、その震えを拾って膨らませる。大佐は視線を逸らさないまま、ほんの少しだけ眉を動かした。
『別に、今に始まった話じゃないだろう』
返事は返る。けれど、隙間だけが残る。私は窓の外へ目をやって、流れていく街灯の列を追った。ガラスに映る自分の顔は薄く青白い。さっきまでルルの手の温度が残っていた肩が、今は冷えている。
『あの時もそうだった。私が何も知らないまま、あなたの隣にいたくないって知ってたくせに。あの時、私に全部託してくれたのは……なんだったの』
言葉が止まらない。止めたいのに、止まらない。胸の奥に沈んでいたものが、加速の揺れに押し上げられて、喉のあたりまで来てしまう。大佐の横顔は変わらない。けれど、ハンドルを握る指先が一瞬だけ強くなるのが見えた。
『私は……何も変わっていない』
その言葉が、逆に痛かった。変わっていないなら、どうして今も同じやり方を選ぶのか。どうして私の前でだけ、こんなに遠くにいるのか。
『嘘。あなたは変わった。もう、私に懐中時計を託してくれたあなたじゃない』
声が強くなる。強くなった分だけ、胸のどこかが冷える。血の匂いと、空気の冷たさと、懐中時計の重さ。あれを私に渡した手の温度。あの瞬間だけは、確かに“私”を見ていた。
『スーズ』
名前を呼ばれると、背中が固まった。怒られると思った。あるいは、また黙られると思った。どちらも嫌だった。
私は視線を落として、膝の上で指を絡める。爪が掌に食い込んで、痛みが小さく走る。責めたいわけじゃないのに、言葉だけが尖っていく。ただ、置いていかれたくない。
『……ごめん。こんなこと、言いに来たわけじゃないのに』
謝った瞬間、息がやっと入った。胸の奥で引っかかっていたものが、遅れて下へ落ちる。私はシートベルトの端を掴み直して、指の力をほどいた。車内の暖房が少しだけ効き始めて、吹き出し口からぬるい風が足元に当たる。その温度が、余計に今の自分を浮かび上がらせた。
大佐は何も言わない。ワイパーも動かない乾いたフロントガラスの向こうで、街の灯りだけが淡々と流れていく。けれど沈黙の中で、エンジンの回転がわずかに落ちた。速度がほんの少しだけ緩む。
その変化が、私には答えのように思えた。
◇
車が減速すると、音が変わった。アスファルトの硬さが途切れて、タイヤが細かい粒を噛む。車体が小さく揺れ、窓の外の闇が少しだけ近づいた。遠くの街灯が、海の縁だけを薄くなぞっていて、波が砕けるたび、白い線が短く浮いては消える。
『着いたぞ。降りろ』
『うん。ここは……』
シートベルトを外す金具の音が乾いて響いた。ドアを開けた瞬間、潮の匂いが一気に入り込む。冷たい風が頬を撫で、髪の隙間にまで潜り込んでくる。足を地面に下ろすと、砂利の感触が靴底越しに伝わった。夜の海は音が大きい。寄せては返すたび、暗がりの向こうで何かが動いているみたいに聞こえる。
大佐は先に車を回り込み、駐車場の灯りが届かない方へ歩き出した。背中が波音に溶けても、歩幅は迷いがない。私は置いていかれないように、二、三歩で追いつく。上着の前を押さえる指が冷えて、袖口から風が入り、肌に刺さった。
『そうだ。お前が12年前に溺れていた場所だ』
『……なんで今さら、こんなところに』
足を止めると、砂がわずかに沈む。視線を前へ向けても、海は黒くて線だけが分かる。けれど胸の奥は、場所の名前を言われた瞬間に勝手に反応していた。喉が乾き、息が浅くなる。耳の奥に、冷たい水の重さが戻ってくる。
『思い出すだろう。私の背に乗って、岸まで戻ってきた時の記憶を』
『別に……忘れてないし』
口では突っぱねても、足先がほんの少し震えた。波の匂いと、風の音と、湿った砂の気配が、記憶を勝手に引きずり上げてくる。
大佐は視線を海へ置いたまま、言葉を落とした。声の硬さは変わらないのに、今夜は少しだけ低い。
『……あの時、私はただ気まぐれに人助けをしていた。お前を助けたのも偶然に過ぎない』
言い切るまでの間、波が一度強く砕けた。私は上着の襟を握り直す。指先の感覚が薄い。
『だが、同時に全てが始まった。お前は私に懐中時計を託した。そして私は、浜辺でお前を襲っていると勘違いされ、怪我を負ったな』
淡々と並ぶのに、順番が正しくて逃げ場がない。『懐中時計』だけが胸の奥に硬く落ち、指先が反射で握り込まれる。金属の重さが、遅れて戻ってくる。
『……覚えてる。私を助けてくれたのに、あなたが傷付けられていたのが耐えられなくて』
あのときの心臓の速さが戻る。正しいかどうかより先に、目の前で崩れていくのが怖くて手を伸ばした。
『ああ。その時……お前が私を助けようとしていたことが、私にはどうしても忘れられなかった』
大佐の横顔が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。風のせいかもしれない。けれど、握りしめられた拳の形が、わずかに変わったのが見えた。
『……』
返す言葉が出ない。波が一度大きく砕けて、沈黙の代わりに音だけが挟まった。
『そうして私は、水族館へ引き取られ、治療を受けた』
言い終えたあと、間が落ちた。大佐の吐いた息が白くほどけ、闇へ薄く散る。私の喉も鳴ったが、言葉にならない。
『ほどなくして、お前から託された石の力であの空間を作った』
石、と口にされた瞬間、胸の奥がひやりとする。私は無意識に胸元へ手をやりかけて、途中で止めた。触れたら思い出す温度がある。
『そしてその頃には、あの頃の記憶を持ったまま……互いのことを思い出せずにいたな』
言葉が、波に押されて短くなる。言い切れなかった分だけ、夜の湿り気が濃くなる。
息が白くなる。冷えが深くなって、指先が痺れていく。石、と言われると、胸の奥の別の冷たさが蘇る。青い光。重い空気。終わらない廊下。名前が削れていく感覚。
『……だけど私、気づけなかった。あなたがあの時、私を助けてくれた人だったってこと』
言った途端、自分の声がやけに薄く聞こえて、唇を噛んだ。今さらなのに、言わずにいられない。
『無理もない。お前は私のことを知らなかった』
返事はすぐだった。責めるでもなく、慰めるでもない。ただ事実を置く声。
『人としての私のこの姿を、見たことがなかったのだからな』
続けて言われると、胸の奥が詰まる。知らなかったことが免罪符のようでもあり、同時に言い訳にも聞こえる。どちらにも寄れない。波音がすぐそばにあるのに、耳の奥だけが遠い。
『大佐は、いつ気づいたの。私があの時、あなたに助けられた子供だって』
問いかけると、大佐はすぐに答えなかった。波が二度、返る音がする。風が一段強くなって、髪が頬に貼りつく。私は上着の襟を掴んで、首元を守った。
『最初は私も気が付かなかった』
ようやく返ってきた声は低い。言い出すまでに、息をひとつ飲み込んだのが分かった。
『あの頃の私は酷く疲れていた。あの空間へ迷い込んで来る人々を救おうと、必死にもがいていた』
言葉が長くなるにつれて、海の気配が近づく。大佐の横顔は動かないのに、目だけが遠くを見る。
『ある者は記憶を失い、クリーピーへ変貌した。またある者は、凶暴なクリーピーや水生生物に殺された。そして私自身も、何度も致命傷を負った。そんなことを、延々と無意味に繰り返していた』
冷えた語気が、潮風より先に喉の奥へ突き刺さる。私は息を吸うのを忘れていた。
『大佐……』
呼んだ声は風に散って、輪郭が薄くなる。大佐の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
『そんな最中、私はお前に出会い、その正体に気がついた。お前が私を必死に守ろうとしてくれた、あの記憶を思い出した』
喉の奥が鳴って、次の言葉が引っかかる。
『なら……』
その一音の間に、大佐が先に言葉を継いだ。今夜初めて、返事が途切れずに落ちてくる。
『どうして教えてくれなかったのか、だろう』
言い切ったあと、大佐は顎をわずかに引いた。波が砕ける音が一段大きくなり、沈黙の形を崩す。
『……あの時、私が隠そうとした真実をお前に知られたくなかったんだ』
喉の奥がひりつく。私は上着の前を押さえる指に力を入れて、寒さのせいにする。
『私の正体も、あの空間のことも、クリーピーのことも、深海の石のことも』
列挙されるほど、足元が冷える。ひとつひとつが、暗い廊下や金属音に結びついて、胸の奥で鈍く鳴った。
『どれかひとつでもお前が知ってしまえば、私は残りの全てをお前に打ち明けなければならなくなる』
最後の言葉が決めつけるように硬い。私は息を吸うのを忘れていたことに気づく。
呼吸が一度止まった。胸の奥が縮んで、喉が痛い。
『だからって……』
反論の形を取ったのに、声が先に弱る。怒りより先に、足元が崩れそうな感覚が来る。
『私が作った、あの地獄に……お前を巻き込んでしまったという過ちを、ただ隠したかった』
言い終えた途端、大佐の喉が一度だけ小さく鳴った。吐き出した息が白くほどけて、すぐ闇に吸われる。波の音が近くて、言葉の輪郭だけが残った。
『……気付かれたくなかった。お前にだけは』
最後の一節は、押し殺したように低い。私は一歩も動けないのに、胸の奥だけが後ろへ引いた。
『お前にだけは』が、砂に足を取られる重さで残った。指先に力が入って、上着の前を掴む布がきしむ。
『だからって……あんなやり方、ない……!』
叫ぶと、喉がすぐに乾く。潮風が口の中に冷たく入り、言葉が切れた。
『あの地獄が、これからお前に何をするのか。私は嫌というほど思い知らされていた』
言い終えたあと、大佐は一度だけ息を吐いた。白い息が闇に溶ける。視線は外さないままなのに、眉間の皺だけが深くなる。
『……ただ、お前を守りたかったんだ』
『守る』という音が、潮風よりも先に胸へ刺さる。熱くなるのに、手は何も掴めない。近づこうとすると、見えない壁だけが先に立つ。
『そうじゃない!私はあなたが消えると分かってて、それでもあなたの石を壊したの!』
声を張り上げた途端、喉の奥がひりついた。言葉の勢いで、足元の砂が沈む感覚だけが遅れてくる。
『あなたこそ私のこと、何もわかってない!責任とかなんとか言って、私のこと全然見てくれない!』
吐き出すたび、息が短くなる。胸の奥に溜めてきたものが、順番を無視して溢れていく。
『もっと私のことを見て!』
言った瞬間、視線だけは逸らせなくなる。怒りも願いもまとめて、目の前の横顔に当てるしかない。
『この瞬間、あなたの前にいる私を!私がどんな気持ちで、今ここにいるのか!ちゃんと見てよ!』
最後は叫びに近かった。声が裏返りそうになって、噛みしめ直す余裕もない。
言い切った瞬間、呼吸が追いつかなくなる。胸が上下して、寒さと熱さが同時に来る。涙は出ないのに、目の奥が痛い。大佐は何も返さない。返さないまま、波音だけが間を埋める。
『……』
沈黙が長くなるほど、怖くなる。届かなかったら。届いたとして、また遠ざかったら。喉の奥がひりつく。
『もう嫌なの。あなたがずっと、どこかを見ているのが。こんなに近くにいるのに、私を見てくれないのが。嫌なの……』
最後は声にならず、息みたいに漏れる。寒さのせいにできるくらい、喉が震えていた。
大佐が、ようやくこちらへ顔を向けた。目が合うだけで、胸の奥がひどくうるさい。海の闇を映したような瞳が、今夜は逃げない。息が白くほどけて、喉の奥に戻ってくる。
『……そうだな。お前の言う通りだ。私はまだ、あの場所に取り残されている』
言い切るまで、声は揺れない。けれど途中で、まぶたが一度だけ重く落ちた。
『お前のおかげで、こうして新たな日々を迎え入れることが、できたのにな』
言葉の終わりが、風に削られて短くなる。悔いとも感謝ともつかない温度が混じって、胸の奥の熱が少しだけ形を変えた。
声の端に、疲れが滲んでいる。波の音より静かに、けれど確かに。
『レトロ……』
名前を呼ぶと、風が私たちの間を抜けていく。私は一歩だけ近づいた。砂が鳴る。その音が、夜に吸い込まれないのが不思議だった。
『スーズ。私はこの生き方を改めるつもりはない。だが、お前のことをわかったつもりになるのはもうやめる。約束する』
約束、という言葉が落ちる。胸の奥がほどけて、息が熱くなる。
『レトロ、っ……!』
声が詰まる。喉の奥が痛い。涙がようやく滲んで、視界がぼやけた。
『スーズ。お前は、どんなことを思ってきた?』
レトロは私の目の奥を、ずっと見つめている。
『私に聞かせてはくれないか』
問いかけが、まっすぐに胸へ入ってくる。足元が少しだけ安定した気がした。
『……怖かった。あなたが傷ついて、何度も苦しんで。それなのに、私は何も知らなくて。助けられなくて。ずっと、怖かった……』
肩が小さく震える。涙が頬を伝って、冷たい風にすぐ奪われる。熱いはずなのに、顔が冷えていく。
『……すまなかった。今まで我慢した分まで……ここで泣いていい』
レトロの声が、潮風の中でほんの少しだけ丸くなる。私は堪えきれずに息を吸って、吐いた。喉が鳴って、呼吸がぐしゃぐしゃになる。足が勝手に前へ出て、私はレトロの胸元にしがみついた。
『レトロ……!レトロ……っ』
名前を繰り返すたび、胸の奥の揺れが少しずつ落ち着いていく。レトロは一瞬だけ固まって、それから腕が背に回り、私をそっと包んだ。
『……スーズ。私には、自分の気持ちが分からない』
言い切ったあと、レトロは一瞬だけ言葉を探すみたいに黙った。波の砕ける音が、その間を埋める。
『お前を守ろうとすることでしか、この気持ちを伝えられなかった』
吐き出すような声だった。息が白くほどけて、すぐ潮風に奪われる。拳を握り直す気配がして、指先の力が一度だけ強くなる。
『だから教えてくれ。私が何を感じているのか。お前が言葉にして』
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥が熱くなるのに、喉はひやりと固まった。泣き止むどころか、涙がもう一度だけ溢れそうになって、私は慌てて息を吸う。
言われた瞬間、泣きながら笑いそうになって、私は鼻で息を吸ってしまった。情けない音が混じる。
『もう……不器用なんだから』
言葉にすると、胸の痛みが少しだけ減った。レトロは目を伏せたまま、小さく息を吐く。
『……そうだな。お前に言われるまで、私はうまくやれているつもりだった』
波の音が遠くなる気がした。近くで聞こえるのは、自分の呼吸と、レトロの呼吸だけ。潮風の冷たささえ、一瞬だけ薄くなる。
『これからは、守るとか、責任とか、そういうのじゃなくて』
言い始めた途端、舌が乾く。私は上着の前を掴む指に力を入れて、熱を逃がさないようにした。
『私をどうしたいか。私と何をしたいか。それだけで、いい』
二つ目の言葉は、途中で掠れそうになった。目を逸らしたら崩れる気がして、私はレトロの横顔だけを見た。
言い終えると、胸の奥がすうっと冷える。怖さは残る。けれど黙っているのは、もっと怖かった。
『わかった』
短い返事に、私は顔を上げる。滲んだ視界の向こうで、レトロの表情がわずかに緩んでいる。
『……じゃあ。これからは、私を置いていかないで』
念を押すみたいに言うと、レトロは目を逸らして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
『努力しよう』
その不器用な答えが、可笑しくて、苦しくて、私はまた息を詰まらせた。
『なら、もっとそばに寄っても……いいよね』
一歩分、距離を詰める。潮風が二人の間を通らなくなる。
『お前には……敵わないな』
その瞬間、身体の芯まで冷えが届いたのが分かった。息を吸い込んだ拍子に、くしゃみが勝手に出る。
『へくちっ……うう…さむ……』
寒さを口にした途端、情緒が一気に現実へ引き戻される。濡れた頬が風でさらに冷たい。
『潮風で体が冷えたか。これでも着ていろ』
大佐が自分の上着を脱ぐ気配がして、次の瞬間、重みのある布が肩に掛かった。体温が残っている。首元に触れたところだけが、じわっと温かい。
『で、でもそれじゃ大佐が……』
受け取るのが当然みたいで、逆に手が落ち着かない。掴んだ布がずれるたび、熱が逃げそうで慌てて押さえる。袖口から入り込む風の冷たさが、体温の残る襟元だけを際立たせた。
『気にするな』
言い切る声はいつも通り硬いのに、否定するためじゃなく、私を落ち着かせるために置かれた言葉に聞こえた。
『……こんなにも温かいのは、久しぶりだ』
吐き出す息が白くほどける。自分のことを言っているのに、どこかで私に触れてくる言い方だった。波音の間に、その一節だけが残る。
温かい、という言葉が潮風の中で妙にまっすぐだった。私は上着の前を押さえたまま、喉の奥で息を飲む。
『大佐……』
呼ぶ声が、さっきより小さくなる。大佐は一度だけ頷いて、視線を海から外した。
『さて、そろそろ帰るぞ。明日も仕事だ』
言われて初めて、時間の感覚が戻る。私は上着の内側を探るみたいに手を動かして、スマホを取り出した。画面を点けると、暗闇の中で白い光だけが浮く。ロック画面の数字が冷たく並んでいて、午前二時を少し回っていた。
夜は深い。波の音だけで、いくらでも引き延ばされてしまいそうだった。
『もうこんな時間かあ。ルル、ひとりで大丈夫かな』
口にすると、胸の奥に別の心配が立つ。置いてきた灯り。ソファの影。見送る目。
『電話してもいいんだぞ』
大佐の声は、命令ではなく提案に聞こえた。私は首を振る。理由を言葉にしようとすると、喉がまた詰まりそうだった。
『しない。今は』
上着の温かさを抱えたまま、私は車へ向かって歩き出した。砂利が鳴る。波音は相変わらずそこにあって、背中に張りつくみたいに続いていた。
◇
車内の暖房はようやく安定していて、吐く息が白くならないだけで、現実へ引き戻される。フロントガラスの向こうで街灯が流れ、波音の代わりにエンジンの低い音が一定に続いていた。肩に掛かった上着はまだ温かくて、布の重みがあるぶん、手放したくないものまで抱えている気がする。
信号で減速した瞬間、大佐が横目でこちらを見た。真正面を向いたままなのに、視線だけが刺さる。
『なんだその顔は』
言われて初めて、自分の口元が勝手に緩んでいたことに気づく。ごまかすみたいに、鼻から息を抜いた。
『いやあ……大佐ってあんな顔するんだなって』
大佐の指先がハンドルを握り直す。返事は遅れずに落ちるのに、どこか居心地が悪い。
『……笑うな』
笑ってない、と言い返すほど軽くもない。だから私は、わざと窓の外へ目をやって、遠い街灯の列に言葉を預けた。
『あんなに泣きそうなところ見たの、あの時以来だったから』
その一言で、車内の空気が少しだけ締まる。大佐は前を見たまま、短く息を吐いた。
『……そうだな』
短い肯定が、今夜の出来事を“無かったこと”にしないで残す。胸の奥がわずかに落ち着くのに、次の言葉が出しにくくなる。
『……あのさ』
声を出した瞬間、喉が乾いているのが分かった。潮風のせいだと思いたいのに、違うのも分かっている。
大佐は何も言わずに、言葉の続きを待っていた。私は上着の前を押さえたまま、指先の力を少しだけ緩める。
『今日のこと、忘れないで』
言った途端、胸の奥がじわりと温かくなる。言葉にしただけで、息が少しだけ楽になった。
『私の、本音も。大佐がさっき、感じた気持ちも』
大佐は一瞬だけ黙り、次の信号を見越してブレーキを軽く踏んだ。減速の揺れが腹の奥へ伝わる。
『安心しろ。目の前であんなに泣かれたら、忘れる方が難しい』
ぶっきらぼうなのに、逃げ道がない言い方だった。おかしいのに、胸が熱い。私は鼻で短く笑って、少しだけ言い返す。
『もう。自分だって泣きそうになって我慢してたくせに』
大佐の口元が、ほんのわずかに緩む。音にならない笑いが、車内の静けさを割った。
『ふっ……』
その一息で、さっきまで張り詰めていたものがほどける。窓の外に見慣れた建物が増えてきて、帰り道の匂いがする。
車がマンション前で停まる。アイドリングの振動が続いているのに、時間だけが一瞬止まった。
私はシートベルトを外し、金具の音を必要以上に大きくしないように動く。
『それじゃ、また明日』
ドアノブに手を掛けたまま言うと、大佐は頷くだけでなく、同じ言葉を返した。
『また明日な』
外へ出た瞬間、夜気が頬を刺す。温かさだけが、取り残されたみたいに肌に残る。私はドアを閉める前に、もう一つだけ言ってしまった。
『私も……』
続きを意識して、心臓が一気に跳ねた。息が浅くなり、肩が強張る。大佐は何も言わずに、言葉の続きを待っている。
『……あ、あなたと、同じ気持ちだから』
思ったように言葉にできず、喉が詰まる。大佐の目が一度だけこちらを見て、すぐ前へ戻った。
『……ああ』
返事は短い。けれど、軽くはない。
ドアを閉めると、車内の音が断ち切られる。テールランプが遠ざかり、角を曲がって見えなくなるまで、私はその場で動けなかった。深呼吸をすると、潮の匂いと一緒に、布に染みた体温が肺へ入ってくる。
◇
オートロックのガラス扉を開け、静かなエントランスへ入る。足音が床に小さく返り、エレベーターの表示だけが白く光っていた。上着の袖を掴み直すたび、借りたものの重さが現実味を増していく。
部屋の前で鍵を差し込み、回す。金属が擦れる音が短く鳴って、ドアが内側へ開いた。廊下の暗さに目が慣れてくると、リビングの方から小さなランプの光が壁に薄い影を作っているのが見えた。明かりは落とされているのに、完全な闇じゃない。
靴を脱いでいると、背後でドアが静かに閉まる。その音が部屋の中へしみ込んだ瞬間、奥の方で布が擦れる気配がした。スリッパの音が一つ、控えめに鳴る。
リビングの入口にルルが顔を出した。毛布を肩に掛けたまま、眠る直前みたいな目でこちらを見て、すぐに瞬きをする。
『ルル、ただいま』
『おかえり、スーちゃん』
ぱたぱたと足音を立てて、ルルが近づいてくる。
『まだ起きてたの?』
『うん。スーちゃんに、おかえりって言いたくて』
『ん、ありがと』
ルルは小さく頷いて、それから改めて肩の辺りを見た。
『あ、その上着レトロさんのだよね?』
言われた途端、顔が火照って熱くなる。言い訳は浮かぶのに、どれも余計に聞こえる。私は靴を揃える手を止めないまま、最小限だけ答えた。
『……寒かったから借りたの』
『そっかあ。じゃあ今日は、あったかくして寝ようね~』
ルルは小さく笑うみたいに息を吐いて、毛布の端を握り直した。踏み込んで確かめるでもなく、ただ一言だけ残して、話を丸く置く。
掛けておかないと。そう思った途端、ようやく体が動く。私は上着の袖を持ち上げ、玄関の壁に掛けられる場所を探した。布が擦れる音が、夜の静けさにやけに大きい。
『……余計な荷物増やして、もう』
顔の熱が冷めきらないまま、吐き出すように呟く。フックに掛けると、上着は少しだけ揺れて止まった。潮の匂いの奥に、知らない暮らしの匂いが混じっている気がして、私は一度だけ瞬きをした。
毛布の端がかすかに擦れて、ルルがその場で体重を移したのが分かる。気配はまだ、玄関の近くに留まっている。
『スーちゃん。一緒に行こ?』
私は振り返って、置いてあったスリッパに足を入れた。
『うん』
ルルが安心したみたいに息を吐く。毛布の端がもう一度だけ擦れて、そのまま私の半歩後ろに並ぶ気配がついてくる。
廊下を曲がる前に、私は一度だけ玄関の壁へ目をやった。フックに掛かった上着が、もう揺れていない。なのに、そこだけ空気がまだ外の匂いを持っている気がした。
寝室へ入ると、灯りの暗さがやわらかい。ルルが先にベッドの端へ潜り込んで、毛布をぱたぱたと整える音がした。
『こっちこっち~』
呼ばれて、私は隣に身体を落とす。毛布はすでに、ルルの体温で温まっていた。冷えていた指先が、遅れてほどける。
潮の匂いと、知らない暮らしの匂いが、眠りの縁までついてくる。
目を閉じて意識が遠のいていく。
なのに胸の奥だけは、あの時言えなかった言葉の形を離さなかった。