弁護士の真司は漁師の啓二、バーテンダーの了と共に、愛する妻・莉子と暮らしている。かつては嫉妬に狂い、互いに殺意すら抱いた男たち。しかし奔放な妻に振り回され、同じ苦しみを共有するうちに、敵同士だったはずの三人の間には奇妙な連帯感が芽生え始める。

なろうカクヨムマルチ

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某Youtuberの動画に触発されて書きました。でも動画のほうがよほど胸糞悪いですね、おすすめです。


泥船

 ◆

 

 潮風が窓硝子を叩く音で徳田 真司(トクタ シンジ)は目を覚ました。隣には誰もいない。今夜は了の番だったかと、真司は天井を見上げたまま息を吐いた。

 

 オープンマリッジ。

 

 莉子がその言葉を口にしたのは一年前のことだった。そう、オープンマリッジだ。

 

 徳田 真司(トクタ シンジ)

 小此木 了(オコノギ リョウ)

 西原 啓二(サイバラ ケイジ)

 

 そして、愛田 莉子(アイダ リコ)の四人の()()生活。

 

「私たち四人は対等なの。誰かが誰かを独占するんじゃない。みんなで愛し合うの」

 

 真司は弁護士として様々な婚姻の形を見てきたが、自分がその当事者になるとは思わなかった。法的には莉子たち四人は単なる同居人に過ぎない。

 

 しかし莉子は四人の関係に序列を認めなかった。全員が対等で全員が莉子を愛し、莉子は全員を愛する。それが莉子の描いた理想だった。世間から見れば異常な関係かもしれない。しかしこの家の中ではそれが日常だった。

 

 リビングに出ると、了がキッチンに立っていた。二十三歳の細い背中がフライパンを振っている。卵の焼ける匂い。真司が椅子を引くと、了は振り返りもせずに言った。

 

「コーヒー、そこ」

 

 テーブルの上に置かれたマグカップから湯気が立っていた。真司はそれを手に取り、一口含んで顔を顰めた。薄い。この男は何をやらせても雑だ。弁護士として十年、人を見る目だけは養ってきたつもりだったが了という人間だけはどうにも測りかねる。バーテンダーの癖に酒の味も分からず、女の扱いだけは妙に手慣れている。

 

「西原さんは?」

 

「漁。朝四時に出たよ」

 

 了は皿に卵を滑らせながら答えた。声に棘がある。いつものことだ。この家では誰もが誰かに対して棘を持っている。いや、持っていた、と言うべきか。最近はその棘も、少しずつ丸くなってきているような気がする。

 

 莉子が現れたのはそれから三十分ほど経ってからだった。シルクのガウンを羽織り、濡れた髪を肩に垂らしている。三十一歳。肌は白く、目は大きく、唇は薄い。美人と呼ぶには少し崩れたところがあり、その崩れが妙に男の目を引く。

 

 真司が初めて莉子を見たのは二年前の法律相談の窓口だった。離婚の相談。前夫との。泣きもせず、怒りもせず、ただ淡々と事実を述べる莉子の横顔に、真司は理由の分からない動悸を覚えた。

 

「おはよう、真司」

 

 莉子は真司の隣に座り、了が作った卵焼きを一切れ口に運んだ。

 

「了、ちょっとしょっぱいかも」

 

「すみません」

 

 真司はコーヒーを啜りながら、二人のやり取りを眺めていた。

 

 了が莉子と出会ったのは莉子が真司と暮らし始めてから半年後のことだった。莉子が一人で飲みに行った先のバー。カウンター越しに、了は莉子を口説いたらしい。若造が、と真司は当時、怒りよりも呆れが先に立った。

 

 しかし莉子は了を連れて帰り、そのまま四人での生活が始まったのだ。

 

 ◆

 

 玄関のドアが開く音がした。啓二が帰ってきたのだ。潮の匂いと、魚の匂い。日に焼けた腕に発泡スチロールの箱を抱えている。

 

「鯵が取れた」

 

 それだけ言って、啓二は箱を流しに置いた。了が顔を背ける。魚の匂いが嫌いなのだ。真司も得意ではないが表には出さない。啓二は三人の中で最年長であり、莉子との付き合いも最も古い。五年前、莉子がまだ前夫と暮らしていた頃から知り合いだったという。漁港で逃げるように泣いていた莉子を見つけたのが啓二だった。

 

「莉子、今夜は刺身にするか」

 

「うん、お願い」

 

 莉子は微笑んだ。その微笑みを真司は何度見てきたことか。了に向けられる微笑み、啓二に向けられる微笑み、そして自分に向けられる微笑み。どれも同じに見えて、どれも違うようにも見える。真司はその違いを見分けようとして、いつも失敗する。

 

 午後になると、莉子は買い物に出かけた。三人の男だけがリビングに残される。テレビは点いているが誰も見ていない。啓二はソファに深く腰を沈め、目を閉じている。了は窓際に立ち、煙草を吸っている。真司は本を開いているが一頁も進んでいない。

 

 一年前、この三人が同じ部屋にいることは不可能だった。

 

 真司は了を軽蔑していた。

 

 若さだけが取り柄の中身のない男だと。

 

 学歴もなく、将来の展望もなく、ただ莉子の体だけを求めている畜生だと。

 

 了は啓二を嫌悪していた。

 

 年上の癖に莉子に甘える姿が気持ち悪いと。

 

 四十近い男が三十そこそこの女に依存している様は見ていて吐き気がすると。

 

 啓二は真司を憎んでいた。

 

 弁護士という肩書きを振りかざし、自分より後から来て大きな顔をしていると。

 

 言葉の端々に滲む優越感が我慢ならない、と。

 

 三人は互いを敵と見なし、莉子を奪い合っていた。

 

 最初は地獄だった。顔を合わせれば罵り合い、時には殴り合いになることもあった。了の頬を啓二が殴ったことがある。真司が了の胸ぐらを掴んだこともある。了もやられてばかりではない。真司や啓二につかみかかってきたことなんて何度もある。

 

 莉子はそのたびに泣き、三人を叱り、そして許した。なぜ仲良くできないの。みんな私の大切な人なのに。莉子の涙を見るたびに三人は自分を恥じた。しかし翌日にはまた諍いが起きた。

 

 しかし今、三人は同じ空間で息をしている。会話こそ少ないがかつてのような殺意はない。莉子に振り回され、同じ苦しみを味わい、同じ困惑を抱え続けるうちに、いつしか奇妙な連帯感が芽生えていた。

 

 ◆

 

 転機は三ヶ月前だった。莉子が突然、一週間の旅行に出かけた。一人で。行き先も告げずに。残された三人は初めて莉子のいない時間を共有した。最初は気まずかった。話すこともなく、互いを避けるように過ごした。しかし三日目の夜、啓二が缶ビールを三本持ってリビングに現れた。

 

「飲むか」

 

 その一言で何かが変わった。三人は黙々と酒を飲んだ。やがて、ぽつりぽつりと言葉が出始めた。莉子のこと。自分のこと。この生活のこと。朝までかけて、三人は初めて本音を語り合った。憎しみも、嫉妬も、そして愛も。莉子が帰ってきたとき、三人の間には何か新しいものが生まれていた。

 

「なあ」

 

 啓二が目を開けずに言った。

 

「お前ら、幸せか」

 

 沈黙が落ちた。了の煙草の煙だけが緩やかに天井へ昇っていく。

 

「幸せって何すか」

 

 了が吐き捨てるように言った。その声には苛立ちが滲んでいた。

 

「分からん。分からんから聞いとる」

 

 真司は本を閉じた。幸せかと問われれば、答えは否だ。しかし不幸せかと問われれば、それも否と答えるしかない。莉子の隣にいられる。それだけが確かでそれだけが真司をこの奇妙な生活に繋ぎ止めている。

 

「俺はな」

 

 啓二が体を起こした。

 

「最初、お前らを殺してやろうと思った」

 

 真司の背筋が冷えた。了は振り返らない。

 

「特にお前だ、徳田。弁護士だかなんだか知らんが俺より後から来て、偉そうな顔しやがって」

 

「偉そうな顔なんてしてない」

 

「しとる。今もしとる」

 

 啓二の目に怒りはなかった。ただ疲労だけがあった。四十に届こうとする漁師の、潮風に晒された顔。その皺の一本一本に、真司は自分への敵意を読み取ろうとして、読み取れなかった。

 

「俺だって」

 

 了が窓に額を押し当てたまま呟いた。

 

「西原さんのこと、邪魔だと思ってましたよ。年上の癖に、莉子さんに甘えて。気持ち悪いって。本気で思ってた」

 

「言いたい放題だな、ガキが」

 

「ガキで悪かったすね」

 

 真司は二人のやり取りを聞きながら、自分の中にある感情を探っていた。嫉妬。怒り。軽蔑。確かにそれらはあった。過去形で語れるほど、完全に消えてはいない。しかしそれ以上に、奇妙な連帯感のようなものが胸の奥で蠢いているのを感じた。同じ女を愛し、同じ女に縛られ、同じ苦しみを味わっている男たち。敵であるはずの三人がいつしか同じ船に乗り合わせた漂流者のように思えてくる。

 

「俺もだ」

 

 真司は言った。

 

「最初、お前らが憎かった。特にお前だ、小此木。若い癖に、何も知らない癖に。莉子を奪った泥棒だと思っていた」

 

 了が振り返った。その目には驚きと、何か別の感情が混じっていた。

 

「今は違うんすか」

 

「分からない。でも、憎いだけじゃない」

 

 夕方、莉子が帰ってきた。両手に買い物袋を提げ、頬を上気させている。

 

「ただいま。今夜はすき焼きにしよう」

 

 三人の男はそれぞれの場所から莉子を見た。啓二は立ち上がり、買い物袋を受け取った。了は煙草を揉み消した。真司は椅子から腰を浮かせかけて、やめた。

 

 莉子は笑っていた。三人の男がどれほど彼女を愛し、それゆえにどれほど苦しんでいるかを知らないような顔で。そして三人の男たちの間に、彼女の知らない何かが芽生え始めていることも。

 

 夜になると、莉子は真司の部屋に来た。昨夜は了。今夜は真司。明日は啓二。輪番制。真司はその言葉を頭の中で転がし、笑いたいような泣きたいような気持ちになった。

 

 莉子の体は温かかった。白い肌は闇の中で仄かに光り、黒い髪は枕の上に広がっている。真司は莉子を抱きながら、隣の部屋にいる了のことを考えていた。壁の向こうであの若い男は何を思っているのだろう。眠れずに煙草を吸っているのか。それとも、明日の自分の番を待ちわびているのか。あるいは自分と同じように、この奇妙な生活の意味を問い続けているのか。

 

 そして啓二のことも考えた。一番奥の部屋であの男は何を思っているのだろう。漁師の朝は早い。もう眠っているだろうか。それとも、自分たちの気配を感じながら、眠れずにいるのだろうか。

 

 真司は莉子の髪に顔を埋めた。莉子の匂いがする。しかし同時に、今日の海の匂いも思い出した。啓二のジャケットの匂い。了の煙草の匂い。三つの匂いが混ざり合い、真司の中で何かを形作ろうとしていた。

 

「真司」

 

 莉子が耳元で囁いた。

 

「何を考えてるの」

 

「何も」

 

「嘘。いつも何か考えてる」

 

 莉子の指が真司の額に触れた。皺を撫でるように。真司はその指を捕まえ、唇に押し当てた。答えられるはずがなかった。他の男のことを考えていたなど。

 

「ねえ」

 

 莉子が体を起こした。シーツが滑り落ち、裸の肩が月明かりに照らされる。

 

「みんな、仲良くしてほしいの」

 

「仲良く」

 

「そう。だって、みんな私の大切な人だから。私はね、みんなを愛してる。同じくらい。だからみんなも互いを大切にしてほしい。それが私たちのマリッジの形だから」

 

 真司は天井を見上げた。大切な人。その言葉の意味を真司は理解できない。三人の男を等しく愛するということが果たして可能なのか。愛とは選ぶことではないのか。誰か一人を選び、残りを捨てること。その痛みを引き受けること。それが愛ではないのか。

 

 しかし莉子は選ばない。誰も選ばず、誰も捨てない。それを優しさと呼ぶべきなのか、残酷さと呼ぶべきなのか。真司には分からなかった。

 

 ◆

 

 翌朝、啓二は漁に出なかった。珍しいことだ。普段なら夜明け前に家を出る男がリビングのソファに座って窓の外を眺めている。

 

 真司は寝室のドアを開けた瞬間、啓二の姿を見て足を止めた。薄明かりの中、啓二の横顔は疲れているように見えた。しかし同時に、どこか穏やかでもあった。以前の啓二には見られなかった表情だ。

 

「体でも悪いのか」

 

 真司が声をかけると、啓二は首を横に振った。

 

「少し、考えたいことがあってな」

 

「考えること」

 

「ああ。お前らのこと。俺のこと。莉子のこと。全部」

 

 それきり、啓二は黙った。真司はキッチンに向かい、自分でコーヒーを淹れた。了の淹れるコーヒーより遥かに美味い自信がある。法律事務所の同僚に教わった豆の選び方、湯の温度、注ぎ方。そういう細部にこだわることが真司の性分だった。

 

 コーヒーを二杯淹れ、一杯を啓二の前に置いた。啓二は驚いた顔をした。

 

「俺に?」

 

「飲めばいい」

 

 啓二はマグカップを手に取り、一口飲んだ。そして小さく頷いた。

 

「美味いな」

 

「俺が淹れたんだから当然だ」

 

 それを聞くと啓二はふ、と笑う。

 

 二人は黙ったまま、窓の外を見ていた。東の空が少しずつ明るくなっていく。その沈黙は以前のような敵意を含んでいなかった。

 

 了が起きてきたのは十時過ぎだった。バーの仕事は深夜に及ぶから、朝は遅い。目を擦りながらリビングに入ってきた了は啓二の姿を見て足を止めた。

 

「珍しいすね」

 

「ああ」

 

「何かあったんすか」

 

「別に」

 

 了は肩を竦め、冷蔵庫からジュースを取り出した。グラスに注ぎ、一気に飲み干す。その横顔を真司は観察していた。二十三歳。自分より十歳若い。しかしその目には若者特有の輝きというものがない。どこか疲れた、諦めたような色。バーテンダーとして様々な客を見てきたからなのか、それとも生まれつきなのか。

 

 ふと、真司は了の横顔に不思議な親しみを覚えた。嫌悪や軽蔑ではない、別の何か。同じ苦しみを知る者への共感なのか。それとも、もっと名前のつけようのない感情なのか。了の細い首筋に視線が吸い寄せられる。真司は慌てて目を逸らした。

 

 啓二の大きな手も見えた。潮風で荒れた、働く男の手。あの手に頬を殴られたことがある。あの手で啓二は莉子を抱く。しかし今、その手を見ても怒りは湧かない。むしろ、奇妙な安心感すら覚える。

 

「了」

 

 啓二が呼んだ。

 

「何すか」

 

「お前、莉子のこと、好きか」

 

 了の手が止まった。グラスを持ったまま、啓二を見る。その目に警戒の色が浮かんでいた。

 

「何すか、いきなり」

 

「答えろ」

 

「好きっすよ。好きじゃなきゃ、こんなとこにいないでしょ」

 

「そうか」

 

 啓二は頷いた。そして真司を見た。

 

「徳田、お前は」

 

「俺も同じだ」

 

 真司は即答した。嘘ではない。莉子を愛している。それは確かだ。しかしその愛が以前と同じ温度を保っているかと問われれば、答えは曖昧になる。

 

「俺もな」

 

 啓二は立ち上がった。窓際に歩み寄り、カーテンを開けた。眩しい光が部屋に差し込む。

 

「俺も莉子を好きだ。五年前から、ずっと」

 

 その背中が少しだけ震えているように見えた。真司は目を逸らした。見てはいけないものを見た気がした。

 

「でもな」

 

 啓二が振り返った。その顔には奇妙な笑みが浮かんでいた。

 

「最近、分からなくなってきた」

 

「何がすか」

 

 了が尋ねた。その声には微かな興味が混じっていた。

 

「俺が好きなのは莉子なのか。それとも、莉子を好きだと思う自分なのか」

 

 沈黙が落ちた。真司は啓二の言葉を反芻していた。自分に問いかけていた。俺が愛しているのは莉子なのか。それとも、莉子を愛する自分という物語なのか。

 

 莉子が起きてきたのはそれから一時間後のことだった。三人の男が揃ってリビングにいるのを見て、莉子は少し驚いた顔をした。

 

「どうしたの、みんな」

 

「なんでもない」

 

 三人が同時に答えた。声が重なり、三人は顔を見合わせた。そして誰からともなく笑いが漏れた。苦い笑いだった。しかし確かに、三人は同じものを共有していた。同じ女を愛し、同じ言葉を吐き、同じように笑う。敵だったはずの三人がいつの間にか何かを分かち合っている。

 

 莉子は首を傾げていた。何も分からない顔で。その無邪気さが三人の胸を締め付けた。

 

「今日、どこか行かない?」

 

 莉子が言った。

 

「四人で。海とか」

 

「いいね」

 

 了が答えた。真司と啓二は頷いた。

 

 四人は海に行った。一月の海は冷たく、人影はまばらだった。莉子は砂浜を裸足で歩き、波打ち際で足を濡らしては笑い声を上げている。三人の男は少し離れた場所に立ち、その姿を眺めていた。

 

「寒くないすかね」

 

 了が呟いた。

 

「寒いだろうな」

 

 啓二が答えた。

 

「止めないのか」

 

 真司が尋ねた。

 

「止めても聞かん」

 

「そうだな」

 

 三人は黙って莉子を見ていた。白い肌に、黒い髪。波に戯れる細い足。美しいと言えば美しい。しかしその美しさに、以前ほどの切実さを感じないのは何故だろう。真司は自分の胸に手を当てた。確かに動悸はある。しかしそれは莉子への愛なのか。それとも、ただの習慣なのか。

 

 不意に、了が身震いした。

 

「寒いか」

 

 啓二が聞いた。

 

「ちょっと」

 

「これ」

 

 啓二は自分のジャケットを脱ぎ、了の肩にかけた。了は驚いた顔をした。真司も驚いた。あの啓二が了に優しくするなど。

 

「あ、いいっすよ、西原さんのほうが寒いでしょ」

 

「俺は平気だ。海の男だからな」

 

 了は何か言いかけて、やめた。代わりに、小さく頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

 真司はその光景を見ていた。胸の奥で何かが軋んだ。嫉妬だろうか。いや、違う。これは嫉妬ではない。むしろ、二人の間に生まれた温かさを見て、自分も何かを感じている。参加したいとすら思っている。

 

「俺のもあるぞ」

 

 気づくと、真司は自分のマフラーを外していた。了に差し出す。

 

「徳田さんまで」

 

「風邪をひかれると困る。看病は御免だ」

 

 嘘だ。看病が嫌なわけではない。ただ、何かしたかった。啓二と同じように。了に何かを与えたかった。

 

 了はマフラーを受け取り、首に巻いた。啓二のジャケットと、真司のマフラー。二人の男に包まれた若者は照れくさそうに笑った。

 

「なんすか、これ。気持ち悪いっすよ」

 

「うるさい」

 

 啓二と真司が同時に言った。そしてまた顔を見合わせた。今度は苦い笑いではなかった。

 

「なあ」

 

 啓二が低い声で言った。

 

「お前ら、逃げたいと思ったことないか」

 

 了が啓二を見た。真司も見た。

 

「逃げる」

 

「ああ。ここから。この生活から。全部捨てて、どこかへ行く」

 

 了は黙っていた。真司も黙っていた。波の音だけが三人の間を埋めていた。

 

「俺は」

 

 了が口を開いた。

 

「毎日思ってますよ。でも、逃げられない」

 

「何故だ」

 

「分かんないすよ。でも、逃げられない」

 

 真司は自分の靴を見下ろしていた。革靴。砂浜には不釣り合いな、弁護士らしい靴。この靴を履いて、どこへでも行ける。莉子を置いて、この奇妙な生活を捨てて。しかし足は動かない。動かせない。

 

「莉子は」

 

 真司が言った。

 

「俺たちが逃げたら、どうするだろうな」

 

「また新しい男を見つけるだろ」

 

 啓二が答えた。その声には諦めがあった。

 

「そうっすね。莉子さんなら、すぐ見つかる」

 

 了も同意した。

 

 三人は莉子を見ていた。波と戯れる女を。彼女にとって、三人の男は何なのだろう。愛する者なのか。所有物なのか。それとも、自分の寂しさを埋めるための道具なのか。答えは分からない。莉子は何も語らない。ただ微笑み、ただ体を開き、ただそこにいる。

 

「俺はさ」

 

 了が呟いた。目は莉子に向けたまま。

 

「逃げるなら、一人じゃ嫌っすね」

 

 啓二と真司が了を見た。

 

「どういう意味だ」

 

「分かんないすけど。なんか、一人で逃げても意味ない気がして。この地獄を知ってる奴と一緒じゃないと」

 

 真司は了の言葉の意味を考えた。この地獄を知ってる奴。それは啓二のことか。自分のことか。あるいは三人全員のことか。

 

「お前」

 

 啓二が低い声で言った。

 

「俺らと一緒に逃げるってことか」

 

「そういうわけじゃないっすけど。でも、なんか。西原さんや徳田さんとなら、どこかに行けそうな気がするんすよ」

 

 真司は息を呑んだ。了の言葉は自分が言葉にできなかった何かを代弁していた。莉子がいなくても、この二人となら。そんな考えが頭をよぎった。

 

「馬鹿なことを言うな」

 

 啓二が言った。しかしその声には否定の力がなかった。

 

「帰ろうか」

 

 莉子が振り返った。頬が赤く染まっている。寒さのせいだろう。

 

「うん」

 

 三人は同時に答えた。また声が重なった。今度は誰も笑わなかった。

 

 帰りの車の中で莉子は後部座席で眠っていた。運転は啓二。助手席に真司。了は莉子の隣で窓の外を見ている。

 

「西原さん」

 

 了が小声で言った。

 

「なんだ」

 

「俺、西原さんのこと、嫌いじゃないかもしれないっす」

 

 啓二のハンドルを握る手が一瞬だけ強張った。

 

「急にどうした」

 

「分かんないすけど。なんか、そう思いました。最初は本当に嫌いだったんすけど。今は違う」

 

 真司は後ろを振り返った。了の横顔が見えた。疲れた、諦めた目。しかしその奥に、何か新しい光が生まれているような気がした。

 

「俺もだ」

 

 真司は言った。

 

「俺もお前らのことは嫌いじゃない。むしろ──」

 

 言葉が途切れた。むしろ、何だ。好きなのか。それは違う。しかし嫌いでもない。友情と呼ぶには重すぎる。愛と呼ぶには違いすぎる。しかし確かに、何かがある。莉子への愛とは違う、別の種類の何かが。それは同じ苦しみを分かち合った者だけが持てる絆なのかもしれない。あるいはそれ以上の何かなのかもしれない。

 

「むしろ?」

 

 啓二が尋ねた。バックミラー越しに真司を見ている。その目は以前のような敵意を含んでいなかった。むしろ、期待のような、あるいは不安のような、複雑な光を宿していた。

 

「分からない。でもお前らがいないと、この生活は続けられなかったと思う。莉子を愛し続けることも、正気を保つことも」

 

 車内に沈黙が落ちた。しかしそれはこれまでの沈黙とは違っていた。敵意のない穏やかな沈黙。三人の男は初めて同じ方向を向いているような気がした。

 

 了が小さく笑った。

 

「変な話っすよね。莉子さんを取り合ってたはずなのに。いつの間にか、俺ら」

 

「言うな」

 

 啓二が遮った。しかしその声には怒りがなかった。

 

「言葉にしたら壊れる気がする」

 

 真司は頷いた。言葉にできない何か。それを三人は共有している。莉子への愛から始まった関係がいつしか別の形に変容していた。友情なのか。あるいは友情以上の何かなのか。名前をつけることはできない。名前をつけた瞬間、それは形を変えてしまう気がする。

 

 だから三人は黙っていた。しかしその沈黙の中に、確かな温もりがあった。かつて殺し合いたいほど憎み合った三人が今は同じ空気を吸い、同じ沈黙を共有している。それは莉子が望んだ形とは違うかもしれない。しかし確かに何かが変わり──そして、何かが生まれたのだ。

 

 真司は頷いた。

 

 了の肩が真司の座席に触れている。その温もりを真司は払いのけなかった。啓二の運転する車に揺られながら、真司は目を閉じた。

 

 もし莉子がいなくなったら。

 

 ふと、その考えが頭をよぎった。莉子がいなくなったら、自分たちはどうなるのだろう。バラバラになるのか。それとも。

 

 真司は目を開け、バックミラーに映る啓二の横顔を見た。それから、窓の外を見ている了の後頭部を見た。この二人と、莉子抜きで会うことがあるだろうか。酒を飲んだり、馬鹿な話をしたり。それは想像できなくもない。むしろ、想像すると奇妙な心地よさがある。

 

 莉子は眠り続けていたが、その寝顔を三人は見なかった。見る必要がなかったからだ。他に見るべきものがあったからだ。

 

 今、三人が見ているのは同じ道の先だった。その道がどこに続いているのかは誰も知らない。しかし三人は出会ってから初めて同じ方向を向いていた。

 

 そしてそれで十分だった。()はそれで十分だった。

 

(了)


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