「先に来てしまった」
僕は、先に来てしまった気がしている。
それが事実かどうかは分からない。ただ、そう感じてしまうだけだ。ここは、そういう感覚を生む場所だった。
ネルフ本部は地下にある。
そのことを知らされたとき、僕は少しだけ安心した。空が見えない場所は落ち着く。限界があるというだけで、人は呼吸がしやすくなる。少なくとも、僕はそうだった。
赤木リツコ博士と初めて会ったのは、地上から何層も下った先の小さな会議室だった。
白い壁、白い机、白い光。
余計なものが一切ない部屋。
「雨宮ノア君」
博士は、書類から目を離さずに僕の名前を呼んだ。
「はい」
声は落ち着いていたと思う。
落ち着いている“ように聞こえる声”を出すのは、昔から得意だった。
「今日から、いくつか検査を受けてもらいます」
「目的は?」
「適性の確認」
それ以上は説明されなかった。
説明がないこと自体が、説明になっているような気がした。
少しして、博士は画面を切り替えた。
そこに映し出されたのは、人型の輪郭だった。
「これが、あなたに関係する機体です」
汎用人型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオン仮設四号機。
そう表示されている。
「正式な運用番号は未付与。開発途中の機体です」
「色は黒。装甲構成、内部構造ともに暫定仕様」
「現在は、調整およびデータ収集中の段階」
博士は淡々と説明した。
専門用語が多かったが、内容自体は理解できた。
理解できた、というより、言葉としては追えた、が正しい。
「搭乗は?」
僕は一応、聞いた。
「現時点では未定です」
「状況次第では、ありません」
その言い方が、妙に引っかかった。
“ない”とは言わない。
“未定”と“状況次第”。
考えれば、いくらでも考えられる言い方だった。
でも僕は、それ以上考えないことにした。
考えると、たいてい余計なところまで行ってしまう。
行った先で、戻れなくなる。
だから、分からないものは保留にする。
それもまた、一つの判断だ。
検査は続いた。
血液、脳波、反応速度、耐性。
どれも難しくはなかった。
でも、意味はよく分からなかった。
「問題はありません」
その言葉を聞くたびに、胸の奥が少しだけ重くなる。
問題がない、という評価は、安心と同時に拘束を生む。
「緊張している?」
博士が訊ねた。
「いいえ」
即答した。
考えてから答えると、たぶん違う言葉が出てしまう。
即答は、防御だ。
博士はそれ以上、踏み込まなかった。
その距離感は、ありがたかった。
僕の両親は、ネルフ職員だった。
父は雨宮コウジ。
母は雨宮アオイ。
二人とも、とある実験事故で亡くなったと説明されている。
詳細は伏せられている。
遺体も確認されていない。
それについて、博士は何も言わなかった。
僕も、聞かなかった。
聞けば、何かが決まってしまう気がしたからだ。
廊下は長く、白く、静かだった。
人がいないのに、視線を感じる。
ここでは、誰もが何かを観測している。
ある日、僕は格納庫の前で足を止めた。
扉の向こうから、低い振動が伝わってくる。
機械の音とは少し違う。
生き物の呼吸に近い。
「見ない方がいい」
警備員が言った。
「どうしてですか」
「見ても、意味がない」
意味がない、という言葉は便利だ。
考えなくていい理由を与えてくれる。
僕は頷いて、その場を離れた。
見なかった。
見ないという選択をした自分に、少しだけ安心した。
まだ、踏み込んでいない。
検査が続く中で、僕は薄々気づいていた。
扱いが、どこか中途半端なのだ。
説明はされるが、決定はされない。
準備はされるが、役割は与えられない。
仮設四号機。
黒。
暫定。
未定。
それは、機体の説明であると同時に、
僕自身の説明でもあった。
「あなたは、念のためよ」
博士が、何気なく言った一言が残っている。
念のため。
本命が別にいる、という意味だ。
誰かが来る。
僕の後に。
僕よりも、はっきりとした理由を持った誰かが。
それが誰なのかは分からない。
分からないけれど、そういう場所なのだ、ここは。
夜、用意された部屋で天井を見つめながら、僕は考えた。
考えることはできる。
ただ、考え続けるのは得意じゃない。
遠くで警報が鳴った。
短く、鋭い音。
基地の空気が変わる。
僕は起き上がり、胸の奥のざわめきを確かめた。
恐怖か、期待か。
どちらでもない。
ただ、自分の順番が近づいている、という感覚だけがあった。
まだ僕は、何者でもない。
ただ、先に来てしまっただけの人間だ。