黒き蛇は死水に潜る   作:御月ケイ

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第一章 死の影に揺れる紫煙
第1話 香りに惑う


 

 

 黒鉄屋敷《くろがねやしき》──首都圏でありながら、小高い丘というより山の中腹に鎮座する日本家屋。

 莫大な広さを持つその屋敷には、内部だけで囁かれる噂話があった。

 

 

 

──曰く、黒鉄屋敷には『呪い』が存在する。

 

 

 

 そこに暮らす柘植安曇《つげあずみ》、小学四年生は、この噂に懐疑的だ。人が宇宙にも深海にも行けてしまえるようなこの時代に、そんなものがあるはずはない。

 

(じゃないと──)

 

 焦燥感に駆られながら、安曇は今日も辞書を片手に古書をめくる。畳の上で倒れるように眠りに落ちたのは、もう明け方近く。

眠る安曇の横には、『呪われた人間』のリストが開かれていた。

 

 

 

 そんな黒鉄屋敷には、もうひとつの顔がある。指定暴力団『黒鉄組』の本拠点という顔だ。

 

 しかし、拠点の入口にはスーツの厳つい男たちが並び、門をくぐれば怒号が飛び交う……なんてことはなく。

 

「チャーンチャーラチャチャチャチャ」

 

 野太い歌声が、枯山水を思わせる奥ゆかしい中庭に響き渡る。

 

「腕を前から上にあげて~!」

 

(うるさ……)

 

もぞりと起き上がれば、昨日はどうやら畳で寝てしまったらしい。床には古書や紙が散らばり、安曇が寝ていた場所はくしゃくしゃとシワになっていた。

 

「イチ、ニ、サン、シ!」

 

(……)

 

 安曇は障子と窓を開け、冷たい目を向ける。

 

「お前たち……」

 

 そして振り向いた三人に薄く笑って宣告する。

 

「今すぐ黙るか黒鉄から出ていくか……選ばせてあげるよ?」

 

(こっちは寝不足なのに)

 

「ヒュッ」

 

 ランニングと褌の男たちは体を寄せあって震える。

 

「あ……安曇坊ちゃん、怒ってます?」

 

「ラジオ体操、一緒にしません?」

 

(……なるほど、追い出されたいのか)

 

 欠伸を噛み殺しながら、安曇は畳を見て僅かに眉を顰める。開かれた古書が目に入ったからだ。

なら追い出すか……と考えをまとめたところで──

 

「朝からうるさいぞ」

 

 朝の空気よりも冷たい少年の声が、一同を凍りつかせた。

 

「……兄さん」

 

 安曇が目を向けた先には、すでに身だしなみを整えた兄の総司がいた。小学校を卒業してもいないのに、組員たちは深々と頭を下げる。

 

「安曇、上に立つ者が下の者を虐げるな」

 

「虐げられたの僕なんだけど」

 

 ため息混じりに不満を漏らす。

 野太いラジオ体操が、まだ耳に残っている。

 

「安曇」

 

 温度のない声音に、安曇は目を細める。この兄は昔から人の話を聞かない。兄としての自分しか見ていない。

 安曇はチラリと総司の顔を見て、総司に見えない角度でため息をつく。

 

(この兄は本当に……)

 

「すみませんでした」

 

 形ばかりの謝罪をすれば、総司は納得したように頷く。

 

「よろしい。早く支度をするように」

 

 言いたいだけ言うと、兄の小さな背中は奥の広間の方へ消えていく。

 御し易いのは確かだが、いちいち面倒だと安曇はもう一度ため息をついた。

 

 ごくり……と唾を飲み込んだ組員たちが、コソコソと安曇のそばに来る。

 

「こわ……。さすが総司さん」

 

「大笑いする時とかあるのかな……」

 

「さぁね」

 

 安曇が首を振ると、目の前にスッ……と茶色い何かが差し出された。

 

「……スルメ、食います?」

 

心配そうにスルメを渡してくる組員。

 

「……」

 

 朝の空気が冷ややかに吹き抜ける。

 安曇はもう一度ため息をついた。

 

 

 

 

 身支度を整え、胸の中の重い空気を吐き出すようにため息をつく。

 

(どうしてここまで何も見つからないんだ……)

 

 チラリと古書が散らばったままの畳を見て、誰も来ないからいいかとそのまま放置して部屋を出た。

 黒鉄屋敷は古く、長い歴史を抱えた木造建築だ。節だらけの柱、黒ずんだ欄干。梅雨の晴れ間の板張り廊下はどこか湿り気を帯びていて、歩くとギシリと音を立てる。

 

 

 

(……あ)

 

 ほのかに漂う甘味を帯びた香りに、安曇は顔を上げる。

 近くの部屋の襖が薄ら開いていた。匂いは紫煙と共にその部屋から漂ってきている。

 

「……叔父さん」

 

 チラリと部屋を覗くと、窓際であぐらをかいて煙管をふかしている叔父と目が合った。その姿にホッとする。

 

(まだ、大丈夫そうだ)

 

 薄曇りの光が、障子越しにゆらりと落ちている。

 

「安曇」

 

 羽織を一枚肩から掛け、敷きっぱなしの布団を放置して座っている叔父──柘植隆明《つげたかあき》。

 父の兄であり、安曇にとっては剣術の師範でもある人だった。

 

「おはよう、叔父さん」

 

「ああ」

 

 まだ三十歳という若さなのに、時々老人のようにも見える。ゆったりとした笑みを浮かべ、煙管の煙を燻らせている。

 安曇はこの少し異質な叔父の存在が、一番好きだった。うるさすぎる黒鉄屋敷で、一番落ち着く。

 

 しかし、悠然とした態度のこの叔父は──どうやら呪われているという。あの『黒鉄の呪い』に。

 

「……」

 

 煙管の甘くて苦い匂いがゆらりと流れ、安曇はまるでここが異世界のように感じた。

 

「起きてていいんだ?」

 

 体調が悪いと聞いていたのだが、叔父は柱に体をあずけていても自分で起きて座っている。

 

「お前が起きてくる時間に寝てたら、格好つかんだろ」

 

 喉を鳴らすように笑う叔父に、安曇は布団をちらりと見る。

 

「調子良いの?」

 

「まあまあだな。お前は学校か」

 

「うん」

 

「そうか」

 

 相槌を打ってからまた煙管を吸う。

 あの中に、痛み止めが入っていることを安曇は知っている。

 

「痛むの?」

 

「……さぁな。いつもと同じだろ」

 

(いつもと、同じ)

 

 それはいつも、ギリギリということで。

 だからこそ安曇は、一刻も早く見つけなければならない。

 

「……呪われてるから?」

 

 安曇は叔父の横に座って外を見る。

 赤紫の花をつけた紫陽花が見頃だった。

 

「……呪いねぇ」

 

 立ち上る紫煙に目を細め、薄く笑う。

 

 呪われるのは屋敷で常にひとりだけ──今はこの叔父だ。

 

 呪いに侵された者は体のあちこちに黒い傷が現れ、やがて全身に広まる。そして広がりきった先に、死が待っている。

 

(叔父さんは……まだ大丈夫。まだ、傷は少ない)

 

 だからまだ、死なない。

 

「次は僕だって言われてる」

 

 呪いは伝染るのだと。

 黒鉄に、呪われた人間は常にひとり。

 

 小さい頃、体が弱かった安曇は、次に呪われるのだと周りに囁かれていた。正直、どうでもよかったけれど。

 

「呪いが伝染るかもしれないのが怖いのか?」

 

 愉しそうに笑うその声は、呆れているようにも馬鹿にするようにも聞こえた。

 

「わからない」

 

 安曇は目を伏せる。

 自分が死ぬのはそんなに怖くない。

 

(でも叔父さんが死ぬのは嫌だな……)

 

「お前も呪いを信じてんのか」

 

 指さすように煙管を安曇に向けると、叔父は軽い調子で笑った。ボロボロの人に笑われるのは釈然としない。

 

「あんまり。迷信だと思ってる」

 

 遺伝病、風土病や、他にも土地が悪いという可能性だってあるはずだ。

 

 チラリと叔父の包帯を見つめる。

 あの下にある黒い傷。そして体調不良。同じような病さえ見つけられたら……いや、見つけなければならない。

 この“呪い”を否定できなければ、叔父を救えないのだから。

 

「ふぅん?」

 

 クスクス笑うが、そのまま軽く咳き込む。

 

(前より咳をする頻度が増えてる……)

 

 

 正直、病というにはおかしい点が多い。本当に、理解したくもないが──呪いはあるのかもしれない。

 

 

 呪いだというのなら、その詳細がほしい。けれど叔父は話してくれない。だから安曇は病だと思うしかないのだ。

 安曇は難しい顔をして黙り込む。

 

「お」

 

「?」

 

 叔父は安曇の腰に結んである房紐を見て、ニヤリとからかうような表情をする。

 

「それ、まだ持ってんのか」

 

「これは……御守りなんだから普通でしょ」

 

 本来は、刀の柄か何かに結ぶ用の丈夫な紐だ。今は安曇のベルトに結ばれていた。

 

「はは、素直じゃねぇなぁ」

 

 煙を揺らし叔父が笑う。そしてそのまま、また少し咳き込んだ。

 安曇は目を伏せ、薄紫の房紐は小さく揺れた。

 

 

 

──ボーン

 

 壁の振り子時計を見れば、朝食の時間が迫っていた。遅れると総司がうるさい。

 

「僕、朝ごはん行ってくる」

 

「おう。食ってこい」

 

 叔父は安曇を追い払うようにヒラヒラと手を振り、思い出したように顔を上げた。

 

「そうだ、お前。放課後、幹部会があるから」

 

「……僕も出るの?」

 

「全員だ」

 

「……わかった」

 

 黒鉄組は定期的に幹部会を開く。臨時で開くことも少なくはない。しかし子供まで呼ぶのは珍しい。

 

(何だろう……)

 

 部屋を出ようとした安曇に声がかかる。

 

「安曇」

 

「?」

 

 振り返ると、叔父はフッと煙を吐く。そして真っ直ぐに安曇を見据え、ニヤリと口元を歪める。

 

「──呪いはあるぞ」

 

「え……」

 

 叔父は視線を煙管に移し、それを火鉢にカンッと当てる。中の灰がパラパラと火鉢に捨てられた。

 

「呪いは存在する。そしてお前は……」

 

 叔父はそこで言葉を切り、新しい葉を煙管に入れて、再び火を灯す。

 

 視線だけ安曇に向けて、叔父は再び薄い笑みを浮かべた。

 

「呪いに呼ばれてるのさ」

 

「──」

 

指先から冷えていく。

 

(──どうして?)

 

 どうしてよりによって、あなたがそんなことを言うのか。そんな言葉が喉元まで上がってくる。安曇はグッと手を握りしめて部屋を出た。

 

 新しい紫煙が部屋をたゆたう。

 甘く苦い香りに惑うように。息が止まりそうな──そんな時間だった。

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