まるで亡霊のように、その影は他の影とは違った。
真っ黒なドロリとした姿ではなく、仄暗く闇に透けるようなその姿。
「叔父……さん?」
その叔父の手には、いつの間にか房紐が握られていた。そして──ザプン……!
まるで誘われるように、影は死水に戻ってしまう。
「!?」
(何だ!? 今のは何なんだ!?)
わからないが、手に持ったはずの房紐がゆらりと水底へ向かって行くのが見えた。盗られたのだと気づくまで、一瞬のラグがあった。
「待て!」
安曇が慌てて死水を覗き込むと、水の中に何かが見えた。
「あれは……!」
部屋の一番奥、低い場所に何かがある。
(扉……か?)
薄暗いせいでわかりにくいが、扉があるように見えた。
扉は開いていた。そして房紐は、するりとそこに吸い込まれていく。
「待っ──!!」
そして代わりに黒い影がズルズルとこちらに流れ込んでくるのが目に入った。
(向こうから淀みが来てる……!?)
ゾワッと粟立つ感覚とともに、安曇は思わず息を飲む。
流れ込む淀みが……球体になっているのだろうか。だとすれば、向こう側はこちら以上に地獄が待っている。
けれど──脳裏に映る叔父の姿は全く色褪せていない。
安曇は歯を食いしばった。
──ボコリ
扉の向こうから絵の具のような黒い筋が流れ込み、水面まで来て影になる。
「邪魔……だ!!」
苛立ちのままに浮き上がる影が形になる前に刺殺し、安曇はその勢いのままに水に飛び込んだ。全身を焼くような激痛に包まれる。
──迷うな! 潜れ!!
ジャプンッと音を立てて水にもぐっていく。しかし──
「!」
中は地獄だった。
熱くもないのに火傷のような痛みが全身を襲い、じわじわ蝕んでいく。見れば見る見るうちに体が黒ずんで行くのが見えた。
(急が……ない、と!!)
目を開けていられなくても、安曇は扉を睨みつけ、流れるように寄ってくる影を明確な殺意で斬り殺していく。
半分意地になっていたのか、それとも想いが勝ったのか。
ジャプン……! ジャプンッ!
視界が濁る。
まるで指が、髪が……もがきながら水に溶けていくようだ。逃れられない不快な感覚が全身を覆う。
(あと……少し……!!)
どうにか辿り着いた安曇の指が、扉に触れた瞬間。
ギィィィ
扉が──さらに開いたように感じた。
「──!?」
引き込まれるように、抗った腕も虚しく安曇は中に吸い込まれる。
そして──
「ゴホッ……! ゴホッゴホッ!」
扉を通り抜けた瞬間、水から解放された。
全身が溶けたように感じたのは錯覚だったらしい。手足を見ればあちこち黒くなってはいるものの、溶け落ちたりはしていなかった。
「……はぁ……え?」
驚いて周囲を見渡せば、そこは先程までいた対の館だった。
ただし、床は下がっていないし水もない。背後の扉の中だけが、ユラユラと景色が揺れていて、ここに来るまでの景色が嘘ではなかったことを告げている。
(房紐──あ!)
房紐は床に落ちていた。拾い上げれば、特に濡れた様子もなく。汚れも傷も見当たらず、安曇はほっとする。
「ここは……」
改めて周りを見れば、そこは確かに対の館だった。しかし、物の配置が全て左右反転している。
まるでここが鏡の中とでも言うように──
「どういうことだ……?」
安曇は間違いなく扉の向こうに来たはずだ。その場所がまた、同じ場所? いや、同じであって違う場所だ。入ってきた扉は向こう側に水を張られたように、景色がゆらゆらと揺れている。
(これは……ここは何だ?)
見えるもの全てが強烈な違和感を主張し、状況のチグハグさに安曇は気分が悪くなる。
死後の世界なんだろうか。だってみんな水になった。
(いや……)
安曇は首を振る。それでは自分も死んだことになる。じっと手を見れば、全身が黒ずんで爛れていたが、痛みも感覚も確かにそこにある。
「僕は死んでない」
そう呟いて顔を上げると──
「!?」
いつの間にか、安曇の周りに影が立っていた。
それは水に入る前よりどす黒く、穴のように見える虚ろな目は、赤黒い光を発していた。
「──」
息が止まりそうになり、背筋が凍る。
数も、大きさも、これまで見てきたものより上だった。
(死……)
死者の国なのか、化け物の巣なのかわからない。けれどこれは──
『どれほど恐ろしかったとしても、目を閉じるな。どんなものにも弱点はある』
(……わかってるよ)
『大丈夫だ、お前は俺の弟子なんだから』
「っ!」
グッと目に力を入れる。そして黒い影が動くのとほぼ同時に左にスライドし、足を斬る。
ゴッ……!
「!?」
(手応えが鈍い!?)
まるで棒か何かで凪いでいるような感覚に安曇は目を見開く。けれど止まっている暇はなかった。
次の影も、次の影もふらふらと寄ってくる。都度、斬っているはずの感覚が殴る感覚に変わっていて、安曇は困惑する。
ゴッ!!
やはり手に伝わるのは、殴るような感触。
ここが異世界だから──とでもいうのだろうか。
安曇の一撃にわずかな傷すらつかず、黒い影は押されるように後ろに下がり、他の影とともにユラユラ震えた。
キュオォォ
キュオォォ
合唱のように叫びながら寄ってくるものに、体当たりをしながら突き刺していく。
(何で刃が……!)
刀が棒になったなんてことは無い。だというのに。
「次から次へと厄介な……!」
後ろに戻るべきか、チラリと背後を確認すれば、すでに黒い影が回り込んでいる。
「くそっ!」
扉に飛び込めば逃げることはできる。けれど理由はさておき激痛に耐え、こんな場所まで来て手ぶらで帰るなんて有り得ない。
(叔父さんがここに呼んでくれたのかもしれない)
この『お役目』という悪習を終わらせるために。
ならば、やることはひとつだ。安曇は痺れるように痛む身体を叱責し、影を避けては斬りつける。
「くっ!」
目の前の黒い影を一突きして押しのけ、この世界へ来た扉と真反対にある館の扉へ走る。
安曇が押しのけたからか、走り出したからか。犬のような形の黒い影も、ギャオォオと叫びを上げて走り出した。
「!?」
そしてあっという間に回り込まれ、扉を塞がれてしまった。
影の犬と見つめ合う。ドロドロと崩れる体、濁った赤い目。
不快感と、恐怖心が湧き上がる。
はっ、はっ、自分の呼吸音だけが大きく響く。
(少しでも動いたら)
濁った目は安曇を観察するように見つめている。
(……殺される)
背筋に冷たいものが流れた。
吐き気すら込み上げる沈黙。
周りの影たちがユラユラと距離を詰めてくる。
──ズルリ……
「!」
向かおうとしていた扉から、先程より大柄な黒い影が入ってきた。
「こんな……ところで……!」
安曇はギュッと手を握り、最後に刀を構える。
──その時だった。
ザクリと扉の黒い影の胸から刃が生える。
安曇の目の前で黒い影は崩れ去る。
(何……!?)
そちらに意識を向けていると、背後から全身に響くおぞましい声がする。
キュオォオ
ギャオォオ
あちらから、こちらから、人型の影が被さるように襲ってくる。
「っ!!」
振り向きざまに必死で刀を振るえば、刀は影に刺さり、人型の影もまたボロボロと崩れていく──が。
ギャオォォ
その背後から飛びかかる犬型。
(間に合わな──)
安曇はギュッと目を閉じた。
「危ない!!」
風のような速度で誰かが部屋に入り、瞬く間に犬型が真っ二つになる。
その人物はそのまま影たちを斬り伏せていく。雷鳴のような剣戟が響き、黒い影たちが次々と塵になる。鋭く、速く、美しい剣撃だ。
その中心に──長い髪をなびかせた女性が立っていた。
全ての影が塵になり、さらさらと飛んでいく中で。
「大丈夫か? 少年」
安曇はその女性──東雲継葉《しののめつぐは》と出会った。