──ズシャ!!
「ぐぅ……!」
床に落ちた安曇に、継葉が駆け寄る。が、それより早く起き上がった安曇は、部屋の外へ走り出す。
「大丈──うおあ! 待て待て待て!!」
(隣の部屋は、大広間だったはず……!)
「待ぁて! というのに!!」
背中をガシッと捕まれ、安曇は前のめりに倒れかける。
「何を──!!」
「危ないだろうが!!」
安曇が思わず食ってかかると、言い終わるより早く継葉が強く言い切った。
だが安曇だって譲れるものと譲れないものがある。
「向こうに行ったなら追います! 危険かどうかは関係ない!」
「ええ!? お前……なんでこんな小さいのにそんなに覚悟決まってんだよ!?」
無視して進もうとする安曇の腕を掴む。
「どの道、この空間から逃げた! もういない!」
「なんでそんなこと……!」
「縁が切れたからだ!」
「──」
ギシリ……心臓が嫌な音を立てて体が硬直した。過ぎるのは先程感じた強い喪失感。
「あの影はその房紐を辿ってきたんだろう。縁ごとお前も飲み込もうとしていた」
「……飲み込まれた人は……どうなるの?」
声が震えなかった自分を少し褒めたい。
胸に渦巻くのは悲しみと──怒り。
「影と同化する」
「っ!!」
(……でも)
乱れそうな呼吸を必死で落ち着かせて足を踏み出す。だからといって諦めていい話ではないから。
「おい……」
「……関係ないよ」
「あーもー、お前本当に……」
継葉はガックリと項垂れて安曇についてくる。
広間に行っても、継葉の言う通り影ひとつ存在しなかった。安曇はグッと歯を食いしばり、切れてしまった房紐を見る。
(叔父さんは……どうなった?)
「早まるな。あの蜘蛛の中の男だな? お前が縁を持ってる相手は」
「……」
「たぶんまだ無事なはずだ」
「!」
玄関に手をかけた安曇がパッと振り向くと、継葉はため息をついて頷く。
「同化というのは混ざること。包み込んでいるということは混ざってないんだ」
「……じゃあ」
「ただ、縁は切れてしまったからな……。縁を辿れなくなったから、ここの空間から追い出された……というところだ」
この館の中を安定させていると継葉は言っていた。そのせいか。
安曇は躊躇わず玄関を開けようとする。
「じゃあ、館の外だね」
「おいこら!!」
継葉を無視して扉を開けると、一面稲穂が広がる田園風景に出た。
「……は?」
もっと不気味な……影の世界を想像していた安曇は、目の前に広がるのどかな風景に思わず足が止まる。
穏やかな風が頬を撫でる。
現実の森とも全く異なる空間だった。
「はぁ……。この辺一帯は私の空間なんだ……。それに、縁がなければ追い切れないぞ?」
「縁?」
「ちゃんと説明してやるから、頼むから話を聞いてくれ。子供がむざむざ死のうとしないでくれ」
「……叔父さんが……無事なら」
安曇が睨むようにして言うと、継葉は少し考えるように口に手を当てた。
「ん……正確なところはわからんが……ああやってたまに流れてきては飲み込まれていく」
継葉は僅かに眉根を寄せる。彼女は彼女なりに思うところがあるのだろうが、こちらは急いでいる。
「……どのくらいもつの?」
「私も毎回助けようと追いかけ回す。だいたい二週間といったところだ」
助けられたことがないがな……と継葉は苦笑した。
(二週間……)
「あの影は……どこにいるの?」
「わからん。探し回るしかないんだ」
「それじゃ……!」
間に合わないかもしれないと、安曇は食ってかかろうとしたが、継葉は真剣な表情で頷いた。
「そうだ、間に合わん。普通はな」
「?」
「さっき叔父と言ったな? お前とあの男は縁者なのだろう。だったら、普通に探すよりは可能性がある」
「……」
言っていることはわかる。縁を辿るというのだから、向こうからもこちらからも辿ることができるのだろう。安曇はそう理解した。
(でも……)
だからこそ。
「あの影が去ったということは、繋がりが弱いんじゃないの?」
叔父との繋がりは希薄なのだと、そう言われるのは非常に不愉快だ。だからといって意地で無視していい話ではない。
「……ふむ。回転が早いな。確かにな」
「……」
安曇が黙ったことで何かを察したのか、継葉は苦笑した。
「別に縁が希薄というわけじゃないんだ。こういうのはできれば物があった方がいい」
「……どういう意味?」
「言霊というものを聞いたことがあるか? あれと似たようなものだ。言霊は言葉に出すことで力を持つものだが、これと同じで縁も形を持たせることで強くなる」
隆明と安曇。
叔父と甥であり、師と弟子の関係であり、呪われた者同士でもある。
『自分の命の価値を一番上にしない』
おそらく似た者同士でもあるだろう。
安曇は切れた房紐をもう一度見つめる。ここに込められた、縁。
『御守りみたいなもん』
叔父はそう言って笑っていた。
これを貰ってもう四年になるのか……と安曇はそっと目を細めた。
「だから、できればお前の叔父さんの持ち物とか、そういうのが手に入れば影を探しやすいだろう」
「持ち物……」
「ありそうか?」
それはあるだろう。
父はまだ叔父の部屋を片付けていない。叔父に妻子もいなかったから、そのままのはずだ。
「あると思う」
しかし問題は……。
安曇は黒ずんで鈍い痛みを感じる腕を見つめる。取りに行って戻ってくるということは、あの死水を二回通るということだ。
(……もつか?)
すぐに移動は厳しいかもしれない。少なくとも、安曇が死んでは意味がないだろう。
「言っておくが、私は推奨しないぞ。救ったところで……生者ではないだろう、あの者は」
「……」
安曇は目を伏せた。
叔父は死んでいる。これは変えることができない事実だ。けれど、あの影に飲み込ませて良いのかと問われれば──
「……関係ない。叔父さんを、助けたい」
──何度だって、同じ答えを出すだろう。
「……そうか。本当に厄介な子供だな」
継葉は諦めたように苦笑した。そして大きく息を吸って、ニカッと晴れやかな笑顔を見せる。
「仕方のない子だ。まあ、嫌いじゃないけどな。……そうだな、無事にここまで戻ってきたら……」
継葉はフゥと息を吐き、腰に手を当てた。
「弟子にしてやろう!」
「…………は?」
思わず真顔で見返す。
(……なんでそうなる?)
困惑する安曇をよそに、継葉はこの日一番の笑顔を浮かべた。
***
「ん~! どうしてこんな怪我したんですかぁ!?」
メガネをキラリと光らせた長髪の医師が、安曇を覗き込む。
「……」
黒鉄組の御用達、霜月医院の院長である霜月傑《しもつきすぐる》。安曇はこの医師が少々……いや、非常に苦手である。
「もおおお、ど~して! 君は! 体が弱いんですから~!」
この妙なテンションが嫌なのだ。
(どうしていつでも変人なんだ……)
安曇が顔を顰《しか》めたのを、痛むのだと勘違いしたらしい院長がさらに声を上げる。
「フ~! 時雨《しぐれ》! 包帯たくさんとお湯持ってきて~!」
院長の息子である時雨は、慌てながらお湯を取りに行く。
院長を見て、息子を見る。
あまり似ていない。そして似てなくてよかったと安曇は思う。
(二倍疲れるのはごめんだ)
「あ、あの! も、持ってきました!!」
時雨がお湯をサイドテーブルに置いた。
あのあと──
すでに師匠なら叔父がいる。けれど安曇は、この東雲継葉に価値を見た。
(少なくとも、叔父さんを探すにも、影を倒すにもこの人が必要だ)
実力は正しく測るべきだ。意地になって失敗したくもない。
安曇が頷くと、継葉は満足そうに笑ったあと眉を下げた。
「だが、無理だと思ったら来なくていい。いいか? お前が諦めても誰も責めない」
慰めてくれているし、心配してくれているのもわかる。でも、だからこそ安曇は首を振った。
「僕が僕を責めます。だから、必ず帰ってきます」
「……そうか」
苦笑する継葉に挨拶をして、一休みしてから安曇は死水を通り抜けた。
(毎回これをやるのか……)
入る直前にはさすがに身体が竦んだ。けれどやらないという選択はなかった。
現世に戻った安曇は、肌は所々に血が滲み、あちこち黒ずんでめくれていた。
足を引き摺って屋敷に帰ると、使用人に見つかりあっという間にベッドに運ばれ、医者を呼ばれて──これである。
「薬を塗りますからねぇ! しっかりべっとりねぇ~!」
「……はい」
喋るだけでも顔が引き攣る。
(テンション下げてくれないかな……)
「ぼ、僕は、ど、どうしたら?」
息子の時雨には吃りがある。
安曇にはどうでもいいことだったが、この親子を足して二で割れたらいいのにと酷いことを考えてしまう。
「時雨ぇ! 包帯取って~!」
「は、は、い!」
時雨は悪い人間ではない。
年齢は安曇より三歳上だったはずだ。体が大きく大人にも見えるが、顔はまだあどけなさが残っていた。
「……」
終わりましたと言われて鏡を見れば、見事なミイラができあがっていた。
(動きにくい……)
「あ、の、だ、大丈夫?」
「大丈……に、見……る?」
(喋りにくい……)
「え、と……?」
「はぁ……」
この日から、安曇のあだ名は『黒鉄のミイラ男』になった。