翌朝──
あれから安曇の部屋は静かなものだった。一晩、痛みと薬とで朦朧《もうろう》としていたが、早朝にようやく思考がクリアになってきた。
「時雨」
「は、はい」
霜月医師によって看護につけられた時雨は、交代することもなくせっせと安曇の世話を焼いている。
「僕が寝ている間、誰か来た?」
「あ、い、いえ」
「霜月先生は父さんに報告を上げてるよね?」
「は、はい、そ、そう聞いてます」
なら間違いないだろう。
(父さんか……)
おそらくお役目が漏れることを懸念して、安曇の怪我は秘匿されているんだろう。あの父の思考は何となくわかる。
「……」
体を動かすと鈍い痛みが走る。さらには包帯のために動きにくい。
安曇は小さくため息をついた。
(これは厄介だ)
自分の体のことではなく、他のことが。
チラリと時計を見れば、まだ間に合う時間だ。
「時雨」
「え、あ、は、はい」
看護に当たっていた時雨は、濡れタオルを持ったまま背筋を伸ばした。
「学校へ行くから、車を回させるように手配して。……奥村あたりに言えばいい」
「ええ!? そ、その体で……ですか!? む、無理ですよ! ゆ、ゆっくり──」
「時雨」
「う、で、でも」
「動けるし意識もあるから問題ない。君に責任は問わない」
言葉を詰まらせた時雨は、そのまま一礼して部屋を出ていった。こちらはこれで良いだろう。
安曇は包帯をいくつか外す。あえて黒い傷がところどころ見えるように調整し、服を着替えた。
ズキリ──
「っ」
(布が当たるだけでこれか……)
衣類が擦れるだけでも鋭い痛みが走る。
──本当に厄介だ。
安曇は大きく息を吐いた。
時雨はきちんと奥村に話を通したようだった。
黒鉄屋敷はまるで武家屋敷のように、幹部とその家族、そして霜月一家がまとめて暮らしている。このご時世に奇妙なことだと思いつつ、今回のような場合には役に立つので悪くもない。
安曇のような子供でも手を打つことが可能になるし、噂の操作もしやすいからだ。
近日、定期幹部会が開かれる。おそらくそこで、奥村は一役買ってくれるだろう。
──今日も雨だ。
傘を持つ手が震える。これでは刀も持てないと思うと、ため息しかでない。
総司はとっくに出発していたので、安曇は奥村に手配させた車に乗り込む。体制を変えるだけで痛みが走ったが、安曇は決して顔に出すことはしなかった。
「……」
雨音に目を閉じる。
本当は、さっさと叔父の部屋を見て何かを手に入れておきたい。焦りは常に安曇を急き立てている。
(だけど……)
自分の体のことを考えれば、このまま即座に行動には移れない。怪我の具合いも去ることながら、時間の問題で大きな障害が出てくるだろう。
学校は、想像通りの反応をした。
まるで化け物を見るかのように、生徒も……教師すら安曇を遠巻きに眺めた。ザワザワと噂が広がっていく。
『黒鉄の呪いは安曇に移ったのだ』と。
面白がる者、気味悪がる者など様々だったが、何にせよ。
(悪くない。もっと噂を広げなければ)
布石を打つのなら早い方がいいのだから。
そしてその夜、安曇は予測通り父から呼び出された。
「怪我がひどいようだな」
(見舞うことすらしなかったくせに)
それは諦めにも似た感情だった。隆盛は昔から、息子たちを見ない。当主として、組長としては正しくある人だと思うが、父親とはどうしても思えなかった。
「……たいしたことはないです」
隆盛は付き添ってきた時雨を下がらせると、座椅子に座り静かに安曇を見る。
「役目が重いか?」
「……別に」
どうやらお役目をこなせていないと考えられたのだろう。厳しい眼差しではないが、心配しているわけでもなさそうだ。
「消耗が早いな。このままでは潰れるだろう」
「……」
(案の定……か)
日常生活を難なくこなしているように見せているが、実際問題、安曇は重傷だった。身体の外だけでなく、中も傷んでいる。目もまだ少し霞んでいた。
(確かに、何度も行き来はできない……)
それは認めざるを得ない。
「しばらく外出禁止だ。次の継承者を探す。それまで騙し騙しお役目をこなすように」
「!?」
パッと顔をあげれば、いつも通り当主としての顔がそこにある。
それは安曇が死ぬことを予期してか。あるいは長持ちさせるための言葉か。安曇には判断がつかなかった。
(この人はいつもこうだ……)
「あてはあるんですか」
「屋敷内にいる子供らにはいないが……外部の黒鉄組末端まで探せばひとりくらいは見つかるだろう」
「……僕はできます」
「消耗が早いと言ったぞ。隆明はお前の歳でそこまでの怪我は負ってなかった」
「……」
安曇は小さくため息をついた。
こうなることは予想できていた。だからこそ──布石を打ったのだ。
父を黙らせる必要があった。
次の継承者が来ようが構わないが、ここで降ろされるのだけは何としてでも避けなければならない。
「……知っていますか?」
「何をだ」
「黒鉄の呪いは、ひとりにしかかからない」
「……」
そうやってひとりにお役目を押し付けてきた歴史がある。
「僕は今日、学校に行きました。黒い傷をみんなが見ましたよ」
「お前……」
「それでも探すんですか? 見つけてどうするんです? 隠蔽しますか?……あの奥村道幸《おくむらみちゆき》のように」
「──!」
隆盛の顔色が変わった。
奥村道幸。
この名前は、安曇が知る限り存在しない。
けれど確かにいたはずだ。あの場で叔父が安曇に作り話をするはずがないのだから。
叔父の親友。一緒にお役目を生きて、死んでいった人物。そして──いたという歴史ごと消されてしまった少年。
正確には、奥村幹部に『息子など存在しない』ことになっている。
黒鉄屋敷では当主一家と幹部が同じ屋敷に住んでいるのだから、まだ十歳の安曇でもそれくらいは知っている。
「父さん、僕は呪われています。継承者は……僕が死ぬまでお待ちください」
安曇は薄らと微笑む。
隆盛は非常に苦い顔をした。
「……」
「それと、叔父さんの部屋の物を確認してもいいですか?」
「……好きにしろ」
隆盛はため息をついてそう言ったあと、もう何も言わなかった。
***
安曇の母の結衣子《ゆいこ》は、幹部の細谷《ほそや》の姉である。安曇が聞いた限り年齢の近い女性が当時いなかったということもあり、蝶よ花よと育てられたということだ。──そのせいか、非常に我が強い。
「母さん……何してるの」
叔父の部屋のはずだ。
そこに使用人三人と、まるで家探しをするかのように故人の荷物を引っ張り出しているこの人は一体何なんだろう。
「何って見ればわかるでしょう。片付けているのよ」
「……父さんに許可は取ったの?」
いくら本邸の主は柘植だからといって、叔父の部屋を漁る権利はないはずだ。
しかし、安曇の言葉に結衣子は露骨に顔をしかめる。
「お前、何を言っているのよ。私はこの家の女主人。家を仕切るのは私の仕事。隆盛さんの許可はいらないわ」
「叔父さんは父さんの弟であって、母さんの弟ではないし、居候だったんだから事実上他人の家のようなものでしょう」
安曇の言葉に、母は眉を寄せた。
包帯をした息子に、労りの様子ひとつない。これはまあ、昔からだが。
むしろこの包帯を最初に見た時、化け物みたいだと吐き捨てられた。
記憶にある限り抱かれたこともないし、育児というものを知っているのかもあやしい。安曇にとって、父よりもなお遠い存在だった。
(本当に……うちの親は……)
「うるさい子ね。この家に私がやってはいけないことなんて、何ひとつないのよ。わかったら戻りなさい」
安曇は思わず舌打ちをしそうになった。本当にこの人は人の話を聞かない。兄の頭の硬さはこの人から来たのではないかと思う。
安曇は小さくため息をついて、使用人たちに目をやる。安曇と結衣子の空気に手を止めていた使用人達が、安曇の視線にビクリと肩を震わせた。
使用人の視線の先──庭に積まれた段ボール箱。
(まさか、もう……)
ゆらりと──自分の中で感情がざわめくのを感じる。
安曇は目を細め、部屋に足を踏み入れた。