雨上がりのまだ薄暗い森の中を、一人の少年が歩いていた。
安曇はそれを他人事のように眺めている。
まだ小学生になったばかりの小柄な少年は、泥濘《ぬかるみ》に足を取られながらも諦めることなく前に進んでいく。
(あの日かな……)
本当に他人事で。
目の前にいる少年──五年前の安曇自身に目を向ける。
幼稚園の頃まで体調を崩すことが多かった。だからこの頃は、腕力や体力がまだまだ弱かった。
ここは夢の中か。
安曇はぼんやりと思案する。
どうにも考えがまとまらず、自分がいつ寝たのかも思い出せなかった。
ただこの夢が、いつの夢なのかならわかる。
目の前の幼い安曇。
この頃は今よりももっと、周囲から理不尽な扱いを受けることが多かった。
十歳の安曇になら理由はわかる。
大人には大人の思惑がある。それがどれほど下らないものだったとしても。そしてそれに子供が倣ったということも。
ゆっくり目を閉じてため息をつく。
僅かな苦味と……微かな期待。
(この日は僕が、初めて対の館に行った日……)
そして──
「はぁ……」
安曇は、小さくため息をついた。
雨が上がったばかりの森は足場も悪く、服は濡れる。最悪の場所だ。
黒鉄の立ち入り禁止の森──その奥。
そんな場所の泥の上に、安曇の道着が落ちていた。
あまりにもひ弱な安曇に、叔父が買ってくれたものだった。
(道着は見つけたけど……)
泥水を吸ってずしりと重みを持った道着は、ボロボロで見るも無惨だ。
「……ない」
道着と一緒にあったはずの健康祈願の御守がない。
「……」
道着を広げて、水が散るのも構わずバサバサと振り回してみるが、出てくる気配はない。
「探すか……」
──兄とまだ、そこまで距離が遠くなかった頃にもらった、小さな御守り。
無くしても問題はないけれど、探さないのも気分が悪い。
だから探すのだと自分に言い聞かせる。
幼い安曇はそうやって、泥に足を取られながら森をさまよった。
『あの子はもうすぐ呪われる』
よくそんな言葉を言われていた。
この当時、叔父は二十歳を超えていた。
呪いは伝染《うつ》る。
『隆明はもうじき死ぬのだから。次は──』
そんな噂が安曇本人にも聞こえるようになった頃、安曇の道着は雨の森に捨てられた。
──いい加減、帰るべきか。
そう思った時、視界が開けた。
古びた、どこか不気味な日本家屋がそこにあった。まだこの時の安曇は、対の館の存在すら知らなかったので、その異様さに困惑する。
ここに御守りがあるとは思えなかったが、引き寄せられるように安曇は館へと足を進めた。
そして鉄の玄関を見つけ、その異様さに少し戸惑ったのを覚えている。
「……」
幼い安曇は少し考えて、扉に手をかけた。しかし安曇が力を入れる前に──
「!」
ギィィ
──扉は勝手に開いた。
「うん?」
その鉄扉の向こうから、怠そうな表情の叔父が顔を出していた。
「叔父、さん?」
「安曇?」
安曇を見ると、叔父は驚いたように声を上げる。その脇から奥の部屋がチラリと見える。
(……中が見えそう)
安曇が覗こうとすると、叔父がそっと視界を遮った。
「……見んな」
「え?」
中からは、外より冷ややかな空気が流れてくる。
「この先は、ちょっとダメなんだよ。お前がもう少しでかくなったら……で、必要なら教えてやる」
ふ、と笑った叔父の笑みはどこか冷たい。
「……ダメって?」
呪われているらしい叔父が、なぜこんな所にいるのか。そしてなぜ中を見てはいけないのか。安曇は困惑した。
「安曇」
声音まで凍るようで、安曇は肩を震わせる。
「ダメだっつったろ。そもそもこの森は立ち入り禁止だ」
(それなら叔父さんだって……)
言外に非難され、安曇は少し眉を下げる。濡れた道着をギュッと抱きしめる。
「ん?」
叔父の視線が、安曇の抱えた道着に移った。泥で汚れてしまった道着に。
「お前それ……」
叔父はそれを見つめ、何かを察した様にため息をついた。
「……」
何を言っていいかわからず、安曇は俯く。
──ポツ……
その頬に、水が落ちてくる。雨が降り始めた。
「……他にも何か探してんのか?」
安曇の頭と肩に雨が染みていく。
叔父の呟くような声は、先程よりだいぶ穏やかだった。
「兄さんからもらった御守。でも、いいよ。無くなったものは仕方ないし」
いつまでも大事に持っていたところで、何も変わらないことは安曇もよくわかっている。
「……」
「……」
「ふーん。まあ、お前がいいんならいいか」
少し呆れたように呟くと、叔父はそのまま滑るように扉から出てきて、後ろ手で扉を閉めてしまう。
そして懐をゴソゴソと漁り、何かを取り出した。
「これやるよ」
ポンと渡された物は、房がついた紐だった。
「何これ?」
「まあ、御守みたいなもん。代わりに持っとけ」
軽く笑う叔父も、雨にどんどん濡れていく。
安曇は手の中の紐を見つめて首を傾げる。
「御守…」
赤い布袋が頭をよぎる。
安曇は手の中の紐をギュッと握った。
「ほら、だから探すのはやめて。帰るぞ」
背中をポンポンと押され、安曇は頷いた。ひとりで来た道を引き返し、今度は叔父とふたりで歩く。
手の中でほのかに光る薄紫の房紐は、他の何より宝物のように思えた。
安曇は叔父の隣をまっすぐに歩いていく。
「……」
しかし徐々に身体のあちこちが痛みだし、歩みが少しずつ遅くなる。
「……はぁ……う」
まっすぐ……
(……痛い)
気づけば、隣を歩いていたはずの叔父の背が見える。
(どうして……)
どんどん離れていく叔父に、安曇は手を伸ばした。
「叔父さ……!」
そして気づいた。手に持っている房紐が、切れてしまっていることに。
(ああ……そうか。僕は──)
ぼんやりと目を開けると、目の前に継葉の顔があった。
「お! 目覚めたか……良かった……」
心底ホッとした顔の継葉を見て、安曇はようやく状況を思い出した。
煙管を手に入れた翌日。
まだ熱は下がっていなかったが、薬を処方してもらって強引に死水に入った。
どうやら潜り抜けた先で気を失っていたようだ。
全身が熱を帯びてズキズキと痛む。傷口を抉られるような、殴られ続けるような感覚に吐き気がする。
「……叔父さんは」
「まーったく、お前はそればっかりだな。大丈夫、ちゃんと荷物は持ってこれているよ」
継葉は後ろを指さした。
そこには安曇が持ってきたカバンがある。中身は叔父の手記と煙管だ。
「使えそう……?」
「ああ。あの煙管には想いが感じられるよ。大事にされてたんだろうな」
(まるで異世界みたいに……)
横たわった安曇の脳裏に、紫煙がたゆたう和室がよぎる。そこで静かに笑うあの人の姿が。
「探さないと」
「……無茶苦茶だなぁ、お前は」
継葉は苦笑したあと、少し気まずそうに手を差し出した。
「?」
まだ焦点が定まらない安曇の目に、薄紫の房紐が映る。それは、切れ目を補修するかのように編み直された紐だった。
「え……」
「私が切ってしまったからな……。少し不格好になったし、縁として使えるかあやしいところだが……」
安曇は起き上がり、そっと房紐を受け取る。それは確かに不格好だったが……
『帰るぞ』
そう言って笑う、叔父が確かにくれたものだった。
「ありがとう……ございます」
ギュッと握って胸元に当てる。今度こそ、失くしてしまわないように。
「よし、動けるようになったら行こうか」
継葉の穏やかな笑顔に、安曇はしっかりと頷いた。