黒き蛇は死水に潜る   作:御月ケイ

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第15話 思い出

 

 

 雨上がりのまだ薄暗い森の中を、一人の少年が歩いていた。

 安曇はそれを他人事のように眺めている。

 

 まだ小学生になったばかりの小柄な少年は、泥濘《ぬかるみ》に足を取られながらも諦めることなく前に進んでいく。

 

(あの日かな……)

 

 本当に他人事で。

 目の前にいる少年──五年前の安曇自身に目を向ける。

 

 幼稚園の頃まで体調を崩すことが多かった。だからこの頃は、腕力や体力がまだまだ弱かった。

 

 ここは夢の中か。

 安曇はぼんやりと思案する。

 どうにも考えがまとまらず、自分がいつ寝たのかも思い出せなかった。

 

 ただこの夢が、いつの夢なのかならわかる。

 目の前の幼い安曇。

 この頃は今よりももっと、周囲から理不尽な扱いを受けることが多かった。

 

 十歳の安曇になら理由はわかる。

 大人には大人の思惑がある。それがどれほど下らないものだったとしても。そしてそれに子供が倣ったということも。

 

 ゆっくり目を閉じてため息をつく。

 僅かな苦味と……微かな期待。

 

(この日は僕が、初めて対の館に行った日……)

 

 そして──

 

 

 

 

「はぁ……」

 

 安曇は、小さくため息をついた。

 

 雨が上がったばかりの森は足場も悪く、服は濡れる。最悪の場所だ。

 

 黒鉄の立ち入り禁止の森──その奥。

 そんな場所の泥の上に、安曇の道着が落ちていた。

 あまりにもひ弱な安曇に、叔父が買ってくれたものだった。

 

(道着は見つけたけど……)

 

 泥水を吸ってずしりと重みを持った道着は、ボロボロで見るも無惨だ。

 

「……ない」

 

 道着と一緒にあったはずの健康祈願の御守がない。

 

「……」

 

 道着を広げて、水が散るのも構わずバサバサと振り回してみるが、出てくる気配はない。

 

「探すか……」

 

 ──兄とまだ、そこまで距離が遠くなかった頃にもらった、小さな御守り。

 

 無くしても問題はないけれど、探さないのも気分が悪い。

 だから探すのだと自分に言い聞かせる。

 

 幼い安曇はそうやって、泥に足を取られながら森をさまよった。

 

 

 

 

『あの子はもうすぐ呪われる』

 

 よくそんな言葉を言われていた。

 

 この当時、叔父は二十歳を超えていた。

 

 呪いは伝染《うつ》る。

 

『隆明はもうじき死ぬのだから。次は──』

 

 そんな噂が安曇本人にも聞こえるようになった頃、安曇の道着は雨の森に捨てられた。

 

 

 

 

 ──いい加減、帰るべきか。

 

 そう思った時、視界が開けた。

 古びた、どこか不気味な日本家屋がそこにあった。まだこの時の安曇は、対の館の存在すら知らなかったので、その異様さに困惑する。

 

 ここに御守りがあるとは思えなかったが、引き寄せられるように安曇は館へと足を進めた。

 

 そして鉄の玄関を見つけ、その異様さに少し戸惑ったのを覚えている。

 

「……」

 

 幼い安曇は少し考えて、扉に手をかけた。しかし安曇が力を入れる前に──

 

「!」

 

 ギィィ

 

 ──扉は勝手に開いた。

 

「うん?」

 

 その鉄扉の向こうから、怠そうな表情の叔父が顔を出していた。

 

「叔父、さん?」

 

「安曇?」

 

 安曇を見ると、叔父は驚いたように声を上げる。その脇から奥の部屋がチラリと見える。

 

(……中が見えそう)

 

 安曇が覗こうとすると、叔父がそっと視界を遮った。

 

「……見んな」

 

「え?」

 

 中からは、外より冷ややかな空気が流れてくる。

 

「この先は、ちょっとダメなんだよ。お前がもう少しでかくなったら……で、必要なら教えてやる」

 

 ふ、と笑った叔父の笑みはどこか冷たい。

 

「……ダメって?」

 

 呪われているらしい叔父が、なぜこんな所にいるのか。そしてなぜ中を見てはいけないのか。安曇は困惑した。

 

「安曇」

 

 声音まで凍るようで、安曇は肩を震わせる。

 

「ダメだっつったろ。そもそもこの森は立ち入り禁止だ」

 

(それなら叔父さんだって……)

 

 言外に非難され、安曇は少し眉を下げる。濡れた道着をギュッと抱きしめる。

 

「ん?」

 

 叔父の視線が、安曇の抱えた道着に移った。泥で汚れてしまった道着に。

 

「お前それ……」

 

 叔父はそれを見つめ、何かを察した様にため息をついた。

 

「……」

 

 何を言っていいかわからず、安曇は俯く。

 

 ──ポツ……

 

 その頬に、水が落ちてくる。雨が降り始めた。

 

「……他にも何か探してんのか?」

 

 安曇の頭と肩に雨が染みていく。

 叔父の呟くような声は、先程よりだいぶ穏やかだった。

 

「兄さんからもらった御守。でも、いいよ。無くなったものは仕方ないし」

 

 いつまでも大事に持っていたところで、何も変わらないことは安曇もよくわかっている。

 

「……」

 

「……」

 

「ふーん。まあ、お前がいいんならいいか」

 

 少し呆れたように呟くと、叔父はそのまま滑るように扉から出てきて、後ろ手で扉を閉めてしまう。

 

 そして懐をゴソゴソと漁り、何かを取り出した。

 

「これやるよ」

 

 ポンと渡された物は、房がついた紐だった。

 

「何これ?」

 

「まあ、御守みたいなもん。代わりに持っとけ」

 

 軽く笑う叔父も、雨にどんどん濡れていく。

 安曇は手の中の紐を見つめて首を傾げる。

 

「御守…」

 

 赤い布袋が頭をよぎる。

 安曇は手の中の紐をギュッと握った。

 

「ほら、だから探すのはやめて。帰るぞ」

 

 背中をポンポンと押され、安曇は頷いた。ひとりで来た道を引き返し、今度は叔父とふたりで歩く。

 

 手の中でほのかに光る薄紫の房紐は、他の何より宝物のように思えた。

 

 安曇は叔父の隣をまっすぐに歩いていく。

 

「……」

 

 しかし徐々に身体のあちこちが痛みだし、歩みが少しずつ遅くなる。

 

「……はぁ……う」

 

 まっすぐ……

 

(……痛い)

 

 気づけば、隣を歩いていたはずの叔父の背が見える。

 

(どうして……)

 

 どんどん離れていく叔父に、安曇は手を伸ばした。

 

「叔父さ……!」

 

 そして気づいた。手に持っている房紐が、切れてしまっていることに。

 

(ああ……そうか。僕は──)

 

 

 

 ぼんやりと目を開けると、目の前に継葉の顔があった。

 

「お! 目覚めたか……良かった……」

 

 心底ホッとした顔の継葉を見て、安曇はようやく状況を思い出した。

 

 

 

 煙管を手に入れた翌日。

 まだ熱は下がっていなかったが、薬を処方してもらって強引に死水に入った。

 

 どうやら潜り抜けた先で気を失っていたようだ。

 

 全身が熱を帯びてズキズキと痛む。傷口を抉られるような、殴られ続けるような感覚に吐き気がする。

 

「……叔父さんは」

 

「まーったく、お前はそればっかりだな。大丈夫、ちゃんと荷物は持ってこれているよ」

 

 継葉は後ろを指さした。

 そこには安曇が持ってきたカバンがある。中身は叔父の手記と煙管だ。

 

「使えそう……?」

 

「ああ。あの煙管には想いが感じられるよ。大事にされてたんだろうな」

 

(まるで異世界みたいに……)

 

 横たわった安曇の脳裏に、紫煙がたゆたう和室がよぎる。そこで静かに笑うあの人の姿が。

 

「探さないと」

 

「……無茶苦茶だなぁ、お前は」

 

 継葉は苦笑したあと、少し気まずそうに手を差し出した。

 

「?」

 

 まだ焦点が定まらない安曇の目に、薄紫の房紐が映る。それは、切れ目を補修するかのように編み直された紐だった。

 

「え……」

 

「私が切ってしまったからな……。少し不格好になったし、縁として使えるかあやしいところだが……」

 

 安曇は起き上がり、そっと房紐を受け取る。それは確かに不格好だったが……

 

『帰るぞ』

 

 そう言って笑う、叔父が確かにくれたものだった。

 

「ありがとう……ございます」

 

 ギュッと握って胸元に当てる。今度こそ、失くしてしまわないように。

 

「よし、動けるようになったら行こうか」

 

 継葉の穏やかな笑顔に、安曇はしっかりと頷いた。

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