「ぐっ!!」
蜘蛛の糸に絡まった瓦礫にぶつかるようにしがみつく。その衝撃にボロボロの全身が悲鳴をあげる。
服から滲み出した血が、奈落の底へぽたり、ぽたりと落ちていった。
「は……はぁ……あ」
手が届きそうな位置に、助けたいと願ったその人がいる。痛みに意識が明滅する中で、その姿ははっきりと目に焼き付いた。
糸に絡まり宙吊りになっているその姿に、安曇は震える手を伸ばす。
あと少しで触れられる、そう思った時。叔父の目が薄らと開いた。
「お──」
「安曇! まだだ!!」
継葉の叫びにハッと周囲を見れば、飛び散った影があちこちで歪み、奈落の闇と溶け合って形を作っていく。
それはまるで、奈落の底から顔を出す巨大なウツボのようで──穴のような瞳にゾッとする。
その大きさは、ビルほどにもなるだろうか。
(なんだ、あの化け物……あと少しなのに──!)
安曇がさらに強く上半身を乗り出したその時──
『安曇』
「!」
懐かしい声が聞こえた。
気のせいだったのかもしれないし、願望からの幻聴だったのかもしれない。
けれど安曇が顔を上げれば、懐かしい視線と目が合う。
「お……」
安曇が声を上げようとした、その時。
──ドンッ!!
あと少しで手が届く。そう思っていた相手は、思い切り安曇を突き飛ばした。
突然の衝撃に押されるように、安曇は継葉のあぜ道に投げ出される。鈍い痛みを無視して顔を上げれば。
「おじさ──!」
──ばくん
安曇の目の前で。
赤黒い光をその穴のような目に宿らせたウツボが飛び出す。
そして蜘蛛の残骸と、蜘蛛の巣に囚われていた叔父を──飲み込んだ。
「──」
息が止まる。
目を逸らすことができなかった。
全身が小刻みに震えている。
ウツボは瓦礫すらぐにゃぐにゃと飲み込む。そして大きく飛び上がったあと、水面を飛んだ魚のように、再び奈落へと飛び込んでいった。
安曇の絶望を飲み込んだまま。
「……ぁ……」
最後に目が合った叔父は笑みを浮かべていた。──いつもと同じ、揶揄うような微笑みを。
「う……あ……」
ぬらりと動く影のウツボは、そのまま奈落へと泳いでいく。ゆらゆらと沈み、回遊するように円を描く。
泳いでいる音が聞こえるようだ。
楽しそうに、嘆く安曇を嘲笑うように。
身体の痛みより呼吸すらできない胸の中の重りが苦しい。
(僕はそんな風に!!)
守られたくなんてなかった。
「あああ!!」
瓦礫を掴む指が、掴めない石を引っ掻く。ザリッと指先が抉れたが痛みはわからなかった。
──どうして!!
取り戻したいと願って、何が悪い!?
何故? どうして奪っていく!?
ウツボの動きに煽られたように揺れる身体が、しがみつく腕と肩が全身に限界を訴えている。それすら最早わからなかった。
心地よい場所だと思った。
その場所に……いたいと思った。
それだけだ!!
だから──だから、ここまで来たのに!!
「ふざけるな──!!」
安曇は自分の命なんて惜しくない。
意識を引き裂くような全身の痛みも、消えそうになる意識も全部無視して、迷うことなく安曇は奈落に飛び込んだ。
「──!」
うしろで継葉の声が聞こえたが、頭には入らなかった。
──シュオオオオ
落ちてくる安曇に気づいたのか、ウツボは空気が抜けるような音で吠えると頭をぬらりと上に向け、上昇を開始する。
落下すら恐怖はなかった。怖いのは落ちることでも、目の前の化け物に食われることですらなく、ただ失われてしまうことだけだ。
(逃がさない!!)
──ドガッ!!
「ぐっ!!」
登ってきたウツボの鼻に落ちる勢いのままに刀を突き刺すが、ウツボの登る勢いの方が早かった。
体当たりされるような衝撃に意識が飛びかける。
「かはっ」
口から赤いものが零れる。
呼吸が乱れ、ヒューヒューと音がした。
刀ごと両手がズブリと影にめり込み、激痛が走り、全身に痺れが広がっていく。
意志の力でどうこうなるところを超えていた。
「っあ……」
今どこにいるのかもわからない。
浮遊する感覚は、安曇が唯一感じられたものだった。
放り投げられるように再び上空まで突き上げられ、ウツボが下から大きな口を開く。
「……」
(飲み込まれたら……叔父さんに会えるだろうか……)
ギザギザの牙が見えて、安曇は終わりを悟る。
指一本動かすのも億劫だ。
視界はボヤけ、今が永遠に続くのではないかという気がした。
……いたいと思う場所にいて、何が悪い?
欲しいものに手を伸ばさない馬鹿がいるか?
(だけど届かなかった)
指先から意識がほどけていく感覚。
何も残らない、何も無い。
これが混ざるということだろうか?
ならいっそ、このまま食われて混ざるのも──
「すまない」
それは静かな声だった。
耳に届いた謝罪。
それは、最近師と仰いだ女性の声。
次の瞬間。
安曇の目の前で、雷光のような斬撃にウツボの首は両断された。