『百蛇物語』
その蛇は水から現れた。
数多の大地、森、川、海がありながらなぜその地が選ばれたのかは誰も知らぬ。
けれど突然、蛇は現れた。
蛇は人も村も黒く染め上げた。
人が減り、村が消え……幕府の志士さえ飲み込んでしまった。
食えば食うほど命は蛇となり、蛇は数を増やしていった。
やがて蛇に抗おうとする者たちが現れた。
彼らは言う。
これは祟りに違いない。鎮めねばならぬと。
社を建て、封を作り、蛇を閉じ込めた。しかし時には多くの命が蛇になってしまっていた。
あれは……。
そう、あれは死者の魂なのだ。
死者より襲ってくるものに違いないのだ。
抗う者たちは十の蛇を殺し、五人が失われ、やがて百の蛇を殺した頃には多くの命が蛇に飲まれてしまった。
辛うじて飲まれなかった者の中には蛇の力を使う者も現れた。
心を鎮め、命を見る。
その力を使えば蛇の核を理解できる。
命を辿り、禍を打つのだと言う。
彼らは蛇を殺し人を救い、やがて、百蛇衆《ひゃくへびしゅう》と呼ばれるようになった。
しかし、それでも蛇は減らなかった。
どれほど戦っても抗っても減らず、やがて百蛇衆は刀を振るう力をなくしていった。
ある者が言った。
『神を鎮めてみせましょう。私が中に参りましょう』
そうして神事を進めるがごとく。
命を賭《と》して飛び込んだ蛇の水は、かくして蛇を産まなくなった。
しかし、どれほど時が流れたか。再び蛇が笑い出す。
もはや……。
もはや蛇を産む戦など、誰も挑めるはずもなく。
ただ粛々と身を捧げる他、道はなく。
死出の旅路と言うなかれ。
けれど迷うこともないように。
百蛇衆は家紋を刻んだ硬貨を渡す。
どうか迷いませぬように。
どうか意志が消えませんように。
この六文銭を対価とし、どうか水が穏やかであるように。
子供たちよ。
彼らの献身を理解せよ。
我らの罪から目を逸らすな。
今も彼らが守っているということを、決して忘れることなかれ。
***
所詮は御伽噺《おとぎばなし》だ。
そう割り切ってしまうには、何だか共通点が多い。
「蛇に食われ……蛇となる」
必死で命をすり減らして戦っていた継承者は、記憶の墓場で化け物となり、叔父を連れ去った。その縁を辿って。
『蛇の力を使う者が──』
「……」
命が混ざった感覚は今も残っている。
包帯が巻かれた手をじっと見つめ、安曇は小さくため息をついた。
対の館の手前。
そこは生活スペースであり、たかが扉ひとつだというのに影が来ない。
理屈はわからないが、百蛇物語が対の館を指しているのなら社ということになるのだから、何か特別な処理をしてあるのかもしれない。
(師匠なら何か知ってるかも……)
あの六文銭を持っていた継葉なら。
「……いや、やめよう」
だからと言って興味本位で聞く話でもない。
「はぁ……」
地下に置かれていたものは、おそらくその百蛇衆の物だろう。黒鉄組がここに来る前の歴史に何があったのか。
「……」
安曇は天井を見上げる。そしてしばらくそのまま上を睨んだあと、首を振った。
保留だ。
今はとにかく時間が惜しい。
地下の品は元の場所に返し、安曇は踵を返した。
──ポツポツ
一階の生活スペースに戻る。
耳に届いた音に、安曇は雨が降ってきていることに気づいた。
時間ももう夜半にさしかかる。
無理すれば帰れないこともないが……体調を考えれば得策とは思えない。
(明け方までに止むだろうか)
全身の痛みが緩やかに戻ってきていた。安曇は座って壁に寄りかかり、持ってきた追加の痛み止めを飲み込む。
静かな室内。
やがて効いてきた痛み止めに意識がぼやけて、考えるともなしに様々なものが頭に浮かぶ。
結局のところ、蛇とは何なのだろう。
なぜ継承者たちは──叔父は死ななければいけなかったんだろう。
継葉はなぜ、ひとり戦い続けていたのだろう。
雨音は打ち付けるような音に変わり、止む気配を見せない。
薄闇に溶けてしまうような気分だ。
安曇は静かに目を閉じた。
次に目を開けた時、空はまだ薄暗かったが雨は止んでいた。腕時計を確認すればまだ朝食の時間が近い。
(まずいな、早く帰ろう)
そう、思ったのだが。
「いたか!?」
「いや、もう少し範囲を広げよう」
大人たちが騒いでいる。それも立ち入り禁止のはずの森の中で。
「……」
対の館からほんの数分程度の場所まで人が来ている。これは非常に問題だ。
鮎川皐月のせいで安曇を見る目が変わったとしても、捜索までするのは変わらずひばりたちくらいのものだろう。だとすればここにいる大人が探しているのはつけてきたふたりだろうと予想がつく。
対の館から東にざっと見て四人。西にも二人。彼らは濡れた森に悪態をつきながら、あちらこちらへと進んでいく。
(そういえば塚原は……)
奥村が最古参の幹部なのに対し、塚原は金に物を言わせて幹部入りしたばかりの新参だ。
もしこの人数が対の館まで来たら──
(父さんは何をやってるんだ……)
小さく舌打ちし、安曇はふたりの中学生が姿を消した方向へ向かう。
一刻も早くふたりを探し出し、森にいる大人に引き渡さなければならない。
とはいえ安曇とて、森の全てを知っているわけではないし、雨上がりの森はぬかるんでいて歩きにくい。足跡がないか、痕跡《こんせき》がないかを探すのは絶望的だ。
「厄介だな……」
何か手はないだろうか。
足場が悪いせいで体に負担がかかっている。
帰り道を把握しながらの捜索は、怪我を負った十歳には厳しかった。
(それでも放置はできない)
雨上がりの森はしっとりと濡れていて、落ちた雫が安曇の頬を掠める。木々の隙間から差し込む薄明かりを頼りに、安曇は歩き続けた。
百蛇物語が真実を語っているのなら。
この森は昔、蛇がうろつく本物の禁足地《きんそくち》だったのかもしれない。
厳しい規定などなくとも、何となく足が向かない森でもある。こんな騒ぎさえなければ、きっと今も静かな森だったに違いない。
だからだろうか。それともあの物語を読んだからか。
「ん?」
誘われるように視線を動かした先に映った赤。
折れた木の幹が、まるで剣か何かのように鋭く尖っている。そしてその先端が赤黒く汚れていた。
これは……。
「──っ!」
近寄ろうとすれば沼のようにぬかるんでいて足を取られる。
危うく安曇も木の幹に刺さるところだった。咄嗟に近くの枝を掴んだ腕にビシリと引き攣るような痛みが走る。
(……あのふたりか?)
慎重に近寄り、その赤に指で触れればまだ湿っている。
雨で流れた様子も見えない。
「近いか……?」
動物かもしれない。でも……。
薄暗い森には他の生き物がいないかのような静寂がある。
蛇がいた森。
大勢の人が命を落とした森。
『心を鎮め、命を見る』
そういえば、なぜか。
今、自分がどこにいるかわかる。
対の館のおよその位置も。
そして森を闊歩する男たちの位置さえも。
「……」
安曇はふと、歩みを止めた。
(混ざったから?)
指についた赤を見つめればどこまでも冷静になっていく。
呼吸を忘れそうな一瞬の後に──
「こっちな気がする」
安曇は顔を上げ、ゆっくりと歩き出す。
耳鳴りがしそうなほど静かな森。
その赤の持ち主は──遠くない。
***
「もーー!! マジ最っ低ー!!」
「んだよ! こっちは怪我までしてんだぞ!?」
「圭輔《けいすけ》がドジなだけじゃん! こんなに歩いて結局これ!? 意味わかんない!!」
見つけたふたりは思ったより元気そうだった。これなら安曇の方がまだ弱っているレベルだ。
塚原圭輔は手のひらを赤く染めていたが、小林綺良々《こばやしきらら》の方は歩き疲れて駄々を捏《ご》ねているようだった。
そしてさらに。
「綺良々ぁ、落ち着けよ~。迎えに来てやったろぉ?」
「臣兄《おみにい》もきらーい。なんであんなミイラ見に行かせたの!? ほんときらーい」
塚原和臣《つかはらかずおみ》。圭輔の兄もいた。確か圭輔より二歳上の中三だったはずだ。
森の裾《すそ》。街道まで歩いていたから驚いた。黒鉄屋敷までかなりの距離があることを除けば、かなりふたりは運が良い。──と思ったが、どうやら誘導があったようだ。
なら山の中にいる連中もここに誘導するとしよう。
そう考えてスマホを取り出した瞬間──
ピリリリ
「!」
安曇のスマホが鳴った。
「!?」
揉めていた三人が驚いたように振り返り、安曇の姿を認めて獰猛な表情を浮かべた。