「で、でも、た、頼まれたから」
困惑したような、吃《ども》りのある子供の声が返事をした。
身を隠して診療室側から備品室を覗く。一番奥の棚の向こうに、ショートカットの女の子の背中が見えた。──大久保伊織だ。
「だからってダメだよ。組長の物でしょ……。許してもらえないよ」
「……だけど……」
(どうやら、時雨が盗んだのは確かなようだ)
あの時雨が?
安曇は少し意外に思った。
暴力団だろうがそうでなかろうが、善悪の価値観は存在する。大抵の善人と悪人の違いは、悪と知っても行動できるかどうかの差異でしかない。もちろん中にはそもそもズレている人間もいるだろうが。
そして少なくとも、時雨はその価値観があると思うし、善に身を置く子だと思っていた。
「怖いんでしょ? 大丈夫、私が返しておいてあげるよ。時雨君は隠れてて」
「……」
大久保伊織と、おそらくその向こうにいるだろう時雨は安曇に気づいていない。
この、大久保伊織は何がしたいのか。
(返しておいてあげる、か)
安曇には、時雨が単独で盗むとは思えない。本人の言葉からも。
霜月医師が盗む理由もないだろう。組長へ不利益を出す意味がない。仕事をなくす。
とすればおそらく奥村の指示だと思われるが、それを奥村の腰巾着の大久保が知らないことがあるだろうか。そしてその娘も。
(マッチポンプの臭いがするな……)
──カタン
「!?」
「誰!?」
あえて音を立てれば、奥のふたりが驚いたようにこちらを見た。
「……安曇さん?」
「うん。ここで何をしてるの?」
時雨に視線を送れば、時雨はビクリと肩を震わせた。一瞬視線を落としたが、けれど時雨は顔を上げて安曇を見た。
(……ふぅん?)
その顔に本人の決意を見る。
時雨は指示に踊らされた操り人形ではない。安曇はそう判断した。
「あ、ええと、時雨君が泥棒してしまったらしくて」
大久保伊織は眉を下げ、弱々しい表情で安曇に訴える。
「へぇ?」
「だから私、ちゃんと返さなきゃって……」
「そう」
まっすぐ時雨の前まで歩く。
時雨は守るように幻日石が入った箱を持っている。
備品室は薄暗く、外の喧騒はまだ遠いようだった。
安曇の視線に時雨は眉を下げるが、抵抗する様子はなかった。
「なら、返しておいて」
「あ、安曇さん……」
時雨から箱を取り上げ、伊織に渡す。
不安そうにしていた伊織は箱を受け取って、パッと顔を輝かせた。
「わあ、ありがとうございます! ちゃんと組長に渡しますね!!」
「うん。……ああ、でも」
ふと、思い立ったように言葉を切れば、伊織は不思議そうに首を傾げる。
「?」
「中身がちゃんとあるかどうか、確認した方がいいかもね。渡す前にチェックしておいて」
「なるほど、そうですね! わかりました!」
「隣の部屋で確認するといい。時雨が暴れると困るからね」
なにせ時雨は大人のような背丈の子供だ。平均身長の安曇や伊織ではどうにもならない。
(まあ、外見だけの話だけど)
「あ、安曇さ、ん」
時雨は困惑しているようだったが、伊織は時雨が声を出したことでサッと距離をとった。
「時雨のことは任せてくれていい」
「はい! 確認しておきますね!」
嬉しそうに、パタパタと備品室から隣の診療室へ走っていく。安曇はそれを横目で見送る。
言う通りにすればよし、しなかったとしてもどうにでもなる。今はこちらだ。
「時雨。どうして盗んだの?」
安曇が名前を呼べば、時雨は再び肩を震わせてグッと目に力を入れた。
「の、呪いが」
「うん?」
「あ、あの箱が……の、呪いの原因だって……聞いたから」
「……」
泣くような声が備品室に響いていく。
呪われている安曇を前に、懺悔するように時雨は言葉を零していく。
「こ、ここに……残って、た、タイミングを見て」
「持ってくるようにって?」
時雨はコクリと頷く。
「あ、あの箱さえなくなればっ! の、呪いは消せるって……」
「僕は頼んでないよね」
「っ!!」
時雨は言葉を失って項垂れた。
そしてその沈黙は──
「きゃああああ!!」
大久保伊織の悲鳴で破られた。
「いっ……! いたい!! いあああ!!!」
叫びとともに隣の診療室で、ドサリとそのまま物が落ちるような音がする。
「え、な、何……!?」
「……」
呻くような声は、時雨が戸惑っている間に消える。
大久保伊織は失神したようだ。どうやら石を確認したのだろう。
(案外、素直でいい子じゃないか)
死ぬような石ではないはずだが、時雨には刺激が強かったようだ。怯えた目をして診療室の方を見つめている。
「時雨」
「え、は、はい」
慌てて立ち上がりかけた時雨を止めるように、安曇は声をかける。
「僕は、僕が決めたからこうなっている」
この黒い傷は、誰のせいでも何かのせいでもない。必要経費であり、安曇自身が選んで受けたもの。
安曇はそう思っている。
「……」
時雨は目を見開いて、安曇の包帯をじっと見つめる。その目からポロリと涙が落ちた。
「誰の指示?」
時雨はポロポロと雫を落としながら俯いて、搾るような声を出す。
「……お、奥村幹部……です」
(そうだろうね)
およそ想像通り。というより、そこしかない。
「わかった」
奥村の目的はいくつか想像できたとしても、決め手はない。
奥村が呪いを嫌っていることを考えれば、石は廃棄したいと考えるのが自然だ。けれど大久保伊織は。
『返しておいてあげる』
これはどう見ても、組長に対して手柄を見せたいように見える。
「……」
大久保家の暴走かもしれない。手柄を立てて、後見人の座に座ろうと。
ただどちらにしても、時雨を利用したやり方が気に食わない。
バタバタ──!
悲鳴を聞きつけた大人の足音が聞こえてきた。
「時雨」
「は、はい」
「僕の役に立ちたいのなら」
安曇は診療室へ向かって歩き出す。
「他の人間の駒になってはいけないよ」
「!」
診療室には、大久保伊織が倒れていた。横にさっき渡した箱と、久しぶりに見る幻日石が落ちている。
(触ると本当に倒れるのか……)
別に疑っていたわけではない。ただ、目に見える形で実感したのは初めてだった。
安曇には綺麗な石でしかないのに、不思議な気分だ。
石を拾って箱に収めたところで、三林が入ってきた。
「安曇坊ちゃん!?」
最初に入ってきた中林が声をあげる。
小林と大林もキョトンとした。
相変わらず一緒に動いているらしい。
「丁度いい。彼女をベッドに運んでおいて。それから……この箱は彼女が持っていたようだ」
「それ……」
三人は箱を見つめて難しい表情をする。
「知ってるの?」
盗まれた物の情報は、秘匿されていると思っていたのだが。
「俺ら、ちゃんと調べたんすよ」
「うん、安曇さんに言われたんで調べました」
「柘植、奥村、細谷、都築、鮎川。この家は全て、今まで呪われた人間が出てる家でした」
(へえ? ちゃんと宿題を終わらせたわけだ)
安曇は彼らを少し見直す。
小林が大久保伊織をベッドに運ぶ。使われていないベッドはきちんと畳まれていて、時雨の几帳面さが伺えた。
「その箱が呪いの源だって聞いて」
外の様子を見ていた大林がスルメを食べながら頷く。
(まだスルメ持ってるのか……)
「……誰から?」
「奥村幹部っすね。各家の話も聞きに行ったんで……」
ここでも奥村の名前が出て、安曇は静かに思案する。
「わかった。父さんには大久保伊織のことを伝えておいて。それと、時雨」
後ろに声をかければ、備品室からおずおずと時雨が顔を出す。
「父親を呼び出すように」
「え」
「できない?」
時雨は一瞬顔を強ばらせる。堪えるように目を伏せて、ギュッと手を握った。
「っ! で、きます!」
そして覚悟を決めたように顔を上げ、頷いた。
「うん」
「小林、車を出して」
「はい、どちらへ?」
行く場所は決まっている。
奥村の行き先は時雨は横浜だと言った。都築から該当住所も入手した。表向きの用件もできた。
なら──
「当然、横浜だ」
安曇は顔の包帯を取り、まっすぐ外を見つめる。
──奥村を、追い詰める。