安曇は特段、奥村を否定する気はない。
事実は事実だ。
「……そうだね。実際動いたのは大久保と時雨だ。小箱も大久保が持っているわけだし」
一見すれば、これは大久保の単独犯か、あるいは大久保が時雨から取り戻したのだというストーリーは成り立つ。
奥村は安曇に言い聞かせるように、優しく話しかける。
「安曇坊ちゃんも容疑者になるのですよ。時雨君とは親しいようですからなぁ」
「……」
(時雨が選ばれたのはそこが大きいか……)
時雨の背後に誰を設定するのか。
これが彼らの作った物語の鍵であり、安曇なら被せられる。奥村の狙いも、大久保の狙いもここだろう。
(でも)
「残念だったね」
奥村は大久保が裏切った場合でも対応できるように時雨を選んだ。安曇に罪を被せるために。しかし。
「……?」
奥村は怪訝そうに安曇を見つめる。
「あの小箱は──空なんだ」
大久保は小箱を時雨から回収したとして、隆盛に自分を売り込みに行くだろう。娘の行動をどう見たか知らないが、黒鉄屋敷に向かったというのはそういうことだ。
──その小箱が空だと気付かずに。
「……なぜ」
「組は信じなくても、父さんは信じるだろう」
安曇は事前に大久保伊織が箱を持っていたことを教えている。だからこそ、時雨を探していたひばりに自由ができたのだ。
ここで時雨を犯人に仕立て上げ、大久保が自分の手柄を売り込みに行く。
皐月に安曇のフリをさせたから、大久保は安曇に罪を着せるだろう。
しかしそもそも安曇が石を盗む理由もなければ、中身も空とくれば。隆盛は大久保の狙いに気づく。
「僕が犯人を示すために泳がせたことも、ね」
「証拠など……」
「あるよ」
小箱の中身──幻日石は今、安曇が持っている。
奥村は唸った。
「なるほど。さすがは柘植の血筋と言うべきか……隆明さんの弟子と言いましょうか……」
感心しているところを残念だが、これでは終わらない。
「わかってるよね? 大久保は最終的にお前を売るはずだ」
時雨を犯人としたとしても大久保は逃げられない。一緒に連れてきた皐月扮する安曇を犯人としたとしても、安曇が打った先手で通らない。
どの筋書きであっても、大久保は奥村を売る。
「……こんな爺を脅しますか」
奥村は安曇を睨んだ。
「自滅を僕のせいにしないでほしいね」
もちろん、そうなるように仕向けたのは安曇だが。
「……」
奥村は思案するような顔で海を見ている。
大久保が奥村を名指ししても、実際動いたのは大久保だ。奥村がシラを切れば抜けられる可能性は高い。しかしここに安曇がいる。ひばりも。
奥村と大久保が組んで安曇を落とそうとすれば何かはできるかもしれない。けれどすでに一度、大久保は奥村を裏切っている。
「……はぁ」
奥村は観念したように眉を下げ、海の向こうを見るように遠くを見つめる。ほんのわずかな時間に、ずいぶん老いたように見えた。
「お前がやるべきことは、僕を説得すること。それ以外にないんじゃない?」
奥村は静かに目を閉じ、深く息をつく。
「安曇さんは隆明さんによく似てますね。場の支配が得意と言いますか……本当に。隆明さんのそういうところもとても嫌いでした」
「……」
「説得ですか。それはこちらの台詞です。わざわざ私にその話を持ちかけてくるのなら、安曇坊ちゃんに望みがあるのでは?」
(嫌なところを突いてくる)
「……だとしても、お前は僕に頼むしかないはずだ」
「……ふむ。良いでしょう。私に求めるものを聞きましょう」
「!」
心の中がザワつくのを抑える。今は喜んでいる場合ではない。でも。
これでやっと、手が届く……!
それでも油断することなく奥村を見つめ、考えるような様子を見せたあとに口を開いた。
「奥村道幸の遺品を渡してほしい」
「──」
奥村は一度息を飲み、片手で顔を覆って呻いた。
「安曇坊ちゃんは、あの子の話を知っているのですね」
「うん」
安曇が頷くと、奥村は低く唸るように答える。
「そうですか……」
そして不意に笑い出す。
それは哄笑ともいえるような、不穏な笑いだった。
(何だ……!?)
「ふふ、ふはは……残念ながら、遺品は何一つ残っておりません」
「──」
今度は安曇が息を飲む番だった。泣くような目をした奥村は、顔から手を外すと膝の上で組み、俯いた。
「すべて捨ててしまいました。泣く妻を無視して、いなかったことにした。そうしなければ受け入れられなかったのです」
「何も……ない?」
思わず呟いた。
その可能性は当然あった。あったはずだが、ひとつくらい……ひとつくらいは残っているに違いないと、思ってしまっていた。
(違う……)
あるはずだと思いたかった。
「……っ」
それが唯一の活路になるのだから。だからその可能性に目をつぶっていたのだと、無意識で見ないようにしていたのだと気づいてしまった。
「……」
奥村はジッと安曇を見ている。その目はどこか仄暗く、どこか冷めた視線に見えた。
安曇は苦い気持ちを無理やり飲み干し、気を引き締める。
動揺を見せるわけにはいかない。取り引きの場でそんなことをすれば致命傷だ。
しかし安曇の視線ひとつ、呼吸ひとつで老獪な幹部は思うところがあったらしい。
その口元は歪むように笑みを作った。
「……よぼど、うちの息子の遺品が欲しかったと見える」
悲しみは哀れみに。
苦しみは嘲笑に変わって安曇に向けられる。
(……このタヌキ……)
演技ではなかっただろう。
だが、感情のすり替えに長けている。さすが暴力団の最古参と言わざるを得ない。
「まだまだお若いですねぇ……。交渉の場では、呼吸を変えてはなりませんよ。いやぁ、残念ですなぁ……取り引きできませんで」
嘲笑するように笑う奥村に、後ろで控えていたひばりが手を握って前に出る。
その怒りが、安曇を少し現実に戻した。
「ひばりさん」
「っ!」
安曇の声に一瞬体を震わせて、ひばりは礼をして下がる。
(おかげで少し冷静になれた……)
「そうだね、残念だ」
努めて冷静に言葉を紡ぐ。
けれど胸の内はまだ焦燥と混乱が渦巻いていた。
奥村から視線は逸らさない。でも。
……何か手を考えなくてはならない。
叔父に繋がる物はもうない。
奥村道幸に繋がるものも。今、全てを否定されてしまった。
(焦ってはダメだ)
まだ、できることはあるはずだ。
諦めなければ……求め続ける限り終わりはない。
奥村は、思案している安曇を黙って見ている。試しているのかもしれないし、呆れているのかもしれない。
暴力団の最高幹部を長く渡ってきた老人の心は、深海のように奥が見えない。
誰もが黙ったリビングには波の音だけが通り抜ける。
その静けさに黒い傷がじわりと痛む。
(死水……)
『彼らの──』
必死で頭を巡らせるうちに、ふと、先程諳んじた一文が脳裏を過ぎる。
『今も彼らが守っているということを、決して忘れることなかれ』
「……」
そうだ。彼らは今も、死水の中にいる。
叔父を連れていった奥村道幸。
奥村道幸を連れていっただろう先代。
その塊と思われる──あの影。
蜘蛛の赤黒い目に浮かんだ顔たちを、まだ安曇は忘れられない。
全て安曇がこの目で見てきたものだ。
煙管をなくし、遺品もない。
叔父も奥村道幸も、繋がるものは何もない。
けれどそれより前の代ならば?
黙り込んだ安曇に、ひばりが心配そうな視線を向ける。
奥村も黙っている。ただ、安曇を待つように。
「……」
(対の館の遺品は?──いや、数が多すぎる)
安曇には、選べばいいものがわからない。適当に持っていけば効果があるかもしれないが、それは安曇との縁ではない。
「……結論は出ましたかな?」
待つことに飽きたのか。
奥村は静かに安曇に問いかけた。
「……いや。でも僕よりも、自分の処遇を考えるべきじゃない?」
安曇の言葉に奥村は喉を鳴らして笑う。
そして疲れたように海を見た。
「安曇坊ちゃんの言葉通りなら、あの小箱の中身に選ばれたのだとしても、息子は自分で呪いを受けることを選んだのですね……」
奥村は立ち上がり、バルコニーの手すりまで歩いていく。
波の音が遠く崖下で弾ける。
「……おそらくね」
小箱の中身……幻日石の判定を受けて。
(そうだ──幻日石)
安曇はポケットをそっと触る。
お役目に挑めるかどうかの判定をした石。ある意味、全員の始まりとなった石。
──もしかしてこれも、『縁』と呼べるのでは?
継承者全員、この石には強い感情があったはずだ。この石に選ばれたのだから。
「救ってやれなかったことを悔いて、やっとここまでと思いましたが、あの子の決意を汚すものだったのですな」
寂しげに笑った奥村は、手すりに寄りかかるようにしてこちらを見た。
その目は仄暗く、安曇への嘲笑は消えて嫌悪が見えた。
「……ならばもう、すべてを失った爺に思い残すことはありません」
静かな呟きは、どこかここではない場所へと向けられた言葉のように虚ろだった。
辞世の句のような言葉に、安曇は腰を浮かせる。それを見て──
「わかりますか? 安曇坊ちゃん」
奥村は浮かんだ嫌悪もそのままに、口元だけに笑みを浮かべた。
「これはね、安曇坊ちゃん──貴方のせいですよ」
ゾワリと。
胸の中に黒いインクを垂らされたような、冷たいものが広まった。
奥村は笑みを浮かべ、海風が一際強く吹いた時──
奥村の体がゆっくりと揺れ、低めのバルコニーを乗り越えるように向こう側に乗り出した。
風が老人の身体を攫う。
「ひばり!!」
安曇の叫びとともにひばりが走った。
ひばりの手が奥村へと伸び──
崖の上の家のバルコニーから、ひらりひらりとひばりの髪を縛っていたリボンが落ちていった。