黒き蛇は死水に潜る   作:御月ケイ

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第36話 昔日の断片

 

 

「あ~~~!! 私のお気に入りのリボンがぁ……!!」

 

「……ひばりさん」

 

 バルコニーに悲痛な声が響き、安曇は額を押えた。

 

 間一髪で奥村を捕まえたひばりは、駆けつけた安曇と協力して奥村を引き上げた。

 

「腕が痛いです……」

 

「あっちの方が痛そうだろう」

 

 リビングのソファに横たわる奥村を見る。

 落ちかけて捕まえた時、思い切りバルコニーの壁に体を打ち付け、奥村は一瞬意識をなくしていた。今は薄らと目を開けて、安曇とひばりのやり取りを見ている。

 

「今、救急車を呼んでるよ」

 

「……死なせてはくれないのですね」

 

 静かなリビングに、奥村の無感情な声が染みる。安曇はそれを無言で眺めていた。

 

「お前を死なせる理由がないからね」

 

「なんとまぁ……年寄りの願いは聞くものですぞ」

 

 苦笑いする奥村の横で安曇は肩を竦める。

 こんなことを言いながら、奥村はこれ以上何かをするつもりもないようだった。全てを諦めたような遠い目をしている。

 安曇はもう何かを言うつもりもなかった。奥村の処遇は黒鉄組で決めればいいと思っている。が、ひばりは違ったようだった。

 

「私は嫌です」

 

「ひばりさん?」

 

 彼女にしては珍しく、眉が上がっている。

 

「死んでどうするんです? 安曇さんのせいだなんて子供に責任を被せて、息子さんに顔向けできないとか思わないんですか?」

 

 ひばりの言葉には、静かな怒りが籠っている。

 

「安曇坊ちゃんを子供扱いはしてませんが……まあ、そうですね。私はそれでも一向に構いませんがね」

 

 ひばりの言葉に眉を下げて笑った奥村は、ぼんやりと天井を見上げる。その視線はどこか虚ろで、ここではないどこか遠くを見ているような気がした。

 

「……私の息子は隔離が決まったあの日、消えました」

 

「っ」

 

 ひばりが小さく息を飲む。

 

「なぜうちの子が。暴力団なんてものには似合わない、優しくて真っ直ぐな子でしたよ。そんな子を……『最初からいなかったことにしてくれ』と、先代当主は仰った」

 

 組長でもある黒鉄当主は、長らく柘植が務めている。先代というのは安曇の祖父だ。極道らしい極道で、豪快で厳しく、身内には優しい人だった。

 

「いなかったことに……。確かに、道幸さんの話は、組の中でタブーみたいになってましたけど……」

 

 ひばりは困惑気味に呟く。

 まあ、そうだろう。

 ひばりは言いふらす人間ではないと思っているからここに連れてきたが、なぜそうなったのかは知らされていないだろうから。

 

「ええ。呪われた子は常にひとり。でなければ組がパニックになる。崩壊しちまう……それはわからんでもないですがね」

 

 確かに、広がる呪いだと誤解しようものならみんな黒鉄から逃げるだろう。中には忠誠心のあるものもいるかもしれないが……。

 

 安曇は自分の体を見る。ケロイドのようになった黒ずんだ肌。呪いの進行と呼ばれるそれは、見る人を不安にさせるに十分なインパクトがある。

 

「それでも生きていてくれれば。そう思っていたんですがね……」

 

 水になってしまった奥村道幸。遺体すら残らなかった。……叔父のように。

 

(あれは絶望的な気持ちになる)

 

 たとえそのおかげで死水で会えたのだとしても。

 

 叔父の指が溶けて水になった瞬間を、安曇は忘れられない。それを見て迷うことなく指を斬り落とした奥村の覚悟も。

 

「隆明さんが報せにきましたね」

 

 安曇のこともひばりのことも見ずに、天井を見ている奥村。

 奥村道幸のことを考えているのだろうと思ったが、叔父の名前が出るとは思わなかった。

 奥村は懐かしむように、どこか寂しそうにいつかの過去を語る。

 

「?」

 

「あの日は確か秋口で、蝉の声もようやく聞こえなくなったばかりの頃合でしたか……。夜、たったひとりで私を訪ねてきたんです」

 

 ──奥村道幸の訃報を知らせに。

 

 奥村道幸は対の館に隔離された段階で、いなかったことにされた。ましてや対の館の中で何が起きているのか、誰も知ることはない。それをわざわざ知らせるのは、リスクだったはずだ。

 

(でも……)

 

「叔父さんは、やりそうだね」

 

 奥村の言葉には、重く深い気持ちが乗っているようで安曇は目を伏せる。

 

「あの子の所持品とともに来て、頭を下げて去っていきました。あの時から──」

 

 奥村は寂しげな表情を消して、安曇に嫌悪を込めた笑みを向ける。

 

「私は隆明さんが大嫌いでした。ねぇ、安曇坊ちゃん。あなたは本当に隆明さんによく似てらっしゃる。筋の通し方がね、似てますよ」

 

「……」

 

 叔父が届けに来たであろうことは、対の館に遺品がなかった時点で安曇も想定したことだった。

 

 それも全て捨てたということか。それとも。

 

「だからたとえ……たとえあの子の何かが残っていたとしても、あなたにだけは渡しません」

 

「……奥村」

 

 悲しみと憎しみと、いろいろな物が見え隠れする奥村の言葉。そこで憎む理由が安曇にはわからない。

 おそらく自分も同じようにするだろう。それが死者への手向けであり、遺族への礼儀だと思うからだ。

 

(でも叔父さんは憎まれた)

 

 そして今回の騒動の遠因となっている。

 直接的なトリガーは、組長の隆盛が当主面談の枠を広げようとしたこと。ひいては安曇が行動した結果ともいえる。

 

「残念でしたね。私が死ねば、黒鉄組で家を漁れたでしょうに」

 

 剣呑な笑みだった。

 憎らしく不愉快で、同時に奥村の決意を感じさせる笑みだった。

 

(全く理解できないけど……そういう感情もあるのか)

 

 何を言ったところで届くこともなく、互いに理解できないだろう相手の顔だと思った。

 だからといって、安曇は自分の決断を変える気はない。

 

「構わないよ。それでも僕は、逃げないから」

 

 決して諦めるものか。

 諦めずに立ち続ける背中を、安曇はふたり知っている。ひとりは最後の瞬間まで刀を振るい、もうひとりは過去から現在まで誰にも知られず死水の向こうを守り続けている。

 

 だから安曇も逃げる気はない。

 そんな気持ちが伝わったのか、奥村は嫌そうに目を細めた。

 横からひばりがズイッと前に出る。

 

「死ねば良いなんて簡単に口にしないでください。奥村幹部の周りにだって、もっと生きたいと願う人は多いのに。嫌がらせのように死んで何になるんですか!?」

 

 ひばりの言葉に刺激を受けたのか、奥村の笑みに剣呑さが宿る。長年暴力団の幹部をやってきた男の顔だった。

 

「家政婦風情が、ずいぶんなことを言うじゃねぇか。やらかしたことの大きさに、責任が付いてきただけよ」

 

「責任!? 大久保幹部に裏切られて、安曇坊ちゃんにボコボコにされて投身自殺することが!? これがケジメだなんて、笑わせないでください!」

 

 なかなか容赦がない。

 安曇はひばりを止めようかとも思ったが、奥村は存外楽しそうに笑っていた。

 

「腹捌くくらいしねぇとってことかい。ふはは……」

 

「そういうことでは……!」

 

 ひばりが声を上げるが、奥村は軽く手を上げてそれを制する。その手は少し震えていて、程なくソファに戻る。

 

「ああ、いや。まあ、そうですね……私の負けです」

 

「……」

 

 奥村の静かな宣言に、ひばりは驚いたように息を飲んだ。

 

(負け、か)

 

 その負けにはいろいろな意味が含まれているように思う。今回の盗難の話だけではなく、もっと多くの意味が。

 

 ずっと戦っていたのだろう。継承者とは違う側面で。

 

「認めるんだね」

 

 安曇の言葉に、老人は口元を歪めて安曇を見つめ、力無く目を閉じた。

 その顔は老獪な幹部のそれではなく、疲れと諦めが滲んだ老人の表情だった。

 

「ええ、完敗ですよ」

 

 零すような敗北宣言は、安曇の中に深く沈む。けれど、奥村の視線にも言葉にも、明確な拒絶が見える。

 

 安曇は目を伏せ、ポケットの幻日石に触れる。

 

(だからこれが、正真正銘、最後の一手)

 

 安曇は窓の外に広がる海を見つめて息をついた。

 

 ──死水に行かなければ……。

 

 

 遠くから救急車のサイレンが近づいていた。

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