奈落は広く、安曇には帰り道すらわからなかった。
「いつからここに?」
継葉が繋がれていた蜘蛛の巣は、安曇が切り裂いたからかサラサラと崩れて消えてしまった。
「うーん、お前と別れて二日かな? そこから先の記憶が無いな。いやぁ、奈落を掌握しようとしたんだがな……」
顎に指を当ててうーん、と唸る継葉。
無茶苦茶なことを言う。
以前ふたりで来た時に、支配しにくいと言っていたくせに。
安曇は小さくため息をついた。
(全く、心配するこちらの身にもなってほし……い──)
「──」
そこまで考えて、思考が止まる。
心配?
(僕が……師匠を──?)
思わず口に手を当てる。
それはなんだか、ひどく落ち着かない感情だった。
確かめるように一歩、二歩と歩き、足元を確認している継葉。ふらりとよろける様子に思わず手が伸びる。
けれど、よしっと頷いて安曇を振り返り、継葉がニコリと笑えば──不思議と安曇の不安は溶けていった。
「問題なさそうだ」
「……」
「ん? どうした?」
「なんでも……ないです」
とても妙な気分だった。
けれどそれを、嫌なものとは思わなかった。
「来てくれてありがとうな! お前が来なかったら、私は目覚めなかったかもしれん」
継葉はいつものように笑ってはいるが、どことなく疲れが滲んで見える。
やりたいことも話したいこともあるが、まずは継葉を休ませるべきだろう。
「師匠、とりあえず一度……」
戻りましょう、と言おうとして安曇は固まる。
どこに?
だって入口は奈落になっていた。対の館を作り直さなければ戻れないだろう。
つまり、弱っている継葉に負担をかけることになる。
「気にしなくていい。ここまで来たんだ。進もう」
継葉はニコッと明るい笑顔を浮かべ、いつものように歩き出す。その足取りは先程よりしっかりしていた。
「休まなくても?」
「なぁに。寝てただけだから、大丈夫だ」
笑って歩き出した継葉は、着物の裾が引きずられたことで着ている服に気づいたらしい。目を丸くしながら裾を掴む。
「お!? この着物……」
キョロキョロと体を動かす継葉に、安曇はその時やっと、この着物が対の館で保管されていたものだと気づいた。
「……大切なものですか?」
同じものがあるとは考えにくい。持って来れる人間が安曇以外にいるとも思えない。
だからこれは、景色と同じく──記憶の再現なのかもしれない。
「ん、そうだなぁ。母からもらったものではあるよ。ほとんど着る機会はなかったんだ。似合うか~?」
着物を見つめていた継葉は笑ってその場でくるりと回る。着物はハラリと花開くように広がり、あわせて継葉のおろされた黒い髪もふわりと広がる。
「……綺麗、です」
思わず口から出た言葉に、安曇は思わず口を押さえた。
(今……何を)
「お!?」
継葉は驚いたように止まり、珍しいものを見るようにジッと安曇の顔をまじまじと見つめた。
「……見ないでください。落ち着かない」
安曇はそのまま片手で顔を覆う。言葉が上手く出ない。
こんなことは初めてで、安曇は何だか継葉を見れなかった。
「あはは! お前も照れることあるんだなー!」
「ちょ!? 師匠!?」
継葉は安曇の肩に腕を回して頭をぐしゃぐしゃと撫でる。拒めば拒むほど、継葉は楽しそうに笑う。
チラリと見たその笑顔は何だかとても幸せそうで、安曇は困惑しながらも抵抗を止める。
(……師匠が嬉しそうだから……いいか)
自然と笑みが浮かび、何だか穏やかな気分になった。
「無事で……良かったです」
安曇がポツリと呟くと、継葉は驚いたように止まり気恥しそうに頬をかく。
「おう! ありがとな!」
ひらりと袖をはためかせ、継葉は安曇のおでこをツンとついた。
──ピシリ……ピシ
「……何か……?」
おでこを押さえながら安曇は周囲を伺う。
始めは気のせいかと思った。けれど何度も聞こえてくる亀裂音。
ピシピシ……
「!」
継葉がハッと目を見張り、安曇の腕を掴む。
「来るぞ!!」
──バキンッ!!
壁が割れたわけではない。
空気が、何も無い空間そのものが砕け、そこから見覚えのある赤黒い目が顔を出す。
「……蜘蛛!」
バキバキと音が鳴るたびにあちこちが割れる。
天井の下の空間から。
床の裂け目から。
赤黒い光が零れ落ち……
「──!!」
気づけば安曇と継葉は、見渡す限りの蜘蛛に囲まれていた。
大きさは軽トラック程度。その数──数百!
(なぜこんな……)
刀を構え、チラリと横の継葉を見る。
「師匠、さっきまで磔にされていたのと関係ありますか?」
蜘蛛の巣の中央にいた継葉。
叔父を攫ったのも、継承者たちの顔を見せたのも蜘蛛だった。
「うーん、無関係……とは言いにくいか」
「というと?」
ピシピシ……!
足元が割れる。
「!」
安曇を抱き寄せるように引っ張った継葉は、そのまま飛び上がる。
「師匠!?」
「捕まってろ! 落ちるぞ!」
「っ」
ダンッ!!
継葉は安曇を抱えながら、蜘蛛の隙間を飛んでいく。
継葉が飛ぶところにどんどんあぜ道ができては蜘蛛に押し潰されていく。
「し……しょう!! 僕にも、できます!!」
一際高く登ったところで──
「分かった! なら、信じるぞ!」
継葉は安曇の手を離し、飛び降りるように下の蜘蛛に刀を振り下ろす。
「!」
一瞬の浮遊の後、安曇は足場を作り上げる。そして右から糸を吐いた蜘蛛に突進して斬りつけた。
キュオオオオ!!
斬られた蜘蛛は赤黒い複眼をバラバラと落とし、奈落の中に落ちていく。
落ちていく影は溶けて消えるように──そして混ざるように奈落になる。
ピシリ……!
息をつく間もなく、頭上から世界が軋む音がしたかと思えば、再び影の蜘蛛が這い出してくる。
(次から次へと……!)
「師匠! 大量ですが、心当たりが!?」
無関係じゃないというのならなんだと言うのか。
タンッ!!
安曇の言葉に反応してか、蜘蛛を足場のように蹴りながら継葉が安曇の元へと飛んできた。
「──お前はさっき私を起こす時に、『白夜の当主』と言ったな?」
背中合わせに聞こえる声はどこまでも真剣なもので、安曇も自然と背が伸びる。
眼下では蜘蛛の数は減らず、バラバラと落ちたものがまた繋ぎ合わされて戻ってきているようだった。
「……はい」
「あの言葉は確かに私に届いたが、他のやつらにも届いたということだ」
「──え?」
白夜の当主という言葉に、蜘蛛たちがざわりと雰囲気を変えたような気がした。
「おそらくあの蜘蛛は、歴代この空間に溶けた者の成れの果て。……恨んでいるのかもしれんな」
継葉の最後の言葉だけはわずかに小さく、そこには複雑な感情が滲んでいるように感じられた。
「……師匠は恨んでるんですか?」
目の前に這い出してきた蜘蛛の口を刀で受ける。グッと手にかかる重みに眉を顰め、押し込むように斬り裂いた。
キュオオ!!
「まさか。私は自分で決めてここに来たんだ。恨むわけがない」
継葉は刀を下から斬り上げ、支配の力で大きな斬撃を繰り出す。光のような斬撃は、動線にいた蜘蛛数十匹を巻き込んで闇に消える。
(ああ……この人も──)
強い斬撃に目を奪われる。
継承者は自分で選び、守り抜いた。安曇はそう信じているし、継葉がそうであると知ってじわりと胸が熱くなった。
「……僕も後悔はしてません」
たとえ二十歳は超えないと言われても。
死水を通るたびに死にかけたとしても。
それでも、ここで叔父を追いかけることは諦めないし、継葉の弟子でありたいと思った。
幻日石を入れたポケットがじわりと熱くなる。
「まーったく。お前は子供なんだから後悔したっていいんだぞ」
「僕だって、お役目でここに来たんです」
「……ん。黒鉄組のお役目か」
再び背中がトン……とぶつかる。
呟くような継葉はどこか寂しげだった。
けれどそれよりも違和感を感じた。
(黒鉄組を……知っている?)
僅かな違和感を確認する間もなく、継葉はまっすぐ前を向いて刀を構える。
「私が誘き寄せる。お前は端から斬っていけ」
言うが早いか飛び上がる。
駆け上がるたびにあぜ道ができては消えていく。まるで黒い水の中にインクを落としていくようにふわりと浮かんで闇に戻る。
「師匠!?」
そして一際高く登った継葉は大きな声を張り上げた。
「白夜の民よ! 百蛇衆の末裔よ! お前たちの意志はここにある! 最後の白夜当主として、私が全て引き受ける!!」
その宣言で安曇は、継葉のやりたいことを理解した。刀をしっかりと握る。
(師匠を……信じなくては)
キュオオ
キュオオ
歓声をあげるかのように蜘蛛はゆらりと揺れ、糸を張り巡らせて継葉へと──いや。
キュオオオオ!!
「!?」
赤黒い目を安曇に向けて光らせる。
(な──!?)
蜘蛛たちは安曇の頭上に一斉に飛び上がり、安曇の視界は黒く染まった。