森の中の道無き道を覚えるほどに、何度も通り抜けたその道。
最初は不気味に感じた対の館も、迷わず飛び込み走り抜ける。
「はぁ……はぁ……」
死水はいつもと変わらない。
初めて見た時の不気味さも静けさもそのまま。
安曇は迷わず飛び込んだ。
濡れることはないその水に。
瞬間、息ができなくなる。
まとわりつくようなその水は、痛みと支配の感覚を思い出させる。
(──師匠!)
なぜ、自分はこんなに急いで走っているのか。
安曇にはよくわからなかった。
けれど気が急く。
いつも明るく笑う師の姿が頭を過ぎる。
「は……はぁ……」
水を潜り抜け、呼吸が乱れる。
安曇は胸元を抑えて息を整えた。
(落ち着け……落ち着け!)
「……師匠?」
対の館に継葉の姿は見えない。また、外で影を狩っているのか。──いや。
「これ……は!」
静かすぎる屋敷は、ほんの少し前に見たそれとは様相を変えていた。
漆喰の壁は剥がれ落ち、障子もあちこち穴が空き木の枠も黒ずんでいる。 現実世界でさえ古びていただけの柱すら、所々朽ちていた。
(──っ)
六文銭を握りしめている手にじわりと汗が滲む。そういえば音がしない。
「……」
ギシ……ギシ……
いつもより大きく軋む床を進む。
扉も割れていて、半分しか残っていなかった。もはやその機能を果たしていない。
ここを安定させているのは継葉だ。
なのに、どうして──
安曇は小さく息を吐いて、半ば蹴破るように一気に壊れかけた鉄の扉を開ける。
「──」
そこに、見知った風景はなかった。
安曇は扉から外に踏み出すこともできず、呆然とその景色を眺める。
これまでにこの死水で見てきた景色と、現実世界のあらゆる風景をごちゃ混ぜにしたような空間。それはまるで……
(奈落──!?)
いや、正確には奈落ではない。そこに落ちるような穴はなく、ただぐちゃぐちゃの風景があるだけだ。
森の木々から生えた電柱。地面からビルが建ち、そのビルから木が生えている。夕暮れかと思えば雨が降り、月が出ている。
そして今までと一番違うのは……。
「割れてる……」
空も、建物も、あちこちが。まるでガラスにひびが入っているかのように線が走り、割れ目からは別の風景が覗いている。世界そのものがツギハギされたようだった。
呼吸が浅くなる。
どうしたって嫌な予感が巡り、あの継葉が囚われていた日とは別の様相に恐怖が湧いてくる。
動くものは何ひとつない。
いつも襲ってきた影すらも。
──あの時とは違う。
けれど、だからこそもっと悪い予感が全身を竦ませる。
嫌に大きく鳴る心臓を押さえながら、安曇は目を閉じて継葉を探す。
けれど気配はこの場所全体のあちこちに散り、それさえモヤがかかったようでよくわからなかった。
(いや……だからって消えたわけじゃない)
会えるはず……。
指先の震えを誤魔化すように握りこんだ。
土を踏みしめ、進み出す。
切り替わるように変化していく足場は水の上を電光掲示板を渡りながら進み、ビルの窓を歩き、砕けている場所は自分で足場を作った。
そして呼ぶように、求めるように探し続ける。ひび割れた空間を進んでいく。
そもそも──東雲継葉は生者か死者か。
そんなもの、答えはひとつしかないようなものだ。
けれど安曇はずっと、その答えはどうでも良いと思っていた。
彼女は安曇を見ていたし、安曇も彼女を見ていた。そうして互いに偽りなく、笑い、泣き、共にあることを認めたからだ。
──影を斬れなかったあの日も。
「諦めるな! 大丈夫だ! お前ならできる!」
グッと拳を握り、曇りのない期待に満ちた目を安曇に向けていた継葉。
(何の根拠が……)
けれど悪い気はしない。
理論では見えない、理屈ではわからないものを掴むに掴めない瞬間には、その信頼が何よりも力強く思えた。
「いいか? 失敗したかもしれない。でも。さっきのお前より、今のお前は進めている。そう考えるんだ」
「進んで……ますか?」
半信半疑に聞きながら、もう一度影を斬るも鈍い手応えしか感じられない。
「大丈夫だとも! 手を伸ばせば必ず届く!」
曇りのない笑顔と信頼は眩しい。
安曇にはできないことだと思っている。
「……手を伸ばしても届かなかったら?」
その質問に大きな意味はなかった。揚げ足を取りたかったのかもしれない。
叔父を早く探さなければいけないのにと、心が落ち着かなかった。
だから何の気なしに口から出た言葉を意識せず、安曇は刀を確認する。
死水を通り抜けたからといって、刀は錆びてない。そもそもあの水は水であって水ではないのだろう。
そんな思考に声が降る。
「失敗したっていいんだ」
「え?」
刀から視線を移せば、継葉は自慢げに笑っていた。
「そのために師匠がいるんだ。私が背中を押してやる。必ず届くさ!」
「……」
無茶苦茶を言う人だ。
けれど──何だか肩の力は抜けた。
この暗い死水の奥の明るさも、温度も。
この東雲継葉が与えてくれたもの。
たとえ彼女が見えなくとも、今もなお、この場を制しているのは継葉だ。あの継承者たちの残影ではない。
安曇は息を乱しながら、それでも確実に継葉を目指す。
バシャバシャと川のような場所を進めば、それはいつの間にか湯に変わり、その奥には溶岩のようなものすら見える。
(温度はないのに……)
まるで安曇を拒むかのようだ。
安曇は頭を振って先に進む。
だからといって、この空間は……継葉は安曇を傷つけない。安曇はそれを知っている。
──叔父の部屋で、ふたりで寝転がっていた時に聞いてみた言葉を思い出す。
「ここから出たいと思わないんですか?」
戦前からだ。
もう十分ではないか。
この場所はそもそも、誰かが順番に守った場所であるはずだ。
白夜がいなくなったあと、確かに適任者がいなかったかもしれない。でも今は安曇がいる。
継葉と同じ動きはできなくても、それでも今のこの塊を除去した場を維持するくらいならできるはずだ。
「んー。私は守るために来たからな……」
継承者は皆、自分の意志でここにいる。
それは理解しているけれど。
「でも」
「まあまあ。確かに私は世界から取り残されたかもしれない。でもな?」
継葉は言葉を切ってコロンと安曇の方を向き、安曇の頭を撫でる。
その目には自負があり、声には労りが滲んでいた。触れた手からも悲しみは感じられない。
「私がここを守っている間は、誰かの役に立てている。みんなの未来を守れているんだ」
むしろ嬉しそうに笑う継葉。
どこか麻痺してしまってるんじゃないか。そうとさえ思う。
「知ってほしいとは思わないんですか?」
他人なんてどうでもいいと思う安曇ですら、それほど長い間戦っていたらなぜそれをしなければいけないのか見失ってしまう気がする。
得るものがあるからこそ、安曇は動くと決めるのだから。
「お前が知ってるだろ?」
「いや、それは……」
そうだけれども。そうではなく……
「あはは! すごい顔になったな! でもな? 世界が私を認めている。世界が続いていることこそが、お前がここに来たことこそ! その証左なんだ!」
「──」
たとえ世界から離れてしまっても。
時の流れから取り残されてしまっても、今この時、世界が変わらずあるのなら。
指先から伝わるその思いを、安曇は否定したくない。それが継葉という人だと思っている。
──だから。
そんな彼女が、安曇を傷つけるはずはない。そう信じることができるのだ。
パキ……
駆け抜け、砕けた景色を踏み抜いて辿り着いたその場所で──ついに探していた人を見つけた。
「……」
それは、ぼんやりと宙を見つめていた。
虚ろな眼差しに、一体何が写っているのだろう。
「師匠」
声をかけると、それはゆっくりとこちらを向く。
その半身は黒く染まり、影に変わっている半分の顔にある瞳は赤黒く光っていた。