その一瞬は、ひどくゆっくりに感じた。
刀を振り上げ、継葉と目が合う。
その目に恐れはなく、浮かんだ涙さえ悲しみの色ではない。
──安堵。
(本当に、馬鹿な人だ)
カァンッ!!
滑り込んできた影の手が、再び安曇の刀を受ける。さっきは弾かれた。今度は──
「!!」
刀をずらして押し込むように進む。継葉の刀が安曇の腕を切り裂き、安曇は同時に継葉の影の腕を斬り落とした。
(こちらの傷は浅い)
安曇が進んだと同時に継葉本体が慌てたように体を引いたからだ。
思った通り、継葉は安曇を傷つけたくないのだろう。
安曇はそっと目を伏せる。
小さく息を吐き、また影の腕を真っ直ぐ見つめた。
継葉は終わりを願った。
なら──安曇がやることはただひとつ。
「僕が、できると示すこと」
ズルリと生えて降ってきた影の腕を足場で受け止め、体をスライドさせて継葉の横を抜ける。
すかさず追いかけてきた刀を刀でいなすと、耳元で金属の音が跳ねる。
「……」
呼吸が乱れる。
さすがに隙がない。
影の半身から生えている手は今、二本。
片方は刀を持ち、片方は変幻自在なのか巨大化して落ちてくることが多い。
その二本が目でも付いているかのように安曇を狙う。
(隙なら──)
作ればいい!
安曇は再び走り出し、複数の足場をトンネルのように作って突進する。
バリン!!
影の攻撃でどんどん割れていく。
けれど足は止まらない。
おそらく時間の問題で追いつかれるだろう。安曇の狙っているものを達成する前に殺されるかもしれない。敵が普通の影ならば。──しかし、今、相手にしているのは継葉だ。
「ふっ……!!」
全て──空間全てを支配するかのように集中する。
かつて影を斬れずに焦った安曇に継葉は言った。
『あるのは当然として』掴み寄せるのだと。
周りにある力を、自分の一部だと信じ込む。
ここは彼女の空間であり、繋がっている安曇の空間だ。
命が広がる。
自分の境界が曖昧になる。
継葉の泣くような心を通して──奈落が見える。
影の手が伸びてくるが、無視して安曇は刀を持つ手に力を入れた。
安曇を潰そうと落ちる手は、躊躇うように鈍って安曇の肩を掠めてコンクリートを砕く。刀はまた安曇の脇腹を薄く斬るが、致命傷には程遠い。
「アずミ!!」
守りを捨てた安曇の動きに継葉が悲鳴を上げたのとほぼ同時に。
ドカッ!!
見えるものは奈落と命、それだけだ。
まるで吸い込まれるように決めたその位置に──継葉の足元に、飛び込んだ安曇は刀を突き立てた。
──ガシャン!!
そこからひび割れるように足場が砕け、奈落が顔を出す。
「アあ!!」
落下する継葉の落ちる先に、安曇はイカダのように足場を構築する。
指先が震える。
けれどもう、決めたのだ。
「師匠……僕はできますよ」
落ちる継葉の上に飛び込むように落下した安曇は、その勢いのまま──
ズブリ……
継葉の胸に深々と刀を突き刺した。
「ぐ……!」
「だから師匠」
手に触れる赤が、感触が安曇を蝕む。
なんて嫌な役回りだろうか。
「……僕を信じてください」
そのまま腕を回して抱きしめる。
コポリッと継葉の口から音がして、赤い雫が落ちていく。
「ふ、フ……強ク……なっタナぁ」
カハッと咳き込みながら、継葉も弱々しく抱きしめ返してくる。
影の腕は機能を無くしたように周囲に溶け、彼女の半身は奈落に溶けるように見えなくなっていた。
「ごメん、な、こんなコト……やらセて」
ぽたぽたと、片目から涙が落ちていく。
悲しみと苦しみと、寂しさが伝わってくる。
(本当に……馬鹿な人だ)
こんな時まで、優しいなんて。
抱きしめる腕に力がこもる。
じわじわと暖かな赤に安曇の服も濡れていく。
「これで満足ですか、師匠」
「ん……そう、ダな。満足……カも。ありがトウ、な」
(ああ、本当に……)
やっぱりどうしても。
わかっていても嫌なものは嫌だ。
息が苦しい。心臓が痛い。
抱きしめる腕を強くする。
涙が滲んで視界が揺れた。
でも──これが彼女の望みなのだから。
「……」
腕の中の継葉が崩れていく。
抱きしめる体が消えるたびに安曇も震える。
「あずみ……お前を、弟子に……できて、良かったよ」
苦い想いが全身に広がる。
こんな方法しかなかったのかと、声を大にして問い詰めたい。
「……僕も師匠の弟子で良かったです」
声が震えたのは見逃してほしい。
「ふふ、こんな、時ばっか……可愛いこと、言うよな……」
苦笑するように、いつもの笑顔で継葉は消えた。奈落は泣くように風の音を響かせ、安曇は目を閉じ、耐えるようにその場に蹲る。
「終わらせますから……」
そのつぶやきは、闇の中に吸い込まれるように消えていった。
やがて目を開けた。
ゴロンと転がった背はあぜ道に。目の上には、青空が広がっている。
ゆっくりと体を起こして、刀をギュッと握りしめる。
(やっぱりここは、この風景が似合う)
穏やかな風に揺れる麦穂は、あるはずのない太陽の光を浴びてキラキラと光る。
「……」
傷はすでに痛みもなく、服の切れ目から覗けば塞がりかけていた。
おまじないは健在らしい。
立ち上がって周囲を見れば、あぜ道の先に対の館が見えた。
思ったより近くで戦っていたようだ。
主不在の館に向けて。
ザク……ザク……
畦道を踏みしめ、安曇は進んでいく。
散ってはいったが影はまだいるかもしれない。
「僕は、大丈夫ですよ」
小さな呟きは風に乗り、麦穂を抜けて遠くへ飛んでいく。
静かに、遠く──どこまでも。
***
死水を抜け、館に戻った時。
「……?」
ざわりと空気が違う気がした。
いつも静かなその場所に、何か違和感を感じるような。
(なんだ?)
影がこちらへ来ている気配はない。
古びた館は相も変わらず薄暗く、少し埃っぽい。
ギシ……
刀を置き、廊下を進む。
特に変化は見られない。
しかし。
「!」
玄関から入ってすぐのところに、誰かが倒れている。薄明かりの下、どうやら子供のようだ。
近寄ってみると──
『ちゃんと謝ったじゃんか!!』
先日安曇をリンチしたあげく、謝罪の場ですらそうやって叫んで掴みかかってきた少年。
塚原《つかはら》圭輔《けいすけ》──その人だった。