本来これは、継葉が受け取るべき対価だ。けれど彼女が戻ることはない。
安曇は僅かに目を伏せる。
紫苑も言葉を重ねず、安曇の反応を待っているようだ。
(紫苑の空気は居心地が良い)
小さく息を吐き、安曇は再び紫苑を見つめる。
「つまり、この札は無効ということ?」
「……本来はそうかも。でも君が引き継いだんだろう? なら、白夜は君に全力で応えるよ」
「……うん」
紫苑の目は真剣で、それでいてとても穏やかだった。儚いイメージすらあったが、さすが後継者というべきか。
「使い道は考えておくよ」
「うん、そうして。俺からもいろいろ聞いていいかな? 話せないことは話さなくていいから」
「……いいよ」
紫苑に聞かれるたびに、安曇も質問を混ぜていく。
継葉のこと、お役目のこと。初対面だというのに、いや、初対面だからこそだろうか。忌憚《きたん》なく話すことができた。
「白夜は今、何をしてるの? 普通の暴力団ではないよね」
紫苑は対の館やお役目、白夜の贄《にえ》という言葉を知っていた。歴史を継いでいるといえばそれまでだが、それ以上に深く知っているような気がした。
「死水を、安曇は何だと思ってる?」
「死水? そうだね、命の塊だと聞いてる」
継葉からは命の塊だと聞いた。
記憶の再現が場所として現れていたことを思えば、あながち間違いではないように思う。
「そうだね。白夜でも……俺も似たような認識だ。人の気持ち、想いが固まったもの」
「命ではなく?」
「命は混ざって消えてしまうと思ってる。命が──個が残っているのなら、人を襲ったりしないんじゃないかと」
安曇も人のことは言えないが、静かに語る紫苑は普通の子供よりもだいぶ大人びて見えた。
(彼には彼の、苦労があるんだろう)
けれど彼の考えも一理ある。
混ざっていたと言っても継葉は安曇に危害を加えなかった。そして継承者は呑まれるままに襲ってきたように感じた。
「誰かを求める感情が残っているのかもしれないね」
贄になった誰かも、継承者も常に孤独ではあったろうから。帰りたいと願う者もいるだろう。
安曇の言葉に、紫苑は静かに頷く。
「そうだね。死水の管理は……個人に押し付けてしまっているから、対の館には多くの心が集まっているのかも」
「それが新しい影を産んでいる?」
ひどく不毛な話だ。
「……そうなんだろうね。でもね、想いが集まる場所はね、どこにでもあるんだよ」
「……え」
思わず顔を上げる。
「神社仏閣とか、パワースポットとかね。他にも自殺の名所とかに発生するんだ。白夜はそういうものが大きくならないように管理してる」
「逃げたんじゃ……? あ、いや」
思わず安曇の口をついた言葉に、紫苑は苦笑した。
「そうだね。逃げたのは事実だよ。贄というものから逃げたんだ」
「……」
「黒鉄にある死水のようなものはできてないよ。そうなる前に、ただ散らすって方法で管理してるんだ」
「散らす……」
なるほど。今でも、白夜には様々な知識や手法があるようだ。
紫苑は静かな声で、他にも白夜の現在を語ってくれた。
継葉が聞きたかったことであろう内容を。
それが少し……ほんの少しだけ寂しく感じた。
「対の館の地下に白夜の遺品が残されているけど、白夜が引き取るなら渡すよ」
地下に残されていた赤い着物や、小物の数々。彼らは帰りたいのではないだろうか。そう思ったのだが。
「いや、それはそのまま置いておいて」
「いいの?」
紫苑は眉を下げ、少し寂しそうに頷いた。穏やかで優しい紫苑のその反応は、安曇には少し意外だった。
「うん。あれらは楔《くさび》だからね」
「楔……」
『現実世界の方に、馴染みのある縁を繋げるものを残していく』
確か継葉がそう言っていたはずだ。
道に迷ってしまわぬように、と。
「うん。命綱と言えばいいかな。いつか戻ってこれるように、そんな願いが込められていたらしいね」
「……なるほどね。そういう……」
言葉を落としながら、安曇はどこか違和感を感じる。
(なんだろう……何か引っかかったんだけど……)
その引っかかりを、安曇は言語化できなかった。
死水は全てを飲み込み、命を溶かした。六文銭を渡そうと、命綱を付けようと、彼らは死水──命の塊になってしまった。
紫苑の言葉を借りるなら、その気持ちだけを残して。
「だから、彼らがいつか帰れるように置いておこうと思ってるよ」
「……そう」
引っかかったものがわからないままに、安曇は静かに頷く。そこに──
「安曇」
扉が開いて声がかかった。
「父さん」
隆盛が苦い顔で立っていた。
先程まで気配は感じなかったから、安曇と紫苑の話を聞いたわけではないだろう。白夜当主との話し合いが上手く行かなかったのかもしれない。
(食えない感じだったしな……)
安曇は少し考えて、紫苑を見る。
別に隆盛に恩を売りたいわけではないが、名分に使った以上確認くらいは良いだろう。
「紫苑、白夜と中国が取引していると聞いたよ」
「……安曇」
隆盛の眉間に皺が寄る。やはりこの案件を話していたのだろう。
安曇の言葉に紫苑は微かに首を傾げた。
「そんな話は知らないけど……」
「そうなの?」
「うん。そういう事実はないと思うよ」
紫苑は柔らかく微笑んだ。
これが嘘である可能性も当然ある。しかしここまで話をしていて、不思議と紫苑との間に絆のようなものを感じていた。
(立場が似ている気がする)
「紫苑、また連絡しても?」
「うん、嬉しいよ」
隆盛が怪訝そうな顔を向けている横で、安曇は紫苑と連絡先を交換した。
「木札を使いたい時に使ってくれたらいいよ」
耳打ちするように言う紫苑に、安曇は小さく頷き返す。
おそらく密に連絡を取ることはないだろう。けれどこの関係は、お互いの支えになるような気がした。
「ありがとう。じゃあ、また機会があれば」
「うん」
廊下で控えていた紫苑の付き人も部屋に戻ってくる。それを横目に、安曇は隆盛を見た。
「白夜当主は帰ったんですか?」
「ああ、少し前にな。お前はまだかかるか?」
「いえ、終わりました」
隆盛を待たせて話を聞かれても面倒だ。
安曇が紫苑に目配せすると、紫苑は小さく頷いて手を振る。
父親に置いていかれても、紫苑は何とも思っていないようだった。そもそも話を全て任せた時点で期待していなかったのかもしれない。……いや、いつものことなのかもしれない。
「話は済んだのか」
「はい。届けたいものがあったので、渡しておきました」
廊下を進む隆盛の横を歩きながら言葉を返す。
竹で作られた廊下を抜け、大きな生け花が置かれた玄関へと向かう。隆盛の次に安曇が進み、その前後を下っ端が歩いていた。
料亭の女将が頭を下げて玄関を開ける。
玄関の向こうでは瀬良が車を回して出発の用意を済ませていた。
「安曇、話の内容は……」
隆盛が安曇を振り返った──その時だった。
パァン!
安曇の頬にびちゃりと何かがつく。
「……」
目の前で。
隆盛の胸に花のように赤が広がる。その表情は驚きに満ちていて、一瞬の出来事だったにも関わらず、安曇にはひどくゆっくりに感じられた。
グラリ……と傾く体。
「狙撃《そげき》だ!!」
叫ぶ瀬良。
黒鉄組組長、柘植隆盛が狙撃された瞬間だった。