館は二階建てでボロボロだった。倒れるんじゃないかと思うほどに。
(これが……叔父さんを殺す館?)
「……こんなボロボロなのに、修理しないの?」
「ここは……普通の人間は起きてることすら難しい」
「え」
館自体が幻日石《げんじつせき》のようなものなんだと叔父は笑う。
(修理する人を呼べないわけか……ん?)
対の館は古びた日本家屋だ。
あちこちの板が黒ずみ、窓には板が張られている。玄関は両開きの鉄の扉で、まるで門か何かのようだ。
「ここ……」
しかしそれよりも。
(何かがおかしい)
不快にも思える違和感。
安曇は館をまじまじと見つめ、ふと気づいた。
「……この館、傾いてる?」
「おぉ、よく気づいたな。中に入りゃもっとハッキリする」
安曇は小さく頷くと、車椅子を押して足を踏み入れた。
「──」
入った瞬間──世界が色をなくしたように見えた。
「……え」
しかしそれは一瞬だけで、次の瞬間には普通のボロ屋が目に入る。入口の土間と、下駄箱に残された何足かの靴。
(……やっぱり普通じゃない)
気を引き締めなければ。
叔父の命をこれ以上削らないために。
辺りは静かで、色も戻っている。なのにどこか寒く感じた。
土間から床には、板張りのスロープで上がれるようになっている。ボロボロだが床には穴も見当たらず、車椅子でも通れるようで安曇は少しホッとした。
入ってすぐの場所に階段があった。その中央には穴が開き、無惨に崩れ落ちている。
ここで生活していたなんて……冗談みたいな酷い話だ。
安曇は叔父が示すまま、階段を避けて正面の部屋に向かった。
「広間は突っ切っていい」
「わかった」
室内は薄暗く、落ちている絵本や人形が物悲しい。
(水に……なるなんて)
不安が押し寄せて吐きそうになる。これから出てくる化け物より、自分の感情の方が余程厄介だ。
大きく息を吸って、吐いて。まずは水を見なければ。化け物とやらも。
必ずやり遂げる必要があるのだから。
──キィ…キィ…
広間に入ると、部屋の向こう側には廊下が左右に広がっていた。対面にも居間と思しき広間がある。どうやら外からイメージしたよりは広い。
そして。
「傾いてるね……」
車椅子は奥に押すのにほとんど力を使わない。手を離せばゆっくり奥へと転がっていくだろう。
「全体が傾いてるからな。奥の部屋が一番沈んでる」
「あっち?」
「そうだ。あの奥の部屋に死水がある」
「……」
──命を吸う水。
怖いというより憎らしい。いっそ手を入れてみれば何かわかるだろうか。すくって持ち帰ることは?
(命を吸うってどうやって……?)
「安曇」
「え?」
廊下へ足を踏み入れようとした安曇は、叔父の声にハッと顔を上げる。
「ここから先に進めば、生命の気配に反応して化け物が出始める。今は影に潜んでるがな」
「……」
叔父の声が真剣な色に変わる。
安曇は胸の奥がざわつくのを、息を吐いて押さえた。
「お前はどうしたい?」
「え……」
「ここまで来たのは、ある程度見せるべきだと思ったからだ。あとはまあ、処理しとく必要があるならな」
処理……化け物を倒すということか。
「怖かったり、死にたくねぇって気持ちが強いなら無視していい。そもそも一人に押し付けるなんざ、反吐が出るしな」
怖い……だろうか。
叔父に死んでほしくない。それだけだ。
──だから答えはひとつだろう。
「……」
「少し、考えてていい。俺も初めは悩んだもんだ」
「……」
荒い息を整え、叔父はまた車椅子にもたれる。それでも笑みは崩さず、安曇を見つめていた。
(処理しとくって……)
──その体で?
死の淵に立ってでも、叔父が守ろうとしているものはなんだろう。安曇にはよくわからない。
理性的な判断ではないだろう。だけど叔父が守ってきた灯火を絶やすのは、他のどんなことより嫌だったし、何よりこれしか守る方法が見えない。
「……進むよ」
「そうか」
叔父は静かに頷いた。そして少し苦笑する。
「そうだな、お前は選べちまうやつだよな」
そして声のトーンが少し下がる。
「ここから先は、何がどう出てもおかしくない。ありえないことなどないのだと、理解しておけ」
「……」
思わず息を飲み、そして静かに頷いた。何が起きてもおかしくないのだと、覚悟を決める。
そんな場所に車椅子で行っていいのかと一瞬足が止まりかけたが、まっすぐ前を見つめる叔父の視線に押されるように安曇は足を踏み出した。
廊下に足を踏み出した瞬間──違和感を感じた。
左右に別れた廊下の天井は高めで、目の前にも広間がある。だというのに。
「──」
妙な圧迫感を感じた。先程まで響いていた板が軋む音も、雨戸を揺らす風の音も何もしない。
まるで深い水の中にいるように……息が苦しい。
自分は今、どこにいるのだろう。どう立っているのだろう。ここは──
「安曇」
「──え」
「飲まれるな」
「っ」
その言葉で改めて周りを見れば、そこは薄暗いだけのボロボロな館で。車椅子を押せば変わらずキシリと音が鳴る。
(しっかりしないと……)
叔父に迷惑がかかる。
車椅子のこの人の命を、安曇自身が奪いかねない。安曇は震える手にギュッと力を入れて車椅子を押し進めた。手には汗がじわりと滲んでいた。
「目の前の部屋に入ってくれ」
「うん……」
その部屋は居間か何かだと思っていたのだが、壁にいくつも刀が置かれている武器庫のような場所だった。
「こんなにたくさん……!?」
銃刀法なんてものがある現代日本に、これだけの業物があるなんて考えてもみなかった。いくら暴力団だとしてもだ。
「まあ、古くからあるものだからな。手入れ方法は教えたろ? たまに手入れしてやってくれ」
「……」
理解していてもその言い方は安曇を抉る。鈍い痛みに安曇は眉を顰めるが、何も口には出さなかった。
叔父が壁にある刀を懐かしそうに眺めていたからかもしれない。
「俺のは持ってるからな。お前は好きに選べ」
「選んでいいの?」
「俺のでもいいが。手に馴染むものならなんでもいい。色々試すのも悪くない」
見知らぬ誰かのものより叔父のものが嬉しかったが、弱っている叔父から取り上げるのは気が引ける。馴染むものが良いのは安曇だけではないはずだ。
「子供だったらこの辺が使いやすい」
短めの刀が数本壁に並んでいた。そのうちの白い一本に目が行く。叔父が先程、懐かしそうに眺めていたものだった。
持てば適度に軽く、重すぎず、扱いやすそうだ。
「のんびり選ぶ余裕もないからな、気に入ったならそれでいい。成長に合わせて変えていけ」
「……わかった」
ピリッと空気が痛い。叔父が警戒しているのがわかった。
ありえないことなどない。
叔父の言葉にあらゆる方向を警戒する。警戒すればするほど、影が濃くなって自分の姿がわからなくなる。
(飲まれて……たまるか!)
恐怖なんて噛み殺せ。集中しろ。
何度も自分に言い聞かせる。
「この先の部屋に死水がある。そこに淀みが溜まってる。それを斬ればミッションクリアだ」
(ミッション……)
軽く言われて、思わず肩の力が抜ける。
「淀み?」
「見ればわかる。一週間に一度斬ってやればいい。そこから化け物が出るからな」
「一週間に一度湧くの?」
「いや? だんだんデカくなって、放置しすぎればいろんな部屋に化け物が出てくるってだけだな……ほら、こんなだ」
言いながら叔父が刀を振るう。ヒュウンと風を切る音とともに……黒い何かがスパンと斬れた。
「!?」
拳大の何かだった。それは斬られてそのまま砂のように崩れて消える。一瞬だったが、コウモリか何かのように見えた。
「しばらく来れなかったからな……奥へ──」
言いかけた叔父の背後。
何もない空間がじわりと──まるで紙にインクが滲み出すように黒い何かが広がっていく。
「──叔父さん!!」
滲みの中からずるりと人型の影が零れ落ち、安曇は慌てて刀を抜いた。
(ダメ──だ!)
息が止まる。もつれるように 、それが何か認識するより早く、安曇の足が動いた。