首都圏でありながら、小高い丘というより山の中腹に鎮座する日本家屋──通称黒鉄屋敷。
指定暴力団の黒金組本拠地であり、莫大な広さを持つその屋敷には、内部だけで囁かれる噂話があった。
──曰く、森の奥にある対の館には、『白夜組からの預かり物』があるらしい。
これに手を出さない限りは、白夜組から黒鉄組に手を出すことはない。そんな噂だ。
事実、対の館の修理が行われてから三年。白夜との衝突は起きていない。
(まあ、噂を流したのは僕だけど)
安曇は色の薄い空を見上げる。
あれから死水の世界は静かなものだ。あちこちにあった割れ目も今はない。世界全体に広がって薄まったような印象だ。
それでも館の周辺は田園風景が広がり、遠くまで麦穂が風に揺れている。
風は優しく、ほどよい温度で頬を撫でる。
──とても平和だ。
いや、あちこちを探しまわれば影のひとつやふたつ、いる。けれどこの対の館の周辺にはまずいない。
この世界はもう平和なのだと、全力で訴えられている気がする。
「……平和だとしても、何が起こるかわからないからね」
小さく笑って歩き出す。
風がまた、安曇の髪を揺らした。
安曇は今、この世界にひとりきり。
ずっとここにいるわけではないし、ひとりになってからまだ三年しか経っていない。
それでも……影との戦い以外に何もないこの世界で、自分を保ち続けることの難しさは理解してる。
黒鉄組のお役目とは全く違う苦痛がそこにはある。
継承を繰り返しながら、命を燃やして散っていった黒鉄の継承者。
『やることはやらねぇとな』
そう言って立ち上がった背中を今でも覚えているし、目標は変わっていない。
だからこそ、安曇はここに立っている。
***
歩いていけば薄まった景色は再び色を変え、森の風景に差し掛かる。
探し歩けばこういう場所──何かが溶けた場所はまだ存在する。
例えば大きな事故が起きた時や、災害時。こういう場所は増える。
キュオオ
そしてそんな場所には、こうして影が現れる。ゆらり、ゆらりといくつも現れる。
「フッ──!」
安曇が凪ぐように刀を動かす。
あの奈落とは違ってすぐに消える。
(命綱なんてないからかな……)
白夜の贄と呼ばれた人々は、この世界でひとり、耐えていた。
揺れる長い髪に侍のような出で立ちをしたあの人は、それでも確かに笑っていた。ひとりで背負って、その重さを嘆くことなく。それどころか彼らの最期を嘆いていた。
「……師匠は馬鹿ですね」
薄い青空に呟けば、流れるような風にさわさわと木々が揺れる。
『私を最後の贄に』
継葉の覚悟を覚えている。
その願いと覚悟を、叶えてしまった女性。
静かで穏やかな田園風景。
どこか長閑で、何もないのに寂しさはない。
──彼女が願った世界の姿だ。
もう少し進むか。
死水は、世界のもうひとつの側面と言えるだろう。本当は消せたら良かったのだけど。
この間、大きな災害があった。きっとまた数が増える。命は絶えず溶けて、記憶は刻まれていく。
思えば、百蛇衆が贄というものを選んだのは明治初期などではなかったか。
その時代は戦争の時代だったはず。
「……」
始まりは人の乱世。そこから贄を選んだ彼ら。選択の余地がなかったのだろう。それはわかる。
あの館の中でどうにかできるような規模ではなかったんだろう。それでも安曇は賛成する気にはなれないが。
(まあ、でも)
それでも継葉との出会いには、感謝すべきなのかもしれない。
「僕は……僕で最後のお役目にするつもりです」
安曇の足元に、歩くたびにあぜ道が広がる。
土に生えた雑草を見つめながら、安曇はほんの少し笑う。
安曇はゆっくり歩みを進める。
柔らかな風が、草の匂いを運んでいた。
***
いつもはこうして記憶を見つけては影を斬る。それで終わるはずだったのだが。
この日は少し違った。
「……ビル群」
ずいぶんと近代的な風景だ。
街がひとつ、壊れてしまった災害。そのせいだろうか。
安曇が警戒しながら踏み込むと──
「うおああああ!!」
「!?」
奥の街道を、ものすごい勢いで走ってくる人影が見えた。
(人間!?)
年齢的には安曇と同じくらいの少年だ。彼は後ろに二体の影を引き連れて、猛烈な勢いで走ってくる。
影の動きは緩いものの、おそらくこの空間の主なのだろう。
まるで予測するかのようにビルのガラスから、マンホールから、車の下から転移するかのように顔を出し、少年を追っている。
「ああああ!! ひ、ひとおおと!?」
安曇に気づいた少年は、あちこちに黒ずんだ傷を負いながらも方向転換しようとする。
巻き込まないようにと思ったのかもしれないが──
安曇は刀を構えて走り出す。
足場を作り、飛び上がるようにして上空から少年の背後の影を斬り伏せた。
そしてそのまま車の下から伸びてきた影を車ごと斬る。
これは記憶の再現。斬りたいと思えば、支配すれば斬れる。
それは三年間の間に安曇が気づいたことだった。考えてみれば、ここは現実世界ではないのだから。
「う、うわぁ……な、なんやねん」
関西弁だ。
一体どこから迷い込んだのか。
肩で息をしている少年はTシャツに短パン。着の身着のままと言った感じに見える。
「大丈夫?」
ビル群は残っている。他にもまだいるだろう。この少年をさっさとどうにかしたいところだ。
「え、あ、おう。ありがとう。……人間やんな?」
「人間だよ」
そういえば包帯をつけたままだった。スルスルと包帯を外して答えると、少年はその場にへたり込んだ。
「あ、ほんま人間やん。もー……終わったかと思ったわ……なんなん、ここ」
「ここは……」
どう説明したものか。
継葉は命の塊だと言った。命の記憶を再現している場所でもある。想いの欠片が影となり、他の命を求める場所でもあるだろう。
「まあ、あの世に近いかな」
「え!? 俺、死んだん!?」
「生きてるよ。近いというだけ」
「え、お、おう?」
少年は志都と名乗った。
水溜まりのようなものに落ちたということだから、おそらくどこかに死水が発生したんだろう。
紫苑に伝えてやった方がいいのかもしれない。
「どこから来たか覚えてる?」
「え」
無作為に逃げ回ってきたせいでわからないようだった。
(まあ、仕方ないな)
この世界は支配する者の記憶で構成されているのだし。混ざれば混ざるほど、道なき道となってしまうから。
「……探してみよう」
ちょうど、安曇もやりたいことがあった。この規模の記憶なら都合がいい。
──ザシュッ!
ビル群で影を斬るたびに、志都が歓声を上げる。
「めっちゃ強……」
意志と支配の問題だ。
実はあまり強さは必要ないのだと、これも三年間で気がついた。
もちろん、基本的な動きと合わせる方がイメージとして強くなる。
「なあなあ」
裏路地を覗き、影を斬る。影とともにだいぶビルが減ってきた。
そこに志都がそっと声をかける。
「安曇はここで暮らしてるん?」
「……いや」
安曇は言いかけてから少し考えて、ニヤリと笑う。
「そうだね、それでもいいと思ってるよ」
安曇が踏み出すとコンクリートの地面があぜ道に変わる。それを志都は楽しそうに眺めた。
「えー、景色変えられるん!? オモロすぎるやろ!」
「まあ、でも君は帰らないとね」
「えー」
志都が文句を言おうとした時だった。
ガラリと風景が崩れ出す。
「うおあ!?」
グイッと志都の腕を掴み、足場の板を作りながら飛び上がる。
──記憶の崩落だ。
だいぶ影を斬り、ビルも消えてきたからそろそろだろうと思っていた。
「落ち! 落ちる!!」
安曇にしがみつく志都を宥めて立たせる。
会話できる相手がいたのは幸運だった。
「志都」
「ん?」
無関係なことに利用される志都にとっては迷惑かもしれないが、志都の助けにもなるだろうから文句はないだろう。
「この世界と混ざることで、感覚を広げたりこうした足場を作れるようになる」
「混ざる?」
「そう。この世界と混ざる。まあ、外には出られなくなるけど……僕だけだから問題はないよ」
ガラガラとビルが崩れる中心で目を細めた。
混ざり方などわからない。しかし経験ならある。基本的には接触だろう。
安曇は浮かんでいる瓦礫に手を伸ばす。
──その時だった。
『ダメだ!!』
声が直接聞こえた気がした。足元のあぜ道が広がり、景色を塗り替える。
安曇の口元に笑みが浮かぶ。
(三年かかったな……)
でも、やっと見つけた。
「ダメですか?」
『……』
もう諦めたらいいのに。
「なら、そろそろ終わりにしましょう」
躊躇うような空気に風が揺れる。
ビル群はあっという間に田園風景に飲み込まれ、安曇の横で志都がポカンとしながら辺りを見回している。
その穏やかな空気の中、安曇の声だけが静かに響いた。
「もう十分ですよね? 師匠」
その言葉に観念したのか。
あぜ道の真ん中に女性の影が揺らぎ、それは継葉の姿となった。
「……う、気づいてたのか。いつからだ?」
「最初からです」
「最初!?」
久しぶりに見る継葉は三年前と何も変わっていない。変わったところがあるとすれば、赤い着物ではなく最初に出会った時の侍風の衣装に戻っていることだろう。
「正確には……僕が奈落に落ちかけた時に……師匠が僕を掴みましたよね。あの時です」
「へ? あ、ええ?」
継葉は目を白黒させている。
(これはわかってないな……)
「僕と師匠は少し混ざりましたよね? あの時から、触れると多少思考が流れてくるので……」
「………………ええ!?」
その様子がおかしくて、安曇は思わず笑う。
「ずっと風景もそのままだったし、あぜ道もついてきてたじゃないですか」
「それは……いや、だってお前……じゃあ、なんで……」
本当にこの師匠は何もわかっていない。
そもそも継葉が世界と同化したというのなら、安曇に殺せるはずがない。
「それが師匠の望みだったので」
「──!」
だからそれでもひとりでお役目を続けるのだと、自分は大丈夫なのだと意思表示をしてきた。
あえて贄と同じように、ここの世界に同化するのだと意思表示をしてきた。止めに来るだろうと思ったからだ。
継葉は安曇を見捨てられなかった。
「……賭けは僕の勝ちですよ」
「賭け!?」
「なあ、話が見えへんねんけど……」
首を傾げる志都に、継葉は咳払いして誤魔化した。
そんな様子を、安曇は懐かしく見つめる。
「おかえりなさい、師匠」
あの日──継葉を貫いた日に決めたのだ。
歩けることを証明する。
この先も、ともにあることを納得させるのだと。
呪いは消える。
『お前はなりたいものになれる人間だよ』
叔父の声が笑った気がした。