第9話 叔父の影
葬儀から四日──
「……」
雨の音が耳に染みるような静かな朝に、安曇はぼんやりと目を開ける。
いつも起きる時間より三十分は遅い。最近は静かすぎて、つい寝過ごしてしまう。
──ザアァ
窓の外は今日も雨だ。
あの日から、雨は止むことなく続いている。
シャツを着て、ボタンをとめる。
窓は濡れ、湿り気のある廊下は、いつも以上に音が軋む。叔父の部屋の前を通っても、もう紫煙は漂っていなかった。
遺体が水になった。
あの葬儀の日、その事実は組員に伏せられた。おそらく知っているのは父と、葬儀の関係者の一部と、そして安曇だけだろう。
父は何事もなかったかのように棺のみを火葬し、病で骨が脆かったために近しい親族のみで拾うとして葬儀を解散させた。
何も入っていなかった棺桶。
納棺するその時まで、叔父は確かにそこにいたのに。
「……」
(……僕は、間に合わなかった)
学校へは兄と車で向かう。
兄は無言だった。葬儀以来、兄は安曇に近寄らない。クソ真面目な優等生の兄が何を思っているのか。
「兄さん」
「……何だ」
「兄さんは、『父さんが認めて母屋に住まわせていた叔父さん』を不名誉だと思ってるの?」
視線すら送らず淡々と話す安曇に、総司は少したじろいだ。運転手が息を飲んだが、無視した。
「それは……認めたというより温情だろう」
「……そう。その固い考え方、変えた方がいいよ」
「安曇! お前、目上の者に対し──!」
安曇が視線を送ると、兄は息を飲んで硬直した。感情を込めたつもりはないが、多少見下していたかもしれない。
「叔父さんも目上でしょ? 兄さんこそ……弁えなよ」
「──っ!!」
顔を朱に染めた総司は、そのまま何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。そのくらい、安曇の言葉には険があった。
車のワイパーが忙しく左右に動くのを、安曇はぼんやりと見つめていた。
基本的に、安曇は兄に何を言われようが気にしない。小言だろうがなんだろうが、面倒に思うだけだ。終わらせるために謝罪もするが、そこに何の感慨もない。
(取るに足らないし……)
──だが。
この件だけは別だ。安曇はこれを許すつもりはない。
もし。もしもこの先、兄があの硬さを持ったまま組を率いて行こうとするのなら。黒鉄組の、ひいてはお役目の──
(邪魔になるかもしれないな……)
雨水が窓を滑っていく。
叔父がいない今、守りたくもないが、お役目を守るのは安曇になるのだろう。
安曇は揺られながら静かに目を閉じた。
学校に到着し、傘を閉じて雨水を払う。靴をしまおうと下駄箱に手を伸ばしたところでするりと袖から包帯が覗いた。
「──あれって……例の呪い?」
ヒソヒソと囁く声は、安曇の耳にはっきりと届いた。
「……」
安曇が通うこの小学校は、いわゆるそれ系の学校だ。組の関係者や、その親類縁者の子息が多く通っている。
黒鉄の呪われた子、という噂はすでに伝わり始めているようだ。
「……はぁ」
(正直、どうでもいい)
どうせ何も知らないのだし、勝手に馬鹿にしていればいい。彼らがどう騒ごうとも、安曇のやることは変わらない。
そんなことよりも。
今日で前回のお役目──叔父との最後のお役目から、一週間が経った。今日は安曇がひとりで行う、初めてのお役目の日なのだった。
(先のことはわからないけど、とりあえず今は……)
お役目を潰すとしても、まずは継承してからだ。安曇はそう決めている。
とにかく準備をしよう。そう思って早々に帰宅したのだが──
「安曇坊ちゃん、たんと食いねぇ」
帰宅すると、安曇の部屋には居酒屋を思わせるメニューが並んでいた。
「……いらないって言ったよね?」
「そんなこと言わず、ぜひ坊ちゃん!!」
ブワッと涙を流し、スルメを差し出す組員、こと大林。
「そうですよ! そんなに細いんですから!!」
同じく滂沱《ぼうだ》のごとく涙を流して軟骨の唐揚げを進めてくる中林。
「坊ちゃんが倒れたら、隆明さんに顔向けできません!!」
同じく──まあ、どうでもいいのだが、熱い視線を向ける小林。
黒鉄組の三林として名高い三人組のチンピラだ。安曇にとっては、朝のラジオ体操をしている迷惑三人衆である。
叔父の葬儀以降、毎日宴会料理を持って押しかけてくるようになった。
「やっとここ最近静かになったかと思えば……本当にいらないよ。ていうか僕の歳知ってる?」
「「「十歳です!」」」
「……ああ、うん、知っててこれなのか」
思わずため息が出るが、そんな場合ではないのでさっさと準備にとりかかることにする。
そんな安曇に、三人は相変わらず目を潤ませながら熱い視線を送ってくる。
(どうしようかな……)
うるさくはあるが、叔父のファンだった連中であり害になる相手ではない。けれど毎日これでは困るし、安曇はお役目に行かなくてはならない。
(……こうするか)
小さくため息をつき、安曇は改めて三人を見た。
「いい? 僕は呪われている」
「え」
「坊ちゃん!?」
「そんな……」
大林の手からポロリとスルメが畳に落ちた。
何やらショックを受けているが、面倒なので無視する。
「でもそれは、僕が選んでそうしていることだ」
安曇の言葉に、三人はキョトンと安曇を見る。
「だから、それでもそばに来るというのなら、それなりの覚悟をしてくるように」
「「「……」」」
忌避《きひ》される存在のそばにいるということは、様々な誤解や悪意を呼ぶということ。それを安曇は身をもって知っている。
三林たちは、涙を止めてお互いに顔を見合わせた。
安曇はそれを静かに眺めて、薄く笑う。
「どうしても来るのなら、手土産くらい持っておいで。柘植《つげ》、奥村《おくむら》、細谷《ほそや》、都築《つづき》、鮎川《あゆかわ》。この関係性を調べてこれたら、お前たちを使ってあげるよ」
三林は呆然と安曇を見つめて息を飲んだ。安曇はその返事を待たずに踵を返す。そろそろ行かなければ。
(まあ、もう来なかったとしても、それはそれだ)
そして静かになった自室の扉をくぐり、そのまま雨具を持って外に出た。
三林たちは、追っては来なかった。
***
ジメジメと濡れた森は、いつもより一層影を落としたように暗く、まるで景色が濁ったようだ。
「……寒い」
ザアザアと森が鳴る。
頬にあたる冷たい風に、今よりもっと小さい頃、この森を迷い歩いたことを思い出した。
(そういえば、初めてじゃなかった……)
チラリと、腰に着けている房紐を見る。薄紫のそれは、風に吹かれて揺れている。
──あの日も天気は悪かった。
安曇は苦笑すると、雨合羽の前を合わせて歩き出す。
いつまでも感傷に浸るべきではない。
叔父の跡を継ぐのだから。
大きく息を吸って、最奥の扉を開ける。一歩踏み込めば全てがはじまる。安曇は滲む影を睨みつけた。
叔父がそこにいればいいのに。
(……違う)
頭を振ってその考えを追い出す。ここからは真剣勝負なのだ。
「多いな……」
部屋に入れば、あの日と変わらず水面にぐずぐずと滲むような球体が浮かんでいる。その表面がボコリ、ボコリと音を立てて膨らむ。
出てくる黒い影の見た目は、動物や人に近い。動きは速いもの、遅いものなど様々だが、動くと黒い雫のようなものがドロリ、ドロリと落ちていく。
「ふっ!」
ザシュッ!
小さいものは叩き斬る。
「っ!!」
ドスッ!!
大きなものは刺し殺す。
基本的にそこまで大きな傷でなくとも、影たちはボロボロと崩れていく。どこか不安定な存在なのかもしれない。
そして触れるたび、少しずつ安曇も黒く傷ついていく。けれどそれを気にする余裕もない。
「……」
ボコリ……ボコリ……
次々に来る影の数をどうにか減らさなければ。このままでは数に押し負ける。
(一旦引くべきか……いや)
引くことに意味は無い。どうせ倒さなければならないし、時間とともに増えるのだから。
今、やるしかない。
『たとえどれほど勝ち目が薄くとも、必ず活路は存在する。考えろ!』
声が。
諦めるなと背中を押す。
グッと目に力を入れる。刀を振るい、刺し、また振るう。たとえこの身が黒く染まろうと──最後まで倒しきらなくては!
──ザクッ!
「……は、はぁ、はぁ、──っ!!」
横から犬のような影が、赤黒い目を光らせて踊りかかる。
どうにかかわしたが、その時──
「!」
腰の房紐が解けて落ちる。
「ま──」
──ポチャン……
安曇の指先は一歩届かず、薄紫の房紐は死水に落ちた。
「っ」
襲ってきた犬のような影を斬り飛ばし、安曇は咄嗟に死水に手を入れた。
ぞわり
冷たい水がまとわりつくように素肌を撫で、次の瞬間──
「いっ!!」
房紐を握って思わず手を引き抜く。
まるで焼かれるように、溶かされるように、刺されるように。感じたことのない痛みが水に触れた場所にあった。
じわりと黒くなった手は、まだ痺れるように鈍い痛みを発している。
ボコリ
「っ」
思わず死水から距離を取る。
「──え」
今、手を入れたその場所に、ひらりと羽織りが揺れる。目を奪われた先にいたのは透けるような男性の──影。
(叔父さん──!)
柘植隆明《つげたかあき》、その人に見えたのだった。