没落王族は鍛えあげた剣で名声を欲しいままにするつもりだったのに何か思ってたのと違う 作:×××
夜明けは、容赦なく訪れた。
空が白み、雲の端に薄い光が差し込む。
それだけで前哨基地の空気が切り替わった。昨日まで張り付いていた夜の重さが、ただの待機時間だったかのように剥がれ落ち、兵たちは慌ただしく動き始める。
鉄と油の匂い。
乾いた号令。
布越しに伝わる鎧の冷たさ。
そして遠くで、魔獣の咆哮が地鳴りのように低く響いた。
レオンハルト・グランディオールは列の後方にいた。
黒基調の支給鎧は簡素で、身体に合っているとは言い難い。それでも隙が目立たないのは、立ち姿が崩れないからだ。金髪は短く束ねられ、赤い瞳薄く光る。
腰の左には剣。
装備の中で、そこだけが“異物”だった。
古い鞘。擦れた革。小傷だらけの金具。
だが粗末ではない。使い続けた痕が、刃の重心の正しさを、抜かずとも伝えてくる。父が玉座の間で床に突き立てた剣。最後に残った王家の誇り。
そのとき、前に立つ担当官が掠れた声で読み上げた。
「偵察班の報告。谷筋に魔獣群。規模は中。硬い個体が混ざる。魔導兵は後方より位階魔法を投射、歩兵は壁を維持しろ。以上」
硬い個体──それは、歩兵が“削られる”合図だ。
魔法の時代に、魔力適性なしの兵は基本、壁だ。剣も槍も、倒すためではなく“倒されないため”に使う。
列の中で息が詰まる音がした。誰かが咳払いで誤魔化し、別の誰かが鎧の留め具を必要以上にいじる。手を動かしていないと恐怖が前に出る。
隣の槍兵──昨日、同じ列に補充された若者が、声を潜めて言った。
「なあ……今日のやつ、やばいのか」
「……さあな」
レオンハルトは短く返した。
格好をつける余裕はない。ここは戦場だ。言葉で守れるものは少ない。
「壁が崩れたら、終わりだ」
「……魔法は?」
「後ろにいる。届くまで、崩すな」
どこからか、僅かばかりの怯えを孕んだ声が聞こえてくる。
槍兵は喉を鳴らし、槍の柄を握り直した。
その指が白い。手袋の下で汗が滲んでいるのが分かる。──号令が飛ぶ。
「前進!」
隊列が動き出す。足元の地面は湿り、踏み込むたび泥が靴底に絡みつく。森が近い。視界が狭く、音が吸われる。嫌な場所だ、とレオンハルトは思った。
◇
谷筋に差しかかった瞬間、空気が変わった。
冷気が濃くなる。匂いが薄れる。
まるで世界の輪郭が一段ぼやけたような──そんな感覚。
魔力が乱れている。
魔導兵の術式板が、淡い光を揺らした。位階魔法は“才能が八割”の世界だが、それでも理論と術式で兵器化されている。だからこそ、乱流は痛い。整えたはずのものが、ここでは歪む。
「……来る」
誰かが呟いた。
次の瞬間、前方右の茂みが爆ぜるように揺れ、盾兵が一人引きずり倒された。悲鳴は短い。喉が裂けたような音で途切れた。
魔獣。
狼に似た体躯。だが二回りは大きい。牙は長く、毛皮の下に硬い筋が走っている。目が異様に澄んでいた。
一体ではない。二体、三体──影が連なって跳び出してくる。
「来るぞ! 複数だ!」
怒号とともに位階魔法が放たれる。閃光、爆ぜる音──しかし、光が“痩せた”。
火球は途中で散り、氷槍は形を失う。術式板が嫌な高音を立て、魔力石の表面に細い罅が走った。
「くそっ……!」
盾が並ぶ。槍が突き出される。
だが硬い個体が混じっている。毛皮の奥に、刃を拒む芯がある。槍先が弾かれ、盾の縁が軋み、人の骨が軋む気配がした。
列が崩れかける。
レオンハルトは──その瞬間、世界が静かになっていく感覚を知った。必要なもの以外が削ぎ落とされていく、奇妙な感覚。
距離。角度。重心。
次の一手。
自然と脳内で戦闘が組み立てられていく。
剣を抜く。
金属の擦れる音が、やけに澄んで聞こえた。
踏み込む。
刃を置く。
硬い毛皮を“割る”場所ではない。“開く”場所を狙う。
関節。
刃が通った。
遅れて血が噴き出し、魔獣が崩れる。倒れる音が泥を叩き、泥が跳ねた。
次。
背後の気配。
振り返らず、刃を引く。胴が裂け、魔獣が地面を転がる。
そして三体目。
跳躍。
軌道を読む。
刃を振る。
魔獣は空中で崩れ落ちた。
「剣士──!」
叫び声が聞こえた。声の主を確かめる余裕はない。
列の端で槍兵が転び、硬い個体が喉元へ飛びかかろうとしている。未来が確定する速度。
──間に合う。
レオンハルトは踏み込む。
刃が走り、魔獣の頭部が泥に転がった。
助けられた槍兵が呆然と見上げてくる。
その目に、感謝も尊敬もまだない。ただ、生き延びた者の白い恐怖だけがある。
戦闘は続く。
術式が揺れ、魔法が痩せるたび、歩兵は削られるはずだった。だが列は、完全には崩れない。崩れきらない。
レオンハルトが、異様な速度でその全ての穴を塞ぐからだ。
刃の軌跡が盾の隙間を縫い、崩れかける隊列の骨格を支える。
汗が目に入り、腕が熱く、脚が重くなる。だが止めれば終わる。止めるつもりはない。
レオンハルトは自然と笑っていた──。
◇
突然、熱と光が森を覆った。
術式が、今度は揺れない。濁っていた空気が押し流され、世界の輪郭が一気に鮮明になる。魔導兵団だ。
巨大な陣が刻まれ、閃光が走り、残った魔獣は瞬く間に薙ぎ払われた。炎の壁が森を舐め、氷が退路を塞ぎ、雷が止めを刺す。圧倒的な、時代の力。
兵たちは安堵の息を漏らしかけ──しかし、その息が喉で止まった。
森の奥が、もう一度揺れたのだ。
今度の揺れは枝葉が擦れる軽い音ではない。地面が歪むような、重い振動。
魔導兵団の先頭──第三魔導兵団第七中隊長、リヒト・ヴァイスハルトが、馬上で僅かに視線を上げた。隣で副官カイ・ローヴェンが、冗談めいた声を作ろうとして失敗する。
「……嫌なやつ、来ましたね」
出てきたのは、明らかに“硬い個体”の枠を越えていた。
狼ではない。獣の形をしていながら、体表の一部が骨板のように盛り上がり、歩くたびに乾いた擦過音がする。目は冷たい。感情の温度を拒む目だ。
周囲の魔獣が一歩退いた。
群れではない。統率だ。
誰かが呻く。
「……魔核持ち」
魔核──魔力の核を内に抱え、常識の枠から外れた極めて強力な個体。ここ、北方戦線では珍しくないからこそ地獄と言われているのだ。
リヒトが短く命じる。
「陣、再展開。拘束から入れ。位階を上げる」
術式板が一斉に光を増した。だが魔核持ちは待たない。地面を蹴り、巨体が跳ぶ。狙いは中央──術式の要。
「散開!」
カイの叫び。
魔導兵たちが跳ぶ。だが一人、足が遅れた。
爪が落ちる。
空気が裂ける速さ。誰も間に合わない、はずだった。
レオンハルトが動いた。
考えたのではない。体が先に出た。
刃を抜く音が、また澄む。
落下点へ入り、爪の軌道の“先”に刃を置く。
硬い。
震えが手首から肩へ返る。だが通る場所はある。
骨板の継ぎ目。そこを縫う。
爪の軌道が僅かに逸れ、魔導兵が転がって生き延びた。
──生きた。
だが、魔核持ちは止まらない。
怒りではない圧が増し、空気が濁る。術式が噛み合わない。拘束がほどける。
「拘束が──効かない!」
焦りの声。
リヒトは馬上で動かない。ただ一点──レオンハルトの剣の軌跡だけを見ている。
巨体が踏み込み、尾が横薙ぎに来た。木の幹が裂ける。直撃すれば人は形を保てない。
レオンハルトは退かない。
半歩だけ入って、尾の根元へ刃を走らせる。深くは入らない。入れない。だが切り込みは入った。動きが一瞬鈍る。
その一瞬で足を狙う。
前脚の関節。腱を断つ。
巨体が僅かに沈む。沈んだ瞬間、胸郭の下端が開く。
そこだ。
剣先を滑り込ませる。筋肉が刃を挟みに来る。
抜かない。捻って広げる。抵抗が跳ね返る。
痛みが肩口に走った。爪が掠め、血が滲む。
それでも押す。押し切る。
熱があった。魔力の中心。魔核。
──届く。
レオンハルトは支点を壊すため、反対の腱を深く断つ。
体勢が崩れた瞬間、剣先が熱の中心へ吸い込まれていく。
届いた。
音ではなく、内側で何かが割れる感覚。
魔核持ちの動きが止まり、遅れて崩れる。
巨体が泥へ沈んだ。
森が一拍遅れて静かになった。
血と泥と、焦げた魔力の匂いが冷気に押し潰されるように薄まっていく。折れた枝の先で雪が崩れ、どこかで鎧の留め具が擦れる音がした。戦いの最中には掻き消されていた小さな音が、今はやけに鮮明で──それがかえって現実を突きつけてくる。
死んでいる。
生きている。
その差が、たった今の剣の軌跡一本で決まったのだと理解させられる。
レオンハルトは剣を下ろした。肩の裂傷が熱い。呼吸が少し遅れて荒くなる。
なのに──身体の奥が、奇妙に軽い。
見回せば、視線が集まっていた。
魔導兵の硬い目。
歩兵の呆然とした目。
助かった魔導兵の、信じられないものを見る目。
その熱が、肌に触れる気さえする。
そこで初めて、レオンハルトは“理解”した。
俺は──強い。
努力が報われた、などという甘い言葉ではない。
これは事実だ。数字のように動かない事実。自分が積み上げたものが、今この場で、時代の正解をねじ曲げた。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
次の瞬間、縮んだものが一気に膨らむ。
熱い。甘い。痺れる。
──見ろ。
──もっと、俺を見ろ。
──俺を尊敬しろ。
その叫びは声にはならない。
出せない。出した瞬間、何かが壊れると直感が言っている。
だから代わりに、別のものが生まれた。
“完璧な英雄”という仮面だ。
尊敬されたいなら、尊敬にふさわしい振る舞いをしろ。
弱さを見せるな。焦りを見せるな。勝利に酔うな。
冷静で、余裕で、誰よりも正しく、誰よりも頼れる──そんな存在を演じろ。
レオンハルトはゆっくり息を整え、剣を鞘に収めた。その動作ひとつで、視線の温度がさらに上がるのが分かった。
リヒトが馬上から言った。
「名は」
「──レオンハルト・グランディオール」
名を口にした瞬間、空気が揺れる。
元王族。その烙印すら、今は“物語”になる。
カイが呆れたように笑い、しかし目だけは真剣だった。
「……いや、剣で魔核って。嘘だろ」
レオンハルトは何も言わない、
ただ、この偉業を偉業とも思わない、英雄の表情で睥睨する。
しかし、内心では別の声が暴れている。
──嘘じゃない。
──見たか。見ただろ。
──俺を尊敬しろ。もっと俺を尊敬しろ!!
だがそれを外に漏らさない。
漏らせば“理想”が崩れる。理想が崩れれば、尊敬が遠のく。
レオンハルトは自分の肩の血を布で押さえ、わずかに笑った。笑みは浅い。余裕の演出。痛みなど意に介さない演出。
「俺はいい。負傷者を優先しろ」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。
命令ではない。提案の形。しかし誰も逆らわない。逆らえない。今この瞬間、空気の軸が自分へ寄っているのが分かる。
助けられた槍兵が、泥の上に尻もちをついたままこちらを見ていた。
口が動く。声にならない。
──ありがとう。
その目が、祈りに変わる一歩手前の危うさを孕んでいるのを、レオンハルトは見逃さなかった。
見逃さず──気持ちいい、と感じてしまった。
胸が甘く熱くなる。
──いい。
──たまらん。
──もっとだ。その目をもっとくれ。
英雄を演じれば、尊敬が集まる。
尊敬が集まれば、名声が膨らむ。
もはや抑えられない。
演じなければ。
どんな時でも──完璧な英雄を。
尊敬されるために。
レオンハルトは視線を前に戻し、静かに歩き出した。背中に集まる視線が、これから先も増え続ける予感がした。
それが、少しだけ怖くて。
同時に、たまらなく心地よかった──。