没落王族は鍛えあげた剣で名声を欲しいままにするつもりだったのに何か思ってたのと違う 作:×××
北方防衛戦線の朝は、光より先に匂いが来る。
凍った土の冷気に混ざって、この周辺に生息する魔獣特有の甘ったるい臭気が、鼻の奥に薄く貼りついたまま離れない。雪は昨夜のうちに薄く積もったが、踏み固められた獣道にはすぐ黒い地肌が覗き、そこへ泥が滲む。白と黒の境目が曖昧になった足元は、まるで最初から世界がこういう色だったかのように見せかける。
前哨基地の会議室――木板の壁に地図が釘で留められ、卓上には石の重しと、濡れた指で擦ればにじむ墨の印。魔導具の灯りが淡く揺れていた。
第三魔導兵団第七中隊長、リヒト・ヴァイスハルトは地図の一点を指先で叩く。乾いた音が、余計に室内の静けさを際立たせる。
「斥候からの報告だ。ここ、窪地の縁。瘴泥の湧きが濃い。吸収型の兆候が出ている」
室内にいた者は、皆それが何を意味するか知っていた。
“吸収型”。魔力を喰う個体。術式を削り、火力を薄め、詠唱の呼吸を乱し、魔導兵の優位を最も直接的に奪う厄介な相手。
とはいえ、対処法は確立されている。
まず、魔導兵が低位階の氷魔法を「薄膜だけ」当て、表層を一瞬で締めて氷結させる。凍らせるのは内部ではない。外皮の呼吸を止める程度、ほんの一拍。
次に、歩兵が削り具で“剥離”する。刃物で削るのではなく、引っかけて割る。鉄爪のスクレイパー、あるいは鎚。凍った瘴泥は脆い。砕けて剥がれ、裂け目が露出する。
最後に、露出した一点へ位階魔法を通す。吸収型は「魔法が効かない」のではない。「当てる穴が少ない」だけだ。穴を作る役が歩兵である以上、その消耗が大きいのもまた変わらない。
「想定通りなら、歩兵側の損耗は大きいだろう」
リヒトの声は平板だった。事実を事実として出すだけの声。卓の向こう側で、淡い水色の髪の少女が椅子の背にもたれたまま目を細める。
ミラ・アストレア。
第三魔導兵団特別戦術指揮官――この戦線の空気そのものを変える権限を持つ魔法と戦術の鬼才。
「曖昧な言い方ね。削り役は必須。なら、減る数を何人まで許容するのか、具体的な数字で言うべきでしょ?」
冷たい。正しい。だからこそ刺さる。
誰も反論しない。反論できない。他を寄せ付けぬ正論の前では、感情論はただのノイズだ。
だがミラはそこで一瞬だけ――本当に一瞬だけ、まぶたの動きが鈍った。
数字を積み上げる言葉の合間に、息が僅かに詰まる。見逃せる程度の変化。見逃しても困らない程度の揺れ。けれど会議室にいた者のうち、最も観察が鋭い者――リヒトだけは気づく。
ミラ自身が、その“揺れ”を最も嫌った。
「……まあいいわ。結論は同じ。外皮表層の氷結を優先。氷は薄く、短く。裂け目が開いた瞬間だけ第二位階を通す。術式を崩さないで」
彼女の指先が地図の縁を軽く撫でた。爪が木に触れる音が、乾いている。
「それと――当然だけど、高位階の魔法は禁止よ。強力な魔獣を呼び寄せてしまうから」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が一段だけ重くなる。北方戦線では、誰もが知っている周知の事実だった。
強い魔法ほど“魔力波”は大きくなる。
魔法は術式で整えられた現象だが、発動の瞬間に周囲へ揺らぎが走る。水面に石を投げたときの波紋に似ている。低位階なら波は小さく、雪の夜の吐息のようにすぐに散る。
だが、高位階は違う。波は遠くまで届く。谷を越え、林を越え、見えない場所へまで“ここに餌がある”と知らせてしまう。
魔獣にとって大きな魔力は獲物の気配であり、挑発でもある。寄って来るのは雑魚ではない。その波を感じ、“獲物”と認識する個体だ。勝っても、その次の戦で死ぬ――この前線では決して珍しくない。
ミラは続けた。
「ただ、周辺の泥の動きが気になる。斥候の言い方が曖昧。……嫌な予感がする」
リヒトが短く頷く。
「カイ。制圧用の術式も準備させろ。万一の時は一点撃ちを諦める」
「了解。……嫌な予感って、だいたい当たるんだよなぁ」
軽口に、誰も笑わない。笑えない。
冗談の形を取った“確認”だと、皆が分かっている。
作戦は決まった。
決まってしまえば、会議室の空気は淡々と流れ出す。誰もが“正解”の型通りに動く。どれほど正しく整えても、戦場は人の命を取り立てる場所だと、皆が分かっている。
ミラは椅子から立ち上がり、扉へ向かった。
◇
会議室の外。
歩兵用の詰所は、薪の煙と汗の酸い匂いが混ざっている。徴兵された補充兵たちは鎧の留め具を直し、凍えた指先で皮紐を結び直し、槍の穂先を布で拭う。削り具――鉄爪のスクレイパーや鎚も、油布で丁寧に磨かれていた。刃を立てて削る道具ではない。引っかけ、割り、剥がすための道具だ。生き残りたければ、その“違い”を理解するしかない。
レオンハルト・グランディオールは列の端にいた。
黒基調の支給鎧は擦り切れている。外套も兵士たちと同じ規格品で、肩に雪が溶けた跡が斑に残る。金髪は泥と汗で束になりやすく、赤い瞳は光を受けると冷たく見える。
そのとき、同じ歩兵の会話が聞こえてきた。
「……今日は吸収型だってよ」
「この辺で吸収型となると、十中八九『瘴泥熊』だろう。……最悪だ」
「氷で薄く固めて剥がして、裂け目に二位階魔法……手順は分かってる。でも結局、前に出るのは俺らだ」
誰もが分かっている。
魔力適性のない歩兵が、この戦線で“壁役”としてしか役に立たないことを。役に立つとすれば、死ぬ順番を変える程度の意味しか持たない。だから皆、喉の奥に沈黙を溜めてただ準備を繰り返す。
現実から目を背けるために。
――吸収型? 結構。
皆が苦戦するなら、そのぶんより一層輝ける。そんな妄想が跳ね、跳ねた瞬間、自分で自分を叱る。
――違う、今は“英雄”の顔を作れ。
英雄とはこういう時毅然とすべきだ。
皆が不安に飲み込まれているときこそ、いつも通りと変わらない姿を見せる。
誰も死なせないと言える男。怯えるなと言える男。隊全体の生存率を上げる男。
そういう男に見られたい。尊敬されたい。
その欲望が、胸の底で熱を増していく。
◇
窪地に近づくほど、足元は柔らかくなる。
雪の白は薄まり、代わりに黒褐色の泥が広がる。風が吹くたびに甘い腐臭が濃くなり、喉の奥に薄膜が貼りつくようだった。
瘴泥熊は、現れ方だけはいつも同じだ。
最初に“重さ”が来る。地面の奥がうねり、沈んだ泥が持ち上がる。次に“匂い”が来る。腐泥が温い息として吐き出される。最後に“形”が来る。泥の山が立ち上がり、熊の輪郭を取り、そして――巨体が息をする。
「ガァァアアアアアッ!!!」
外皮は泥そのもの。
魔力が触れれば薄くなる。薄くなった場所はすぐに埋まり、埋まった瞬間にはもう吸収の膜が戻っている。
「氷結!!」
号令が落ちる。
魔導兵が詠唱を短く切り、薄い氷の帯を瘴泥熊の前肢へ走らせた。凍結は一瞬。表層だけが硬化し、泥の呼吸が止まる。
その瞬間、歩兵が前へ出る。削るのではない。剥がす。
鉄爪のスクレイパーを引っかけ、凍結した瘴泥を割り、裂け目を作る。砕けた泥片が飛ぶ。飛んだ泥片が頬を打つ。痛い。冷たい。生きている証拠が皮膚に残る。
「裂け目出たぞ!」
「魔法頼む!」
淡い光が一点に刺さる。
術式は“貫通”の形を取り、瘴泥熊の外皮の内側へ熱を置く。泥が一拍だけ痩せ、骨板の継ぎ目が覗いた。
――効く。
誰もがそう確信した、その時だった。
窪地の縁。泥が“泡立つ”ように膨れ上がり、小さな影が、ひとつ、ふたつ、ではなかった。
十。二十。さらに増える。
泥が盛り上がるたび、四足が生まれ、口が裂け、眼点が灯る。犬にも子熊にも見える歪な形。だが数が並んだ瞬間、それは“群れ”としての輪郭を持ち始めた。
「……泥仔(でいし)!?」
「数が多すぎる!」
泥仔は小さい。小さいからこそ厄介だ。
低く、速く、足場を選ばない。泥の上を滑るように走り、泥の中からも飛び出す。噛みつくための口だけが必要以上に大きく、顎の内側には黒い棘が並ぶ。噛まれれば肉が裂ける。引きちぎられる。
そして狙いが明確だった。
魔導兵。
術式板に飛びかかり、足元に絡みつき、詠唱の呼吸を乱し、集中を断つ。盾役の歩兵を迂回する。守りの線ではなく、術式そのものを汚す。
魔導兵の隊列が揺れる。
一点撃ちの瞬間が作れない。作れないまま時間だけが過ぎれば、剥離役が剥がされる。前に出た者から死んでいくという現実が、ここで加速する。
それでも、ミラの声が落ちる。
冷たく、迷いなく。
「一点撃ちを中断。制圧へ切り替え。まずは泥仔の対処を優先しなさい」
魔導兵の周囲に術式の輪が幾重にも展開した。
泥仔を押し返し、凍らせ、縛り、焼き、流れを止める。――低位階で、数を潰すための正しい選択。
だがそれは同時に、瘴泥熊への決定打を捨てるということだった。
瘴泥熊が不気味に睥睨する。
まるで理解しているかのごとく。
今、この場に自分を止められる者などいない。
剥離役の歩兵が押し戻される。泥が重い。吸い込まれる。足が抜けない。
誰も口には出さない。だが、誰もが理解していた。
──ここで、死ぬのだと。
その瞬間の空気は、冷たく粘ついていた。
レオンハルトはゆっくり息を吸う。
肺の奥が熱を持つ。
そして、心の内側で醜い本音が笑い始める。
――来た、来た、来た、来た。
――ここだ。
――今前に出れば、皆が俺を見る!!
口角が上がりそうになる。
胸の奥で笑いが弾けそうになる。
――駄目だ。
彼はその笑いを喉の奥で折り畳んだ。
完璧な英雄でなければならない。
レオンハルトは一歩前へ出る。
彼の実戦経験は乏しい。
であるにも関わらず、自然と身体が最適解をたたき出す。──常軌を逸する剣の才。
剣を振り続けた日々が「形」を得ていく。
あまりに自然で、あまりに滑らかで、周囲はそこに“練習の痕”を見つけられない。気づけば、視線が彼へ寄る。戦場の中心が、勝手に彼へ寄ってくる。
「瘴泥熊は私に任せろ。──残りは頼んだぞ」
レオンハルトは声を張った。
凍える空気に、よく通る声で。
命令ではない。託す言葉。
誰かの心に「自分も戦える」と錯覚を渡す、英雄の言い方。
歩兵たちの目が一斉に彼へ吸い寄せられる。魔導兵の視線も一瞬だけ止まる。ミラの瞳が僅かに動いた。冷たい翡翠色の奥で、理解が走る。
――この瞬間だけは、これが最適解になる。
誰かが叫ぶ。
「うおぉぉおおおおおッ!!!」
「ここは死んでも通さねぇッ!!」
「泥仔を押し返せ! 術式を通す場を作れ!」
士気が熱として立ち上がる。
英雄に頼まれた。英雄に託された。
それが恐怖から目を背けさせる。――人は一歩を踏み出せる。
レオンハルトは、その爆発を背中で受け取った。
――いい。
――俺の言葉で、空気が動いた。
――たまらん。
ニヤけるな。
彼は唇の内側を噛み、表情を固定したまま、瘴泥熊へ向き直る。
「――さて」
瞬間、レオンハルトの意識が塗り変わる。
感情という雑音が剥がれ落ちる。
残る思考はただひとつ――目の前の強大な敵を倒すことのみ。
瘴泥熊が吠えた。
声というより、泥の奥で岩が擦れるような低音。
空気が震え、耳の奥が痛む。
突如として加速。その勢いのままに右前腕の無慈悲に振り下ろした。
レオンハルトはその場から半歩身を引き、最小限の動きで躱す。
瘴泥熊もう一度吠え、怒りを吐き出した。
──乱撃。
縦。
前肢が叩き落ちる。泥の槌が地面を割り、跳ね上がった泥が刃のように飛ぶ。跳ねただけで頬が裂ける。
横。
巨体が腕を薙ぐ。泥の壁が押し潰す。正面から防ぐことはできない。剣ごと持っていかれる。
踏み。
巨体が一歩踏み込むだけで、足場が波になる。体勢が崩れたところへ、もう一度、縦。
当たれば全てが致命傷。
重く速い。そして狙いが正確だ。獣の乱暴さではない。──明らかに知性がある。
だが、その乱撃の中心で、レオンハルトだけが“紙一重”を積み上げていた。
攻撃の「重さ」が乗り切る前に、攻撃の「芯」から半歩だけ外れる。その半歩が一縷の狂いもない。
泥の槌が落ちた瞬間、彼そこにいない。
泥の壁が来た瞬間、彼はそこにいない。
踏み込みで足場が崩れた瞬間、彼は崩れた“先”へ移っている。まるで、未来が見えているように。
その光景を見ていた者全てが思う。
――実戦が乏しいなんて有り得ない。
周囲の誰かが喉を鳴らした。
泥仔と戦っていた歩兵が、ふと手を止めかける。止めれば死ぬのに、目が奪われる。
無駄がない。無駄がないから、目が追いつけない。追いつけないのに、動きの“意味”だけは刺さる。――実用一点の線が、見る者に美しいと思わせる。
剣が走る。
振り回さない。飾らない。ただ――速く。
剣速が速すぎる。
金属音が鳴る前に、斬撃の風だけが先に来る。
瘴泥が再生しようと盛り上がる。しかし、その“盛り上がり”が形になる前に、次の刃が落ちる。盛り上がりは盛り上がりのまま崩され、崩されることで再生の流れを失う。
結果として、外皮は「戻りきれない」まま削れていく。
――追いついていない。
瘴泥熊の再生が、剣に追いついていない。
レオンハルトは同じ場所へ、刹那に幾つもの斬撃を叩き込む。一太刀で斬るのではない。連撃で“瘴泥だけ”を剥がす。
刃が当たるたび、泥が薄く跳ねる。跳ねた泥片が風に散る前に、また次が入る。
裂け目が開き、開いた裂け目を閉じようと泥が寄る。寄った瞬間、刃が縁を削り直す。
閉じられない。閉じさせない。
熊の攻撃がさらに荒れる。腕が振り下ろされる。横薙ぎが来る。踏み込みが来る。
レオンハルトは、その全てを“致命の一歩手前”で処理し続ける。
躱し、斬り、また躱し、また斬る。
恐ろしいほど精密に。
それはもはや異様な光景だった。
同じ支給鎧。同じ泥。
なのに、あの男だけ、世界の速度が違う。
――この人なら、何かを変えてくれるかもしれない。
そう思ってしまうのは、戦場が人の心を簡単に壊すからだろうか。
壊れた心は縋るものを探す。縋るものを見つけた瞬間、そこに意味を見出してしまう。
瘴泥熊が、苛立つように吠えた。
泥が厚く盛り上がり、外皮が甲冑のように硬化する。吸収し、再生し、魔力を喰い、泥で自分を塗り替える。
だが循環が回らない。回す前に斬られる。膨らむ前に落とされる。戻る前に裂かれる。
普段の彼であれば、皆が見ていることで顔が緩みそうになるのを、必死に耐えていたことだろう。
だが、表情は動かない。
今の彼の目に映るのは瘴泥熊のみ。
どう倒すか。その思考だけが、冷え切った刃のように脳内を占めていた。
瘴泥熊が突進してくる。泥が波になる。地面が揺れ、腐臭が濃くなる。
レオンハルトは退いた。退いたのは逃げではない。刃を通す“幅”を作るためだ。
瘴泥熊の腕が落ちる。落ちる瞬間――レオンハルトは一気に距離を詰め、胸を斬り裂いた。
刃先が、泥の膜の“境目”だけを裂き、同じ一点へさらに重ねる。
連撃。連撃。連撃。
瘴泥が剥がれ、剥がれた分だけ骨板の継ぎ目が覗く。覗いた瞬間、熊が身体を引く。引く前に、もう一度。
剣速が、再生に勝ち続ける。
裂け目が開いた。
開いた裂け目の奥で、赤黒い光が脈打つ。
魔核。──瘴泥熊の心臓。
ミラの視線が、その一瞬を捉える。
彼女は冷静に理解する。
この男は、魔導兵の一点撃ちを“剣”で代替している。たった一人で全てが完結している。
嫌悪ではない。苛立ちでもない。
ただ、理解してしまう。理解してしまったことが、胸の奥を僅かに痛ませる。
――あれは、再現できない。
――剣という技術の枠に収まるものではない。
型も理屈も、駆け引きすらも置き去りにして、ただ「結果」だけをこちらへ叩きつけてくる。
手元の動きは簡素に見えるのに、次の瞬間には距離も角度も意味を失っている。
レオンハルトの赤い瞳が細くなる。
その瞳には何の感情も滲んでいない。
熊の乱撃が止む。止んだのではない。止められたのだ。レオンハルトは、攻撃の間隙を“待たない”。間隙を作る。
最後の一撃は、派手さはなかった。
ただ冷徹、冷酷に。
無慈悲な刺突。──剣が、魔核を貫いた。
次の瞬間、瘴泥熊の巨体が、ぐらりと沈む。
泥が溶け落ち、山が崩れるように地面へ落ちる。窪地が揺れ、腐った泥が跳ね上がる。
泥仔が形を失い崩れ去った。
静寂が一拍遅れて落ちた。
人間の理解が、現実に追いつくまでの間。――信じられない、という無音。そして、
「……倒した……のか?」
誰かの声が震える。
次の瞬間、その震えが連鎖した。
「倒した!! 倒したぞ!!」
「瘴泥熊が落ちた!!」
「生きてるぞ、俺たち生きてる!!」
爆発したのは勝利の叫び。
凍えていた肺が一斉に空気を吸い込み、息が声になって噴き上がる。泥仔と戦っていた歩兵が拳を振り上げる。魔導兵が術式を解きながら思わず叫ぶ。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが膝から崩れ落ちる。
それら全部が、一人の背中へ向かって収束していく。
レオンハルトは、その中心に立っていた。
剣を引き抜き、血も泥も最小限に払う。呼吸を乱さない。表情を崩さない。──崩したい。
内心では、今すぐ笑い転げたい。
――見たか! 見たか! 見たか!
──アーハッハッハッハッ!
――尊敬しろ!! 俺を尊敬しろッ!!
だが英雄はそれを外に出さない。
完璧な英雄は、ここで“勝利に酔う”のではなく、“次の命”を拾う。
レオンハルトは振り返り、よく通る声で言った。
「負傷者を下げろ。隊列を崩すな。……皆、よく耐えた」
称える言葉。救われた者が最も欲しい言葉。
その言葉が落ちた瞬間、歓声はさらに強くなる。
レオンハルトは歓声を浴びながら、胸の奥で笑った。
笑いは外へ漏らさない。漏らさないまま、熱だけが増えていく。
泥の匂いがまだ残る。
遠くで地面が鈍くざわめき、次の戦闘が“近い”と告げていた。それを、彼は恐怖ではなく――舞台の続きとして受け取ってしまう。
──たまらねぇッ!!
──最高だッ!!
その歓声の裏で、泥と血の匂いを纏った報告書が一枚――封蝋を押され、北の前哨から王都へ向けて静かに走り出していた。
彼はまだ知らない。
今この歓声が、ただの賞賛では終わらず――誰かの人生の軸になっていくことを。
そしてそれが、やがて彼の胃を静かに締めつけ始めることを。