「愛している」——その言葉と共に、母の刃が私を貫いた。

過保護な母に命を奪われた絵里が転生したのは、乙女ゲームのような異世界。伯爵家の令嬢エリスとして第二の人生を歩み始めた彼女を待っていたのは、お約束の婚約破棄だった。

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温度差

 ◆

 

 三枝絵里の記憶のなかで母はいつも笑っていた。

 

「絵里は私がいないと何もできないでしょう」

 

 台所でリビングで玄関先で。母の声は蜜のように甘く、絡みつくように耳に残った。友人との約束は母がキャンセルした。進路相談には母が同席し、教師より先に口を開いた。絵里のスマートフォンには監視アプリがインストールされていて、すべての通話履歴とメッセージが筒抜けになっていた。

 

 二十三歳になったとき、絵里は初めて母に逆らった。

 

「一人暮らしをしたいの」

 

 母の顔から表情が消えた。それまで見たことのない空白が母の目に広がっていく。

 

「どうして」

 

「もう大人だから」

 

「私の何が不満なの」

 

「そういうことじゃ——」

 

「私はあなたのためにすべてを捧げてきたのに」

 

 母は台所に立っていた。夕食の支度をしながら話を聞いていたのだ。絵里が不動産屋のパンフレットをテーブルに置いた瞬間、母の手が止まった。

 

 包丁を握ったまま振り返った母の目が絵里の知らない色に染まっている。

 

「絵里」

 

「お母さん、落ち着いて」

 

「あなたは私のものよ」

 

 刃物が光を弾いたことだけを覚えている。痛みはなかった。ただ体温が急速に失われていく感覚と床に崩れ落ちる自分の体をどこか遠くから眺めている意識だけがあった。

 

 母が泣き叫んでいた。絵里の名を呼び、血に濡れた手で頬を撫でている。

 

 愛している

 

 愛している

 

 愛している

 

 愛している

 

 何度も何度も響く母の声。

 

 意識を失う前、絵里は思った。

 

 ──だったらなんで、わたしを殺すの。

 

 と。

 

 ・

 ・

 ・

 

 目の前に座る男の唇がさきほどからパクパクと動いている。音は聞こえているが意味として脳に届かない。まるで質の悪いラジオから流れるノイズのようだ。絵里──いや、エリスは目の前の男、ルイ・ヴァイトン伯爵令息の額に滲む汗をぼんやりと見つめていた。

 

「ですから、エリス嬢。僕は真実の愛を見つけたのです」

 

 ルイはハンカチで額を拭う。上質なリネンだが使い込まれて少し毛羽立っているのが見えた。彼の手が小刻みに震えている。

 

「相手は男爵家のミナです。彼女は身分こそ低いが僕の魂を理解してくれる唯一の女性だ」

 

 魂、という言葉が出た瞬間にエリスの意識は急速に冷めた。熱い紅茶を一気に飲み干したあとのように、胃の腑に重たいものが落ちる。

 

 前世の記憶が蘇ったのは五歳のときだった。高熱にうなされ、目覚めた瞬間に現代日本で生きた数十年分の記憶が雪崩れ込んできたのだ。自分が乙女ゲーム、あるいはそれに類する物語の世界に転生したのだと悟るのに時間はかからなかった。

 

 鏡に映る自分は色素の薄い金髪に冷ややかな青い瞳を持っていた。いかにも高慢な悪役令嬢といった風情だ。

 

「……そうですか」

 

 エリスは短く答えた。声を荒らげることも、涙を流すこともない。ただ事実を確認するように頷く。

 

「婚約を破棄したいと」

 

「そうだ。君には申し訳ないと思っている。だが愛のない結婚は互いを不幸にするだけだ」

 

 ルイの視線が泳いでいる。彼はエリスを見ているようで見ていない。自分の劇的な決断に酔っているだけだ。

 

 エリスの立場は複雑だった。この国の名門、アルバーン伯爵家の長女でありながら、母親は第二夫人である。父である伯爵には正妻がいたが子宝に恵まれず、跡継ぎを確保するためにエリスの母が迎えられた。

 

 しかし皮肉なことに、エリスが生まれた翌年、正妻にも娘が生まれた。妹のクララだ。

 

 正妻の娘と側室の娘。年齢はエリスが上だが血統の正当性はクララにある。父はその歪なバランスを調整することを放棄した。家庭内には常に薄い氷の上を歩くような緊張感が漂い、母は早々に父への愛情を捨てて自室に引き籠るようになった。

 

 エリスは虐げられていたわけではない。衣食住は保証され、教育も受けた。だがそこには常に「義務」という二文字が張り付いていた。父がエリスに向ける視線は在庫商品を眺める倉庫管理人のそれに似ていた。

 

「わかりました。ルイ様のお気持ちは」

 

 エリスはカップをソーサーに戻す。カチャリ、と硬質な音が室内に響いた。

 

「父にお伝えします」

 

「あ、ああ。僕からも、ヴァイトン伯爵家を通じて正式に申し入れるつもりだ」

 

 ルイは逃げるように去っていった。

 

 ◆

 

 その夜、エリスは自室で読書をしながら昼間の事を考えていた。

 

 婚約破棄。

 

 言葉としては理解できる。だが現実感が伴わない。テンプレートどおりの展開だと頭では分かっていても、いざ当事者になってみると奇妙な浮遊感に囚われる。

 

 侍女のミーシャが扉を開けた。

 

「エリス様、旦那様がお呼びです」

 

 父の書斎は屋敷の東棟にあった。重厚な樫の扉を叩き、入室の許可を得て中に入る。

 

 アルバーン伯爵──ヴィクトル・アルバーンは執務机の向こう側に座っていた。痩せぎすの、鋭いナイフを思わせる男だ。銀縁の眼鏡越しに書類を睨みつけていた視線がエリスの姿を認めて上がる。

 

「座れ」

 

 促されるまま、執務机の前に置かれた椅子に腰を下ろした。革張りの座面が軋む音がやけに大きく響く。

 

「ヴァイトン家の使いから話を聞いた」

 

「左様でございますか」

 

「お前からも聞かせろ」

 

 エリスは淡々と経緯を説明した。男爵家の令嬢に心を奪われたこと婚約の継続は難しいと告げられたことその場で承諾も拒否もせずに退席したこと。父は眼鏡を外し、こめかみを指で押さえながら聞いていた。

 

「あの愚か者が」

 

 吐き捨てるような声だった。

 

「しかしながら、相手方の主張にも一理はございます。愛のない結婚は互いを不幸にする、と」

 

「誰がそのような戯言を」

 

「ルイ様ご本人です」

 

 父の眉間に深い皺が刻まれる。書類を脇に寄せ、両手を組んで机の上に置いた。

 

「エリス。これは貴族社会における契約の問題だ。愛だの魂だのという戯言とは次元が違う」

 

「私もそのように認識しております」

 

「ならば良い。こちらで対処する」

 

「対処、とは」

 

「婚約を解消すること自体は双方の合意があれば可能だ。だが筋の通し方というものがある。ヴァイトン伯爵家には相応の手続きを踏んでもらう。場合によっては補償も求める」

 

 エリスは目を瞬いた。予想外の言葉だった。

 

「そこまでなさる必要は」

 

「何故だ」

 

「私の不徳の致すところでございます。ルイ様のお心を繋ぎとめられなかったのはひとえに私の——」

 

「黙れ」

 

 父の声が鋭く遮った。

 

「二度とそのようなことを口にするな」

 

「しかし」

 

「お前に非はない。婚約を一方的に破棄しておきながら、その責を相手方に押し付けるなど恥知らずにも程がある。もう一度言う。お前は何ひとつ、悪い事などしていない」

 

 父は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。背中越しに続ける。

 

「ヴァイトンの倅は自分が何をしているか理解していない。貴族家同士の婚約は当事者だけの問題ではない。両家の名誉と信用がかかっている」

 

「……はい」

 

「アルバーン伯爵家の令嬢として、お前は何も恥じることはない。これは儂が責任を持って処理する」

 

 エリスは深く頭を下げた。父の背中は相変わらず遠い。だがいつもと何かが違う気がした。

 

 ◆

 

 その日の夕食は奇妙な空気に包まれていた。

 

 アルバーン家の食卓は長い楕円形のテーブルを囲む形で設えられている。上座に父、その右手に第一夫人のカザリア、左手に第二夫人のサリサ。エリスとクララは母親の隣にそれぞれ座る。

 

「エリスさん」

 

 カザリアがそう声をかけてきたのは前菜のスープが運ばれてきた直後だった。

 

 エリスは顔を上げた。カザリアは四十を過ぎてなお美しい女性だった。亜麻色の髪を優雅に結い上げ、深緑のドレスが白い肌によく映えている。

 

「大変でしたわね」

 

 その声に棘はなかった。慈しむような、あるいは労うような響きがあった。

 

「お気遣いありがとうございます、カザリア様」

 

「あのような不誠実な方との縁が切れて、むしろ良かったのかもしれませんわ」

 

 スプーンを置き、カザリアは柔らかく微笑んだ。

 

「もっと素敵な殿方がきっと現れますから」

 

 エリスはどう反応すべきか分からず、曖昧に頷くことしかできなかった。第一夫人からこのような言葉をかけられるとは予想していなかったのだ。乙女ゲームの定番であれば、継母は主人公を虐げる存在であるはずだった。

 

「お姉様」

 

 クララが口を開いた。普段は控えめな妹が珍しく声を荒らげている。

 

「あのルイという方、本当に失礼ですわ」

 

「クララ」

 

「だって、そうではありませんか。真実の愛などと。お姉様を何だと思っているのかしら」

 

 クララの頬が紅潮している。銀のスプーンを握る手に力がこもっているのが見えた。

 

「落ち着きなさい、クララ」

 

 カザリアが優しく諫める。クララは唇を噛み、それでも不満げな表情を崩さなかった。

 

「エリス」

 

 今度は母、サリサが声をかけた。サリサは普段、食卓でほとんど口を開かない。政略結婚で嫁いできてから十数年、この家での自分の立場を弁えているかのように、いつも控えめに振る舞っていた。

 

「無理はしていない?」

 

「はい、母様」

 

「そう。何かあったら言うのよ」

 

 サリサの目には心配の色が滲んでいた。細い指がテーブルクロスの端を握っている。

 

 エリスは不思議な気持ちで家族の様子を眺めていた。

 

 物語の定番であれば、婚約破棄の報せを受けた家族は主人公を責めるか、あるいは無関心であるはずだった。「お前に魅力がないからだ」「恥を晒した」「勘当だ」——そういった展開をどこかで予想していたのかもしれない。

 

 だが現実は違った。

 

 父は法的対応を約束し、義母は労いの言葉をかけ、実母は心配し、妹は怒っている。

 

 テンプレートが崩れていく。

 

 エリスは黙ってスープを口に運んだ。生クリームの濃厚な風味が舌の上で溶けていく。不思議と味がした。

 

 ◆

 

 寝支度を終え、部屋に戻ろうとしたとき、侍女のミーシャが廊下で待っていた。

 

「エリス様、旦那様がお呼びです」

 

「父が?」

 

「はい。書斎にて」

 

 日に二度も父の書斎に呼ばれるのは初めてのことだった。エリスはガウンの襟を整え、再び東棟へと足を向けた。

 

 書斎の扉を叩くとくぐもった声で入室を促された。中に入ると父は暖炉の前に置かれた肘掛け椅子に座っていた。手には琥珀色の液体が入ったグラス。炎に照らされた横顔が昼間とはまた違う表情を浮かべている。

 

「座れ」

 

 向かい合うようにもうひとつの椅子が置かれていた。促されるまま腰を下ろすと暖炉の熱気が頬を撫でた。

 

「昼間の件だが」

 

 父は炎を見つめたまま続けた。

 

「何か、思うところはあるか」

 

「思うところ、とは」

 

「婚約が破棄されたことについてだ。悔しいとか、悲しいとか。食事の際、少し引っかかってな」

 

 エリスは言葉を探した。嘘をつくべきか、正直に答えるべきか。父の横顔からは意図が読み取れない。

 

「正直に申し上げてもよろしいでしょうか」

 

「構わん」

 

「特に、何も感じておりません」

 

 父の眉がかすかに動いた。

 

「それはルイという男に関心がなかったからか」

 

「それもございます。ですがそれだけではなく」

 

 エリスは膝の上で手を組んだ。視線を落とし、自分の言葉を慎重に選ぶ。

 

「このようなことを申し上げるのは不敬かもしれませんが」

 

「良い。続けろ」

 

「私はこの家で自分が愛されているとは思っておりません」

 

 暖炉の薪が爆ぜる音がした。炎の影が壁に揺れている。

 

「クララと私への扱いの差は幼い頃から感じておりました。それを不満に思ったこともございます。ですがそれは仕方のないことだとも理解しております」

 

「仕方がない、とはどういう意味だ」

 

「私の母は第二夫人です。私にはクララのような正当性がございません。父様がクララを可愛がるのは当然のことでしょう」

 

 父はグラスを傾け、琥珀色の液体を一口含んだ。しばらく沈黙が続いた。

 

「確かに」

 

 やがて、父は口を開いた。

 

「儂はお前を愛しているとは言えん」

 

 予想どおりの言葉だった。だが不思議と胸は痛まなかった。

 

「お前の母、サリサとは文字通りの政略結婚だ。両家の利害が一致したから結ばれた。それ以上でもそれ以下でもない」

 

 父はグラスを膝の上に置いた。炎を見つめる横顔に、かすかな翳りがある。

 

「カザリアとは違う。あれとは愛し合った末に結婚した」

 

「存じております」

 

「お前にもそれは伝わっているだろう。儂がクララに向ける目とお前に向ける目が違うことは」

 

「はい」

 

「だが」

 

 父がこちらを向いた。暖炉の光に照らされた目が真っ直ぐにエリスを捉える。

 

「お前はこの家で誰かに虐げられたことがあるか」

 

 エリスは目を瞬いた。

 

「カザリアに冷遇されたか。クララに蔑まれたか。使用人に不当な扱いを受けたか」

 

 エリスは暫時思考を巡らせる。だが記憶のどこを漁っても、自身が虐げられたという記憶はなかった。クララとの扱いの差もない。ただ、向けられる目線の温度が違っていただけだ。

 

「いいえ」

 

「正直に答えろ」

 

「正直に申し上げております。そのようなことは一度もございませんでした」

 

 父は深く頷いた。グラスを暖炉の縁に置き、両手を膝の上で組む。

 

「儂はお前を愛しているとは言わん。だがお前はアルバーン伯爵家の娘だ。その事実は何があっても変わらん」

 

「お父様」

 

「貴族とはそういうものだ。血の繋がりがある以上、お前は儂の娘であり、この家の一員だ。その名誉を傷つける者がいれば、家として断固とした対応する。それが当主たる儂の責務だ」

 

 エリスは父の顔を見つめた。そこにはこれまで見たことのない、冷たさとも無関心さとも違う表情があった。

 

「ヴァイトンの件は筋を通させる。お前は自分を責める必要はない」

 

「……ありがとうございます」

 

「礼を言うことではない。当然のことをするだけだ」

 

 父は立ち上がり、窓辺へと歩いた。夜の庭園を見下ろす背中が暖炉の光に照らされて長い影を落としている。

 

「もう下がってよい」

 

「はい」

 

 エリスは椅子から立ち上がり、深く一礼した。扉に手をかけたとき、背後から声がかかる。

 

「エリス」

 

「はい」

 

「今後、お前の扱いに対して、公平さを欠くことがあれば言え」

 

「かしこまりました」

 

 書斎を出て、廊下を歩きながらエリスは考えていた。

 

 前世の記憶では家族とはもっと複雑でもっと息苦しいものだった。愛という名の鎖に縛られ、逃げ出そうとした途端に全てが終わった。

 

 この家には愛がない。少なくとも、父と自分の間には。

 

 だがそれは必ずしも不幸を意味するわけではないのかもしれない。義務と責任で結ばれた関係は愛という不確かなものより、むしろ堅固なのかもしれなかった。

 

 自室の扉を開け、寝台に腰を下ろす。窓の外には月が昇っている。

 

 テンプレートどおりの世界だと思っていた。婚約破棄をされ、追放され、復讐するか、あるいは新しい恋を見つける──そういう物語だと。

 

 だが現実は違った。

 

 枕に頭を預け、エリスは天蓋を見上げた。

 

 明日からのことを考える。法的な手続き、社交界での噂、そしてこの家での自分の立場。やるべきことは多い。

 

 だが不思議と重荷には感じなかった。

 

 目を閉じるとかつての母の泣き声が遠くで聞こえた気がした。愛している、愛している、愛している──

 

 あの愛は本物だったとエリスは、絵里は思う。ただ、形が歪んでいただけなのだ。それも、致命的に。

 

 どちらが幸せなのだろうか──エリスは考えていたが、答えを出す前に睡魔に屈する。眠りに落ちる直前、エリスはかすかに笑っていた。

 

(了)

 


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