“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~   作:こじまたり

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第1話 最前線の翌日

 目を開けたとき、空は見えなかった。

 

 まず視界に飛び込んできたのは、ぼろ布みたいな天幕の裏側だ。

 薄茶色に染まった布地を、いくつもの縄が引っぱっている。風が吹くたび、ぴん、と張った部分が震え、そこに染みついた汚れや煤がかすかに揺れた。

 

 鼻の奥には、乾いた血と汗と薬草を一緒くたに煮詰めたみたいな匂いがこびりついている。

 胸のあたりがひゅうひゅうと鳴って、喉は砂を詰められたみたいに乾いていた。

 

「……まだ、生きてるのか」

 

 かすれた声が、自分のものだと気づくまでに少し時間がかかった。

 

 生きているなら、どこかが痛いはずだ。

 そう思って、腕を持ち上げようとして――うまく動かず、しびれたような鈍さだけが肩から先に広がった。

 

 もう一度、今度はゆっくりと意識を込める。

 指が、重たい水の中でもがくみたいに、もそ、と動いた。五本ある。指は全部、ついている。

 

 右腕は、肩から肘、肘から手首へと触れていく。骨は折れていない。

 左腕も同じ。胸に手を当てて、押してみる。痛みはあるが、穴は開いていない。

 

 腹、腰、太もも。包帯は巻かれているが、肉が欠けた感触はない。

 脚先を意識すると、布のこすれる感触と、固い板の上に置かれている不安定な重みが伝わってきた。

 

「……運が、良すぎるな」

 

 ぽつりとこぼした途端、横腹のどこかがきしんで、しょうもない呻き声が漏れた。

 

 周りからは、もっとひどいうめき声が幾つも返ってきた。

 俺と同じように寝台に寝かされた兵たちの声だ。誰かが喉を鳴らし、誰かが呼び声を上げ、誰かは意味の分からない言葉で誰かの名を呼んでいる。

 

 目を少し動かすと、俺の寝ている板きれの左右にも、同じような寝台が並んでいた。

 片腕だけ布団からはみ出している奴。布の下が平らすぎて、足が残っていないと一目で分かる奴。

 顔中を包帯で覆われて、口の端からだけ弱々しく息を吐いている奴もいる。

 

 ここは、前線の野戦病院だ。いや、病院なんて立派なもんじゃない。ただの、戦場の端っこに建てられた、でかい傷病兵収容所。

 

「起きたか」

 

 すぐ隣の寝台から、くぐもった声がした。

 

 首をそちらに向ける。首の骨がぎし、ときしむ。

 そこにいたのは、見慣れた顔だった。

 

「……ラルス」

 

 俺が名前を呼ぶと、男は額に巻かれた包帯の下で薄く笑った。

 いつも眠たそうな目つきの、同じ分隊の槍兵だ。額から流れた血を押さえつけるみたいに、白い布がきつく縛られている。

 

「ヨルン。死んだかと思ったぞ」

「俺も、そう思ってた」

 

 喉の奥がうまく動かず、言葉がところどころ途切れた。

 ラルスから渡された木の水筒を受け取って、慎重に傾ける。

 

 冷たい水が舌に触れた瞬間、ひどく贅沢なものを飲んだ気がした。

 一口、二口。喉を湿らせる程度で止めて、息をつく。

 

「……最後、覚えてるか?」

「最後?」

 

 尋ね返してから、俺は眉をひそめた。

 

 覚えているのは、あの黒い城の輪郭と、燃え上がる空と、

 合図のラッパと、前へ進めと叫ぶ声と――

 

 そこから先の記憶は、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていて、うまく掴めない。

 

「突撃の合図が鳴って……誰かが『これで終わる』って叫んで……

 それから、光がひとつ見えた。で、真っ白。気がついたらここだ」

「まあ、そんなもんだろうな」

 

 ラルスは肩をすくめる。

 その動きにつられて額の包帯が少しずり落ちそうになり、慌てて押さえていた。

 

「お前、あれ見てないのか。魔王の城が崩れるところ」

「崩れた、のか」

「ああ。……あれはすげぇ光景だったぞ。

 空が、ほら、こう……言葉にできねぇ。とにかく、眩しくて、うるさくて、臭かった」

 

 最後の一言だけ、妙に現実的だった。

 俺はぼんやりと天幕の布を見上げる。

 

 魔王。

 王都にいた頃、酒場の壁に貼られた古い版画で見たことがある。角だらけの怪物だとか、炎を吐く巨人だとか、描く奴によって姿は違った。

 

 そいつが倒れた。

 この長い戦争に終わりが来た。

 

 ……本当に?

 

「魔王が死んだって話だ」

 

 ラルスの言葉は、あまりにも軽く口から出た。

 聞いた瞬間、耳の奥が変にしびれた気がした。

 

「本当かよ」

「本当らしいぜ。さっき外で、伝令が怒鳴って回ってた。

 『勇者殿の一撃が魔王を討ち、この戦は終結した!』ってな」

 

 ラルスの声色は、伝令の真似をしてわざと大げさだった。

 けれど、天幕のあちこちから、小さなどよめきが起こる。

 

「終わったのか……?」「帰れるのか」「俺の村、まだあるかな」

 

 歓声とは違う。

 長い坂道をようやく登り切ったとき、膝が笑って立っていられなくなるみたいな、そんな声だった。

 

「……終わったのか?」

 

 自分で問いかけて、口の中でその言葉を転がしてみる。

 “戦争が終わる”と言えば、もっとこう、胸の奥が熱くなるとか、涙があふれてくるとか、そういうものだと思っていた。

 

 実際に感じているのは、空っぽな穴みたいなものだけだ。

 これから何をすればいいのか、という不安の方がむしろ近い。

 

 ラルスは、俺の顔をちらりと見て、また薄く笑った。

 

「終わったかどうか決めるのは、お偉い連中だよ。

 俺たちが知るのは、命令が変わったときだ」

 

 そのとき、天幕の入口が荒々しくめくれ上がった。

 

 冷たい風と、一瞬だけ射し込んだ灰色の空。

 続いて、硬い軍靴の音。

 

「負傷者の中で、字が読めて書ける者はいるか!」

 

 怒鳴り声が、うめき声の合間を縫って飛び込んでくる。

 士官だ。肩章の色で、前線の指揮官のひとりだと分かる。

 

 寝台のあちこちで、気まずそうな沈黙が広がる。

 

 字が読めて書ける。

 この軍ではそれが、時に出世のきっかけになり、時に余計な面倒事の標的になる。

 

 俺は、反射的に右手を少しだけ持ち上げて――そこで止めた。

 そのまま、布団の上で拳を握りしめる。

 

 士官の目つきは鋭く、どこか苛立っていた。

 俺たち一人ひとりの顔をざっと見て、舌打ちまじりに息を吐く。

 

「いないのか! 誰か一人でいい。名を書ければいいんだ」

 

 ラルスが、ため息をひとつつく。

 

「……おい、ヨルン」

「なに」

「お前、字、読めるだろ」

「まあ、一応」

「なら、行け」

「嫌だぞ。どうせろくでもない仕事だ」

「ここで寝てるよりマシだって。ほら」

 

 ラルスは片腕で無理やり上体を起こし、俺の右腕をがしっとつかんだ。

 そのまま、ぴんと掲げる。

 

「ここにひとりいます!」

「おいっ」

 

 俺の制止は、うめきに近かった。

 だがもう遅い。士官の視線が、まっすぐ俺を射抜いていた。

 

「名前は」

「……ヨルン・エルネスト、二等兵です」

「立てるか、エルネスト二等兵」

 

 士官の声は冷たかったが、そこに侮蔑はなかった。

 ただ、戦場の真ん中で余計な感情を削ぎ落とした人間の声。

 

「は。なんとか」

 

 膝に力を込めて、ゆっくりと起き上がる。

 足の裏が板きれに触れる。重心がぐらりと揺れて、思わず寝台の端を握りしめた。

 

 世界が少しだけ回る。

 吐き気は、なんとか飲み込んだ。

 

「なら、付いてこい。お前には戦死者名簿を作ってもらう」

「……戦死者、名簿」

 

 言葉の重さが、一拍遅れて胸に落ちてくる。

 

「そうだ。名前を書くんだ。

 死んだ者たちが、誰だったのか。どこから来たのか。

 知らないかもしれんが、国に帰るときには紙の上にも“帰らせて”やらんとな」

 

 士官はそれだけ言うと、踵を返した。

 俺はふらつきながら寝台から降りる。

 

 ラルスが、手をひらひらと振った。

 

「しっかり書けよ、ヨルン。

 お前の字が汚いと、俺が死んだとき読んでもらえねぇからな」

「縁起でもないこと言うな」

 

 口ではそう返しながら、心のどこかで、その可能性を否定しきれない自分がいた。

 

 天幕の外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。

 薄い雲が空一面に広がっている。遠くには、黒い山のような影――崩れかけた魔王の城が、まだ煙を上げていた。

 

 その手前に広がるのは、泥と血と灰でぐちゃぐちゃになった土地。

 折れた槍、壊れた盾、焼け焦げた旗。

 それらの間を、負傷兵を乗せた荷車や、死体を運ぶ担架が黙々と行き交っている。

 

 これが「勝利した側」の風景なのだとしたら――負けた側は一体、どんな景色を見ていたのだろう。

 

 士官は、俺を大きな天幕の一つへと案内した。

 

 中は、戦場とは別の意味で殺伐としていた。

 粗末な机がいくつも並び、その上には木札や紙束が山のように積まれている。

 椅子に座った数人の兵士が、紙に何かを書きつけては、別の山に重ねていた。

 

「ここだ。お前の席はあれだ」

 

 指さされたのは、一番端の机だった。

 そこには紙とインク壺と、削りたての羽ペンが一つ置かれている。

 

 机の横には、桶があった。

 桶の中には、乾いた血のこびりついた小さな金属片がいくつも沈んでいる。

 ふたつに割れた楕円形の板。その片側には、名前と番号が刻まれていた。

 

「識別票だ。戦場で拾い集めたやつだ。

 名札が戻って来たということは、持ち主は戻って来ない、ということでもある」

 

 士官の説明に、俺は無意識に喉を鳴らした。

 桶を覗き込むと、見覚えのある村の名が刻まれた板がひとつ、目に入った。

 

 俺と同じ、小さな谷間の村の名前だ。

 そこに続く、知らない姓と名。

 

 紙の上に、その名前を書かなくちゃいけない。

 その一行が、その誰かの、生きてきた証のほとんどになってしまうかもしれない。

 

「エルネスト二等兵」

「は」

「お前は今日から、名を書く兵だ。

 剣を振るうのも戦なら、名を残すのも戦のうちだ。

 ……どっちが楽かは、知らんがな」

 

 士官は薄く笑い、別の机へと去っていった。

 

 俺は椅子に腰を下ろし、羽ペンを手に取る。

 最初の紙の上に、まだ何も書かれていない余白が広がっていた。

 

 桶から一枚、識別票を取り上げる。

 そこに刻まれた文字を、声に出さずに読む。

 

「……ライネル・フロスト。歩兵。北方辺境伯領、第三村落」

 

 羽ペンの先をインクに浸し、紙の上に滑らせる。

 

 一画ごとに、手が少し震えた。

 震えを押さえつけるように、指に力を込める。

 

 黒い線が、紙の上に名前を形作っていく。

 書き終えた瞬間、その一行がやけに重たく見えた。

 

 これは、戦争が終わった翌日に始まった、もうひとつの戦いなのだろう。

 剣も盾もいらない。必要なのは、紙と、インクと、震えない手だけだ。

 

 その戦いに、俺はこれから長いあいだ、付き合うことになる。

 このときの俺は、まだそれを知らなかった。

 

 ただ、黙って次の識別票に手を伸ばした。

 

 桶の中には、まだいくらでも金属片が沈んでいる。

 名前の分だけ、人生があって。

 その分だけ、紙に書く仕事が残っている。

 

 羽ペンの先から落ちたインクの滴が、最初の一頁に小さな染みを作った。

 

 それを見て、なぜか俺は、あの戦場に飛び散った血の点々を思い出した。

 

 インクの染みは、やがて乾いて、ただの黒い点になる。

 血の跡も、いずれ雨と風に消されて、土に紛れるのだろう。

 

 それでも、書くしかない。

 名前を。出身を。死んだ日付を。

 

 俺は、震える指を押さえつけながら、二つ目の名前を書き始めた。

 

 戦後の世界は、こうして紙の上から始まっていった。

 

◇ ◇ ◇

 

 ──【大陸王国正史 第十巻「戦後の幕開け」より抜粋】

 

 魔王戦争終結の翌日、前線野戦病院にて最初の戦死者名簿が作成された。

 その名簿を記した一兵士、ヨルン・エルネストの名は、この時点ではどの史料にも目立って記されてはいない。

 しかし、彼がその後も「戦後」を書き続けたことにより、我々の知る百年史は、わずかにその輪郭を変えることとなる。

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