“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~ 作:こじまたり
戦争が終わってから、十年が経っていた。
王都の空はあの夏と同じように薄く白んだ青だが、街並みは少しずつ別の顔をしている。
焼け落ちた家々は建て直され、煤けた石壁は新しい漆喰で塗り固められた。
かつて火の手が上がった倉庫街には、今では整った倉庫と、きれいな看板が並んでいる。
石畳のひびは目立たないように補修され、十年前の夜を知らぬ足が、その上を何事もなく踏みしめていく。
ヨルン・エルネストは、その石畳の上を以前よりゆっくりと歩くようになっていた。
膝が、少しだけ重い。
階段を上るとき、息が上がるのがわずかに早くなった。
剣を振るうことは、ここ数年ほとんどない。
あの反乱の夜以来、彼はあえて戦闘訓練の場にも足を運ばなくなっていた。
記録局では、彼は「中堅」と呼ばれる立場になっていた。
かつて自分が座っていた隅の机には、今は新しく入った若者が座っている。
彼らはまだ二十代前半。
戦争が終わったときには、まだ幼かった世代だ。
◇ ◇ ◇
「エルネストさん、この様式、ここで合っていますか?」
若い書記官が、一枚の紙を持ってやって来た。
髪を短く刈り、まだインクで汚れることに慣れていない指先。
名前はトーマスと言ったか。
この春に配属されたばかりだ。
「見せてみろ」
ヨルンは書類を受け取り、目を走らせた。
王都北部の税収報告。
数字の桁は合っている。
ただ、注記の書き方が少しばかり曖昧だった。
「ここだな。“徴収に困難を覚える区域”というのはもう少し具体的に書いた方がいい。
例えば、“戦災孤児の多い区域”“失業者の多い区域”といった具合に」
トーマスは目を丸くした。
「そんなふうに書いていいんですか?“孤児が多い”とか、“失業”とか……」
「事実なら、書いていい」
ヨルンは静かに答えた。
「公的記録は、よそ行きの言葉ばかり並べるところじゃない。
ただ、それを書くことで誰が傷つき、誰が救われるかは少し考えた方がいいがな」
若者は、何か言いたげに口を開きかけて、結局「はい」とだけ言って頭を下げた。
そういうやり取りをすることが、この十年で少しずつ増えてきている。
誰かに書き方を教える側になったという事実が、自分が「若くない」ことを何より雄弁に物語っていた。
◇ ◇ ◇
昼休み、局の小さな食堂で若い書記官たちが楽しげに話しているのが耳に入った。
「今度、勇者戦記の新しい版が出るらしいぞ。
挿絵が増えて、魔王との最終決戦の場面がかなり派手になってるって」
「俺の弟なんか、勇者が魔族を全部殺し尽くしたと思ってるぞ。
“だから今は平和なんだ”って」
「まあ、魔族収容区もだいぶ整理されたらしいしな。
今さら“魔族も同じ人間だ”みたいな話をしても、誰も聞きやしないさ」
笑い混じりの声。
ヨルンは、パンをかじりながら、
自分の耳に届く言葉が、自分の記憶と少しずつずれていることを感じていた。
勇者は、本当に魔族を殺し尽くそうとしていたのか。
彼は、あの時、演説の時の準備室で確かに言った。
――「魔族も、できれば救いたい」
その声は、紙の上に残り、ノートの中で薄く擦り切れかけている。
広場で読み上げられた「勇者の言葉」は、今も学校や教会で繰り返し引用されているだろう。
そこには、「魔族も救いたい」という一節は存在しない。
若者たちにとって、勇者は最初から最後まで「魔族を打ち倒し、王国を救った英雄」なのだ。
揺らぐことのない像。
加工された物語。
ヨルンは、パンを飲み込むのに少し時間がかかった。
◇ ◇ ◇
「エルネストさんは、戦争の時どこにいらしたんですか」
別の日の夕方、書類整理の合間にトーマスがぽつりと尋ねてきた。
「“戦後すぐは大変だった”って、いつも言うじゃないですか。
自分はまだガキだったし、前線からも遠かったんで、いまひとつ実感がなくて」
ヨルンは、ペンを置いた。
「あの頃は――」
言いかけて、ふと口元が緩む。
「昔話」を始める老人の癖のようだ。
「そうだな。
お前が今座っている席には、昔は俺が座っていた。
戦死者名簿を書いていたよ。
毎日、知らない名前を、ずっと紙に並べていた。
名前を一行書くたびに、どこかの村で誰かが泣いているんだろうなと想像しながら」
トーマスは、目を瞬かせた。
「戦死者名簿って、本当にあったんですね」
「当たり前だ」
ヨルンは苦笑した。
「今は、公共事業と新規戸籍の登録ばかり増えているがな。
あの頃は、死んだ者の名前の列ばかりだった」
トーマスは、しばらく黙っていた。
「そのときのこと、どこかに残ってたりしないんですか」
何気ない問いのようでいて、ヨルンには重く響いた。
「……公式には、残っているさ。
王立記録局のどこかに、戦死者名簿はきちんと保管されている。
ただ、それをわざわざ開いて読む者がどれほどいるかは、別の話だ」
トーマスは、納得したようなしないような顔をして頷いた。
ヨルンは、その横顔を見ながら思う。
彼らにとって、戦争は既に「歴史」になりつつある。
過ぎ去った事象。
教会や学校で教えられる物語。
そこには、血の匂いも、汗も、紙の端についたインクの滲みも含まれていない。
――と、彼は後年、自身の覚え書きの中で書き残している。
◇ ◇ ◇
秋の初め、記録局では古い文書の整理が行われていた。
新館が建設され、一部の資料をそちらに移すことになったのだ。
ヨルンは保管庫の奥で、年代ごとに分けられた木箱にラベルを貼り直していた。
戦後直後の戦死者名簿。
戦犯裁判の議事録。
復興事業配分記録。
……そして、明らかに中身の少ない箱がいくつか。
そこには、「不要記録物 検閲済」と書かれた古い札がぶら下がっている。
中を覗くと、少ないながらも焼却を免れた資料が収めれていた。
古いインクの香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
ヨルンは、そっと手を伸ばし箱の奥を探る。
――あった。
あの黄ばんだ法令集。
自身の部屋から、ここに持ち込んだのは何年前だったか。
「既に検閲された」物を、改めて確認するような物好きは、そういないからだ。
外見は、他の本と何ら変わりない。
法律家でさえ開きたがらない、退屈な条文が延々と並んでいるように見える。
ヨルンはそれを取り上げ、埃を払うふりをしながら背表紙の具合を確かめた。
十年前に貼り直した布は、まだしっかりと付いている。
表紙がわずかに厚いことに、誰かが気づく可能性はゼロではない。
それでも、今のところは誰の手も伸びていない。
彼は、少しだけ迷った。
ここに戻しておくか。
それとも、別の場所へ移すか。
新館が完成すれば古い文書の一部は移され、残りは「重要度に応じて」選別されるだろう。
選別するのは、今の局長や新しい上層部だ。
彼らがこの法令集を開く理由があるとは思えない。
だが、「何が不要か」を決める者の顔ぶれが変われば、判断も変わる。
ヨルンは、思い切ってその本を別の木箱に移した。
棚に書かれたラベルには、「近年法令改定資料」と書かれている。
若手の書記官たちが頻繁に出入りする棚ではない。
だが、完全に忘れ去られる場所でもない。
もし、いつか誰かが「戦後すぐの法令改定の詳細」を調べようと思い立ったなら、この箱を開けるかもしれない。
そのとき、この本も一緒に手に取られるだろう。
その中から、薄い紙束が見つかるかどうか。
それは、もう自分の手の届かない場所にある問いだ。
ヨルンは、本をそっと箱の底に置いた。
「いつの日か、誰かが読むかもしれない。
読まれないまま腐るかもしれない」
そう呟いて、箱の蓋を閉めた。
蓋の上にある埃を、指先で払う。
それは、初老の男が自分の胸元を整える仕草にも似ていた。
◇ ◇ ◇
その夜、ヨルンは自室の机の前に座り、久しぶりに自分のためだけの記録を書いた。
『戦後十年が過ぎた。
王都はきれいになった。
傷跡は、見えにくくなった。
戦争を直接知らない世代が、記録局にも増えてきた。
彼らにとって、勇者は本の中と壁の肖像画の中にいる。
彼が準備室でこぼした拙い言葉を覚えているのは、
もうこの街の中で何人いるだろう。
私自身も、細部を忘れ始めている。
だからこそ、紙に書き残さねばならないのだと、改めて思う。
私が隠した写本を、
いつか誰かが見つけるかどうかは分からない。
見つからずに腐り、
紙くずとして捨てられるかもしれない。
……それでも、私はそれを書いた。
灰の上に立つ王国の姿を、
私が見たままの形で。』
ペン先が止まる。
インク壺の中で、黒い液が静かに揺れている。
ヨルンはその揺れを見つめながら、自分の指先に刻まれたインクの染みが、十年分の「言葉の重み」であることをぼんやりと思った。
――ここまでが、「第一部」の終わりである。
そう書き添えて、彼はゆっくりとノートを閉じた。
◇ ◇ ◇
──【編纂者より】
以上が、記録官ヨルン・エルネスト自身の手になる記録群のうち、
彼が「灰の上に立つ王国」と題した最初の部分――
すなわち、魔王戦争終結から戦後十年までを扱った
第一部の終わりである。
この手稿は、後世の我々の手元に届くまでに、
幾度も焼かれかけ、捨てられかけ、
偶然と意図のあいだをさまよいながら残存した。
ヨルン以後の時代を生きた記録者たちの文、
彼を知る者の証言、そして彼が生前には見ることのできなかった出来事が、
この先、物語の頁を満たしていくことになる。
次巻からは、
ヨルンの晩年から死後に書き足された記録と、別の証言者たちの言葉を交えながら、
「勇者の時代」からさらに百年の時を経てなお続く、
この王国と世界の影の歴史を辿っていく。
読者は、ここまで読んだ「ヨルンの言葉」が、
すでに誰かの選択と編集を経たものであることを、どうか忘れないでほしい。
彼の残した焼け跡のような文字と、
その周囲に後世の者が書き足した行とのあいだにこそ、
戦後という時代そのものの揺らぎが、最も濃く浮かび上がるのだから。