“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~   作:こじまたり

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第12話 老記録官と若き弟子

 戦争が終わってから、幾年が経ったか。

 当時生まれた子が、壮年に差し掛かる頃合い。

 

 王都の石畳は、もうほとんど新しい。

 戦時中に砲弾で抉られた跡も、反乱の夜に焦げた痕も、

 いまの若者たちには、どこだったのか分からない。

 

 古い傷は、上から重ねた石と漆喰と、新しい店の看板に隠されていく。

 老いていく者たちの記憶の中にだけ、かつての裂け目の形が残っていた。

 

 王立記録局の建物もまた、

 戦後に増築された新館と、昔ながらの古館とが複雑に繋がっている。

 

 ヨルン・エルネストは、その廊下をゆっくりと歩いていた。

 髪はすっかり白くなり、背筋も以前ほどまっすぐではない。

 

 それでも、歩く速度は、若い頃とあまり変わらない。

 ただ、階段を上りきったときに、

 胸の奥にわずかな息切れを覚えるようになっただけだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 春の終わり、記録局に新しい書記官が配属された。

 

「エルネスト殿、この子を頼めるか」

 

 局長に呼ばれ、ヨルンが顔を向けると、

 そこには、まだあどけなさの残る若者が立っていた。

 

 栗色の髪を後ろで束ねた少女だった。

 

 瞳はよく動き、手は緊張しているのか、握りしめた紙をいじっている。

 

「ミレイ・カーターと申します。

 王立学院史学科を、この春卒業しました」

 

 はっきりとした口調で名乗る。

 

 指先にインクの染みはない。

 机に向かって文字を書くよりも、本を読む時間の方が長かったのだと、自己紹介で語っていた。

 

 ヨルンは、彼女を頭のてっぺんから足先まで眺めた。

 

「カーター、と言ったか。

 戦争中、北方防衛線で戦っていた大隊長に同じ名前の男がいたが、親類かね?」

 

「祖父が、その……従軍していたと聞いていますが、

 あまり詳しい話は聞いたことがなくて」

 

 ミレイは、少し申し訳なさそうに笑った。

 

「祖父は、戦争の話をしたがらないんです。

 だから、本を読めば分かるかなって。それがきっかけで読書を」

 

「本を読めば、な」

 

 ヨルンは、短く息を吐いた。

 局長が話を継いだ。

 

「ミレイは頭の回転も早いし、筆も達者だ。

 だが、何しろ戦争を知らない世代でして。

 戦後の記録の整理を進めるにあたって、現場を経験している者の視点を教えてやっていただけますか」

 

 局長も、幾度かの代替わりを経てヨルンよりも一回りほど年下の者がその席についている。

 どこかやりづらさも感じているだろうが、そんな様子を見せることなく、こちらに伺いを立ててくる。

 

「現場、と言っても、もう二十五年前の話だがね」

 

「それでも、エルネスト殿の“現場の空気”は、紙の、そこに書かれた文字に染みている。その匂いを、この子にも少し嗅がせてやっていただけないか」

 

 局長の言葉に、ヨルンは肩をすくめた。

 

「そこまで、仰るなら」

 

 そう言いながら、彼はミレイに手を差し出した。

 

「ヨルン・エルネストだ。

 今日から、お前の“うるさい年寄り”になる」

 

 ミレイは、ぱっと顔を明るくした。

 

「よろしくお願いします、エルネスト様」

 

「“様”はいらん。

 局の中では“エルネストさん”で十分だ」

 

「はい、エルネストさん」

 

 その返事の軽さに、ヨルンは、自分が本当に年を取ったのだと改めて思い知らされた。

 

◇ ◇ ◇

 

 ヨルンの机の隣に、新しく小さな机が置かれた。

 そこが、ミレイの席になった。

 

 彼女の最初の任務は、

 「戦後記録の整理」だった。

 

 戦争が終わってからの二十五年間に作成された膨大な文書。

 

 戦死者補償の記録。

 復興事業の報告。

 魔族収容区の管理状況。

 その後の解除や移住の記録。

 

 それらを年代ごとに整理し、目録を作成し、

 どれが「重要文書」で、どれが「参考資料」かを区分けする。

 

 ヨルンは、積み上げられた箱のひとつを指差した。

 

「まず、この箱からだ。

 戦後十年から十五年までの、地方行政報告書。

 文字を写すだけじゃなく、

 何が書かれているか、大まかに頭に入れておけ。

 “二年後に自分で書き直すことになる覚悟で読む”んだ」

 

 ミレイは、箱の蓋を開けながら問い返した。

 

「書き直す……ですか?」

 

「記録というのは、書いた瞬間から古くなる。

 当時は正確であろうとした文も、十年後に読み直せば、

 “ここは足りない”“ここは見えていない”と思うところが必ず出てくる。

 それを補うのが、お前の仕事になるかもしれん」

 

 ミレイは、やや眉をひそめた。

 

「でも、歴史って、もう過ぎ去ったことですよね。

 変えちゃいけないものなんじゃ……」

 

「変えていけないのは、“事実”だ。

 歴史というのは、事実の上に後から人間が乗せる“解釈”の層だよ。

 事実は変えられない。

 だが、解釈は変わる。

 変えざるを得ないこともある」

 

 ヨルンは、自分の机の引き出しを軽く叩いた。

 

「この中には、二十五年前の私が書いた覚え書きが入っている。

 今読み返すと、“若かったな”と思うところも多いが、

 あのとき、あの場にいた者にしか書けない事もある。

 お前たちの世代は、それを読んで、

 “あの時代にはこんな匂いがあったのか”と想像しながら、

 自分たちの言葉を重ねていくんだ」

 

 ミレイは、首をかしげた。

 

「匂い……ですか」

 

「そうだ。紙には匂いが残らない。

 だからこそ、匂いまで、その時の空気まで想像できるように書かないといけない」

 

 彼女は、納得したのかどうか分からない顔でうなずき、一枚の報告書に目を落とした。

 

◇ ◇ ◇

 

 数日後。

 

 ミレイは、積み上げた書類の山に埋もれながら、不満そうに息を吐いた。

 

「年号と数字ばっかりですね。

 “王歴十三年 ◯◯村 復興費支出額 金◯◯”とか。

 “戦没者遺族への補償支払い完了”とか。

 これを読んでも、そのときの人たちが何を感じていたのか、

 さっぱり分かりません」

 

「いいところに気づいたじゃないか」

 

 ヨルンは、机に肘をつきながら言った。

 

「数字や年号だけ見てると、世界はやたら整って見える。

 “一人あたり金貨二枚の補償”と書いてあれば、

 それで済んだように見えるだろう」

 

「実際には、済んでない?」

 

「済んでないことが多かった。

 金貨二枚じゃ足りない遺族もいたし、そもそも“遺族”として数えられなかった者もいる。

 数字の外側に、こぼれ落ちた顔がいくつもある」

 

 ミレイは、唇を尖らせた。

 

「そういうのは、どこに書いてあるんですか」

 

「大抵は、どこにも書かれていない。

 だから、後から見たものが、“数字の裏に何があったか”を想像するんだ」

 

「想像で補っていいんですか、歴史って」

 

「想像していい。

 ただし、“この数字の裏に、こういう可能性があったかもしれない”という形でな。

 断定はしない。

 だが、可能性を閉じてしまってもいけない」

 

 ミレイは書類から目を離し、窓の外を見た。

 

 王都の空は青く、子どもたちが通りで遊ぶ声がかすかに聞こえる。

 

「戦争って、本当にそんなに酷かったんですか」

 

 彼女は、ふと呟いた。

 

「父も母も、“辛かった”とは言いますけど。

 私は生まれる前のことで、実感がなくて」

 

「酷くなかったと言う奴がいたら、殴ってやるさ」

 

 ヨルンは、静かな口調で言った。

 

「だが、“酷さ”も人それぞれだ。

 前線に出て血を見た者。

 物資の配給に並んで腹を空かせていた者。

 街が焼かれるのを遠くから見ていた者。

 それぞれの“戦争”がある。

 お前の“戦争”は、

 きっと本と数字からしか始まらない。

 だからこそ、紙の上の数字を、生きたものとして見る訓練が必要になる」

 

 ミレイは、返事をしなかった。

 ただ、目の前の書類をさっきより少しだけ慎重にめくった。

 

◇ ◇ ◇

 

 初夏。

 

 記録局に、地方からの依頼が届いた。

 戦後二十五年を記念して、各地の復興状況をまとめる調査を行うことになったのだ。

 

「北東部に、調査隊を出すことになった。

 エルネスト殿、一緒に行ってくれ」

 

 局長が命じた。

 

「戦後すぐの補償と復興の記録を見直したい。

 現地で、数字と実際の暮らしの間にどれだけ差があるか、確かめてきてほしい」

 

「分かった」

 

 ヨルンがうなずくと、局長は隣に立つミレイを顎でしゃくった。

 

「ミレイも連れて行ってくれ。

 書庫で数字と文字と格闘しているより、たまには外の空気を嗅がせた方がいい」

 

 ミレイは、少し驚いた顔をした。

 

「わ、私もですか」

 

「戦後記録の整理を任されているんだ。

 現地を見ておくに越したことはない」

 

 ヨルンは、肩をすくめて笑った。

 

「旅の間中、馬車酔いしないといいがな」

 

「そんな子どもじゃありません」

 

 ミレイは、胸を張って言ったが、その自信がどこまで本当かは分からなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 王都から北東へ数日の道のり。

 

 揺れる馬車の中で、ミレイは最初こそ窓から見える風景に目を輝かせていた。

 

「思ったより木が多いですね。

 もっと荒れ地ばかりだと思ってました」

 

「戦争が終わってから植えた木も多い。

 伐り尽くしていたからな。

 戦争は、兵だけじゃなく、森も、川も、全部食いつぶす」

 

 ヨルンは、揺れに合わせて身体を預けながら答えた。

 

 二日目には、ミレイは少し顔色を悪くしていた。

 

「……大丈夫か」

 

「だ、大丈夫です。

 ちょっとだけ、頭がぐらぐらしますけど」

 

「馬車酔いだ。

 窓の外ばかり見ていないで、遠くの山でも眺めてろ」

 

 ミレイは、言われた通りに視線を遠くに向けた。

 

 霞む山並みの向こうに、戦争の頃に魔法で削られたという峠が、薄く影を落としている。

 

 彼女には、その傷跡と、ただの岩肌との違いは分からない。

 それでも、その山を越えた向こうにかつて別の戦場があったことを、ヨルンは知っていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 三日目の午後、彼らは目的の村に着いた。

 村は、見た目は穏やかだった。

 

 小さな畑。

 土壁の家。

 子どもたちが川で魚を追いかけている。

 

 だが、村の外れには不自然なほど整った石碑の列があった。

 周囲の風景と比べて、それだけが新しい。

 

 ヨルンとミレイは、村長の案内でその前に立った。

 

「戦没者の碑です」

 

 村長は、落ち着いた声で言った。

 

「戦争が終わってすぐ、国からの補助金で建てました。

 名前を刻んだのは、村から出た兵と、その家族の代表です」

 

 石碑には、びっしりと名前が刻まれていた。

 ヨルンは、指先で文字をなぞった。

 

 いくつかの名前には、どこか見覚えがある気がした。

 昔、戦死者名簿に書き込んだ名前かもしれない。

 

 ミレイは、石碑の前で立ち尽くしていた。

 

「……ここに書いてある人たちが、みんな死んだんですよね」

 

「そうだ」

 

「この村からだけで、こんなに」

 

 ヨルンは、村長に尋ねた。

 

「魔族側に行った者の名は、ここにあるか」

 

 村長は、一瞬だけ目を伏せた。

 

「いいえ。

 彼らの名前は、ここには刻んでいません。

 ……ですが、その者たちの母親や妻は、この前に立って涙を流します。

 “どうしてあの子の名前はないのか”と」

 

 ミレイが息を飲んだ。

 

「魔族側に行った人たちは、裏切り者ってことなんですよね」

 

「そう教えられているだろう」

 

 ヨルンは、静かに言った。

 

「だが、この村長の目から見ればどうだ?」

 

 村長は、石碑から視線を外さずに答えた。

 

「……私には、あの子らも、この村の子であったことに変わりありません。

 飢えた家族を養うために魔族側に行った者もいた。

 ただの若気の至りで隊列を離れた者もいました。

 国の記録では、彼らは“戦死者”としても数えられていない。

 ですが私の中では、ここに刻まれた者たちと、何ら変わりありません」

 

 ミレイは、言葉をなくしていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 さらに村の外れには、小さな丘があった。

 そこには、粗末な木の杭と、風に晒されてすり減った石が並んでいる。

 

 形の揃わない墓標。

 

「これは?」

 

「魔族の墓です」

 

 村長の声は低くなった。

 

「戦争中、ここいらには魔族の兵も多く来ていました。

 撃ち合いの末に倒れた者もいますし、逃げ延びてきて傷がもとで死んだ者もいます。

 当時の村人たちは、“敵の墓などいらん”と言いました。

 ですが……私の父が、“弔いくらいはしてやれ”と」

 

 ミレイは、墓標のひとつに書かれた文字を見ようとして、目を細めた。

 

 そこに刻まれているのは、この国の言葉ではない。

 角ばった、見慣れない文様。

 

「読めません」

 

「魔族の字だからな。俺も読めん」

 

 ヨルンは、少しだけ笑った。

 

「だが、これを刻んだのが、村の誰かの手か、魔族の生き残りか、

 それとも両方かを考えることはできる」

 

 丘の上には、風が吹いていた。

 

 土の匂いと、草の匂いと、古い血の痕跡のような、鉄の残り香。

 ミレイは、気づかぬうちに拳を握り締めていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 村の集会所で、彼らは戦災孤児だった青年にも話を聞いた。

 今は三十代前半、鍛冶場で働いているという。

 

 彼は、淡々と話した。

 

 戦争中に両親を失ったこと。

 祖父に育てられたこと。

 補償金が一度だけ届き、それがすぐになくなったこと。

 

「補償金の額は、確かこれくらいで」

 

 彼は指を折って計算した。

 

 ミレイはその数字を聞きながら、手元の紙にメモを取っている。

 

「書庫の記録では、“遺児一人につき金貨二枚”とありましたけど、実際には……」

 

「途中で抜かれた分もあるだろうし、そもそも、届かなかった家もある」

 

 青年は、肩をすくめて笑った。

 

「でも、その金があったおかげで、俺はその冬を越せました。

 だから、“何もしてくれなかった”とまでは言いません。

 ただ、“それで全部が帳消しになったわけじゃない”というだけです」

 

 ミレイは、顔を上げた。

 

「……あなたにとって、戦争って何ですか」

 

 青年は、少し黙ってから答えた。

 

「俺にとっての戦争は、“寒い冬”ですね。

 いつも腹が鳴っていて、足の先がかじかんで、隣の家の煙突から煙が出ているのを見ると、羨ましくて仕方なかった。

 戦いのことは、正直、遠い話です。小さかったせいもありますが。

 ただ、“あの冬が来たのは、戦争のせいだ”ってことだけは分かる」

 

 彼の言葉は、教会や学校で語られる「英雄譚」とは違う角度で戦争を言い表していた。

 

 ミレイは、その違和感を胸に抱えたまま、何度も紙の上に文字を重ねた。

 

◇ ◇ ◇

 

 王都への帰路。

 

 旅籠の薄暗い食堂で、ヨルンとミレイは夜食の煮込みをつついていた。

 肉と豆と野菜が一緒になった煮込みは、味付けは素朴だが身体に染みた。

 

 ミレイは、スプーンを皿の中で遊ばせながら、口を開いた。

 

「……本の中の“戦争”と、今日見聞きした“戦争”は、全然違いました」

 

 ヨルンは、パンをちぎりながら静かにうなずいた。

 

「本の中の戦争は、数字と、勝者の言葉で語られる。

 だが、実際はそうじゃない」

 

「戦没者の碑、名前の列がずっと続いていて。

 あれ、一人ひとりに人生があったんですよね」

 

「当たり前だ」

 

「当たり前なんですけど……

 数字で見ていたときは、“何人死亡”っていう一塊にしか見えていませんでした」

 

 ミレイは煮込みをひと口食べて、味が分からないような顔をした。

 

「魔族の墓も、あんなふうに同じ丘に並んでいるとは思いませんでした。

 “敵の墓”って、もっと遠いところに別々にあるものだと思ってた」

 

「土の中では、どちらも同じだ。

 人間の骨も、魔族の骨もな」

 

 ヨルンは、カップの中の麦酒を一口飲んだ。

 

「戦争を知らないことは、幸せだ」

 

 ぽつりと、そう言った。

 

「お前の世代は、あの石碑や墓を“過去のもの”として見る権利がある。

 あの冬の腹の鳴りも、あの丘の鉄の匂いも、知らなくて済む。

 それは、間違いなく良いことだ」

 

 ミレイは、スプーンを握りしめた。

 

「でも……」

 

「だがな」

 

 ヨルンは、彼女の言葉を遮って続けた。

 

「戦争を知らない世代は、同じ過ちを犯しやすい。

 英雄譚だけを読んで、

 “自分も英雄になれるかもしれない”と剣を握る者が出る。

 石碑の名前の重さを知らないまま、

 新しい碑のに自身の名が刻まれる可能性を考えもしない」

 

 ミレイは、何かを言い返そうとして、うまく言葉にならなかった。

 

「でも、私たちだって、そんなことは……」

 

 “したくない”と言おうとして、口を閉じる。

 

 それが「自分たち」と言えるほど、自分の世代全体を信じ切れているわけではないことを、彼女自身が一番よく分かっていた。

 

 ヨルンは、彼女の表情を見て少しだけ笑った。

 

「そこで、記録官の出番だ。

 お前たちの世代は、戦争を“知らない”ままでいい。

 だが、“知らないままにしない”努力はできる。

 本を読む。

 数字を見る。

 石碑の前に立つ。

 戦地の空気を感じる。

 それらを全部、自分の言葉で書き留める。

 それができるなら、たぶん、少しは“同じ過ち”から遠ざかれる」

 

「……そんなことで、本当に変わるんですか」

 

「分からん」

 

 ヨルンは、あっさりと言った。

 

「ただ、“何もしなかった結果”は、俺たちは一度見ている。

 だから、同じことを繰り返したくないだけだ」

 

 ミレイはスプーンを皿に置き、両手でカップを包んだ。

 カップの中の温かさが、指先から少しずつ身体に広がっていく。

 

「エルネストさんは、戦争の夢を見ますか」

 

「……時々な」

 

 彼は、麦酒をもう一口飲んだ。

 

「お前は、本でしか見ないような夢を見るだろう。

 だが、俺たちは違う。体験した夢だ」

 

 ミレイは、深く息を吸った。

 

「私、今まで“歴史って、ただの過去の話”だと思っていました。

 今日、あの石碑とお墓を見て、“今でもそこにあるものだ”って、少し分かった気がします。……うまく言えませんけど」

 

「うまく言えるようになるのが、記録官の仕事だ」

 

 ヨルンは、軽く肩をすくめた。

 

「焦るな。記録は、文字は、ゆっくりと熟す。

 ただ、その間に思いだけは忘れないようにしておけ」

 

◇ ◇ ◇

 

 王都に戻った後。

 ミレイは、自分の机で小さなノートを開いていた。

 

 それは、仕事用の記録とは別の、彼女自身のためだけの覚え書きだった。

 老記録官から勧められて、自身でも書いてみようと思ったのだ。

 

 インク壺の蓋を開け、新しいペン先を静かに紙に押し当てる。

 

 文字が、一行ずつ浮かび上がっていく。

 

『エルネストさん――老記録官は、よく“匂い”の話をする。

 

 戦死者名簿の話をするときも。

 反乱の夜の話をするときも。

 村の石碑の前に立ったときも。

 

 彼はいつも、

 「血の匂い」「寒い冬の風の匂い」「土と草と鉄の匂い」のことを話す。

 

 私は、戦争を知らない。

 血の匂いも、凍える冬の匂いも、丘の上に積もった死者の匂いも、知らない。

 

 紙には匂いが残らない。

 

 だからこそ、匂いを想像して書く必要があるのだと、老記録官は言った。

 

 数字や年号だけでは、人の人生の重さは分からない。

 石碑の名前の列の前で、私はようやくそれを少しだけ理解した気がする。

 

 ――いつか、私が誰かに戦後のことを語るとき、

 エルネストさんの話した“匂い”を、自分の言葉で伝えられるようになりたい。

 

 そのために、今日の土の匂いと、丘の風の冷たさを、

 ここに書き残しておく。』

 

 書き終えると、

 ミレイはペンを置き、インクが乾くのを待った。

 

 窓の外では、王都の新しい並木が風に揺れている。

 

 その葉の匂いは、彼女の知らない古い夏の日々の匂いとどこかで薄く繋がっていた。

 

 

 

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