“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~ 作:こじまたり
既に、戦争の記憶は遠くなっていた。
王都の冬は、昔と変わらず骨の芯まで冷えたが、窓の外に見える建物の輪郭は、あの頃とはずいぶん違っていた。
新しい屋根瓦。
真新しい石畳。
勇者像の台座は磨き上げられ、戦没者の碑には雪払いの跡がきちんと残っている。
その街のはずれ、静かな裏通りの奥に一軒の借家があった。
二階建ての小さな家。
階段はきしみ、梁にはかつての冬の煤が薄く残っている。
ヨルン・エルネストは、その二階の一室でこの冬のほとんどを寝たきりで過ごしていた。
◇ ◇ ◇
枕元の窓から、灰色の光が差し込んでいる。
吐く息は白くはならないが、空気は冷たく乾いていて、咳をするたび胸の奥が小さく軋んだ。
若い頃、戦場での無茶が今になって請求書を回してきたのだ――と、主治医は冗談半分に言った。
ヨルン自身はその見立てに異論はなかった。
だが、体は動かなくとも机の上だけは相変わらず賑やかだった。
ベッドの横には、小さな机が寄せられている。
そこには、分厚い原稿の束が二つ。
一つは、紐でしっかりと纏められ、表紙には綺麗な字でこう書かれている。
『戦後記録 第一巻
――灰の上に立つ王国(戦後〇〜三十年)』
もう一つは、綴じ紐も仮のままに、紙の端には書き直しの赤い印がいくつも走っている。
こちらには、まだ表紙の文字はない。
表紙代わりの一枚目には、雑な走り書きでこうだけ記されていた。
『別稿(公開不適)』
◇ ◇ ◇
その日の午後、階段を上がってくる足音がした。
軽く、弾むような足取り。
扉をノックする音がして、返事を待たずにそっと扉が開く。
「失礼します、エルネストさん」
ミレイ・カーターだ。
かつて新米だった彼女も、今では立派な中堅記録官だ。
瞳の輝きは若い頃のままだが、その目の周りには、数え切れない文書と地方視察の疲れが、薄く皺となって刻まれ始めていた。
手には、紙袋と厚い封筒を提げている。
「局長と皆さんからです。
“あまり甘くないお菓子なら食べられるだろう”って」
「俺を何だと思っているんだ、連中は」
ヨルンは、からからと乾いた笑いを漏らした。
「甘いものくらい食えるさ。
……酒が飲めなくなったのは、少し堪えるがな」
「お医者様にしっかり止められているでしょう」
ミレイは、窓際の椅子を引き寄せ枕元に腰を下ろした。
帽子とマフラーを外すと、冬の外気に触れて赤くなった頬が現れる。
「寒くないですか」
「この歳になると、寒さか暑さかより、“咳が出るか出ないか”の方が重要でな」
ヨルンは、咳を一つ押し殺しながら言った。
「まあ、今日はマシな方だ。ちょうどいいところに来てくれた」
「ちょうどいいところ?」
「仕上がったんだよ」
ヨルンは、机の上の原稿束を顎で示した。
「第一巻がな」
ミレイの目が、ぱっと明るくなった。
「本当に……? 全部?」
「全部だ。戦後三十年まで。
戦死者名簿から始まって、反乱の夜、勇者の老い、魔族収容区の変遷、
地方の復興と、その影で取り残された村々。
お前と一緒に行ったあの村の話も、きちんと入っている」
ヨルンは、ゆっくりと身を起こそうとした。
ミレイが慌てて背中に手を添え、枕を増やして上体を支える。
彼は、浅く息を整えながら最初の原稿束を指で叩いた。
「これが、表向きに出して構わないものだ。
局長に渡して、王立印刷所の連中に回せ。
“エルネスト老の遺稿”とでも銘打って、それらしい装丁にしてくれるだろうさ」
「そんな軽口を叩けるなら、まだまだ大丈夫そうですね」
ミレイは笑いながらも、その瞳には隠しきれない不安の色が滲んでいた。
「もう一束の方は」
彼女の視線が、「別稿」と書かれた乱雑な紙束へと滑る。
「そっちは、まだ書き直しが必要でな。
お前たちの邪魔にならんところに、そのうち移しておく」
「……邪魔にはなりませんよ。あなたの書いたものなら」
「いや」
ヨルンは小さく首を振った。
「俺の書いたものの中には、邪魔になった方がいいものもある。
今、王都で平穏に暮らしている連中にとってはな」
ミレイは、それ以上踏み込まなかった。
彼が言葉を選んで黙るときの顔を、彼女はよく知っている。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻、珍しい客がもう一人階段を上がってきた。
階段のきしみ方が違う。
重く、ゆっくりと、だが一段一段を確かめるような足取り。
「入るぞ、ヨルン」
扉の向こうから、かすれたがよく通る声がした。
扉が開き、分厚いコートを着込んだ男が姿を現した。
片足を引きずっている。
膝から下は、木だった。
「ラルス……」
ヨルンは、思わず笑みを浮かべた。
「まだ死んでなかったのか、お前」
「先に行くのは、どう考えてもお前だろう」
ラルスは、肩をすくめて笑い返した。
かつて前線で背中を預け合った戦友は、今では鍛冶場を営む片脚の職人だ。
腕の筋肉はまだ健在で、木の脚で歩く姿にもどこか豪胆な気配が残っている。
「鍛冶場がうるさくてな。
たまには、しんみりした病室の匂いを嗅ぎに来たくなった」
「物好きな奴だ」
ヨルンは、苦笑しながら咳き込んだ。
ミレイは気を利かせて席を外そうとしたが、ラルスに手を振られて止められた。
「構わん。
若い記録官がじっと聞いている前で、年寄りが昔話をするのも悪くない」
ラルスは、ベッド脇の椅子に腰を下ろし木の脚を少し投げ出した。
「あの頃のことを覚えているか、ヨルン」
「どの頃の話だ」
「魔王城の手前の丘だ。
お前が、初めて上官殿に連れていかれて、夜通し戦死者名簿を書いていた夜だ。
俺は、横でソレを揶揄いながら眺めてたな」
ヨルンは、目を細めた。
焚き火の煙。
冷たい夜風。
血の匂い。
「覚えているとも。
お前が“こんな名簿、書いたところで死んだ奴は帰って来やしない”と吐き捨てて、
俺が殴りたくなった夜だ」
「殴られなくてよかったよ。
あのとき殴られていたら、今はもっと腰が悪くなっていただろう」
ラルスは、喉の奥で笑った。
ヨルンは、息を整えながら答えた。
「誰かが書いておかないと、全部“なかったこと”になる。
あの時の俺は、戦争が終わって空っぽだった、お前に言われて書記官の仕事を受けたが、あれが無ければ今頃どうなっていたかな」
ラルスは、しばらく黙ってヨルンの顔を見ていた。
「お前が書いたお陰で、今の若い連中が読み直すものがある。
ミレイ嬢も、そうだろう?」
突然振られて、ミレイは慌てて姿勢を正した。
「はい……あの、エルネストさんの記録がなかったら、
私は“戦後”をただの記録としてしか理解できなかったと思います」
「理解できるだけでも大したものだ。最近の連中ときたらそれすら出来ん」
ラルスは笑った。
「俺にとって戦後は、戦争の余韻、みたいなもんだからな」
その言い方は軽いが、木の脚が床を打つ音には三十五年分の重さがあった気がした。
◇ ◇ ◇
陽が傾き始めると、ラルスは立ち上がった。
「長居すると、死に水を取りに来たみたいになる。縁起が悪い」
「何を今さら。
お互い、とっくに墓場の近くを歩いているくせに」
ラルスは、ヨルンの肩に軽く手を置いた。
「お前が書いたものは、全部読めるうちに読んでおく。
それが俺にできる唯一の礼だ」
「礼なんていらんさ。読んで“ここは間違ってる”と文句でも書いておけ。
その余白まで含めて、後の奴らが“あの時代”を知るだろう」
ラルスは、鼻で笑いながら階段を降りていった。
木の脚の音が遠ざかると、部屋は再び静けさに包まれた。
◇ ◇ ◇
夜。
窓の外では、雪がちらつき始めていた。
ミレイはヨルンの枕元に座り、机の上の原稿束を見つめていた。
「……エルネストさん」
「何だ」
「本当に、病が治る見込みはないんですか」
「医者は、“奇跡が起きれば”と言っていたぞ」
ヨルンは乾いた笑いを漏らした。
「戦場で一度生き延びた男に、もう一度奇跡を期待するのは少々図々しいだろう」
「図々しいくらいでいいじゃないですか」
ミレイは、唇を噛んだ。
「あなたがいなくなったら、誰が“記録の話”をしてくれるんですか」
「お前がするんだよ」
ヨルンは、淡々と答えた。
「俺はもう、これから起きることを見られない。
新しい戦争が起きるのか、起きないのか。
魔族との関係がどう変わるのか。
勇者の子どもたちがどう生きるのか。
その全部を、俺は“想像”することしかできない」
彼は、浅く息を吐いた。
「だから、お前たちが記録してくれ。
俺の知らない“戦後”を。
戦争を知らない世代が見た世界を、お前たちの目と手で紙の上に残してくれ」
ミレイは、目頭が熱くなるのを感じた。
「……私なんかに、できるでしょうか」
「“私なんか”と言う奴にしかできん仕事だ」
ヨルンは、かすかに笑った。
「自分を過大評価している奴の書く歴史は、たいてい誰かを踏み潰す。
“自分なんか”と言いながら、それでもペンを置かない奴が、
ようやく人の重さに気を配った文章を書ける」
ミレイは、静かにうなずいた。
そのうなずきの中に、言葉にならない誓いが小さく含まれていた。
◇ ◇ ◇
深夜。
ヨルンは、一度だけ眼を覚ました。
部屋は暗く、窓の外の雪明かりだけがぼんやりと天井を照らしている。
息を吸うたび、胸の奥で小さな痛みが走る。
だが、不思議と恐怖はなかった。
――ああ、ようやく、か。
そう思った。
戦場で死ぬはずだった命を、記録用紙だけ延ばしてもらっていたようなものだ。
紙の端に書ききれなくなった文字が、行の外にはみ出して消えていくように、自分の時間もそろそろ枠から溢れ始めていた。
枕元の机の上。
分厚い原稿束と並んで、一冊の古びた法令集が置かれている。
その中に、自分の“もうひとつの記録”が隠されていることを知っているのは今のところ彼だけだ。
「……好きにしろ」
誰にともなく呟く。
この写本が、誰かに見つかるかどうか。
見つかったとき、それを燃やすのか、読むのか。
その選択を自分以外の誰かに委ねることは、不安であり、同時に少しだけ愉快でもあった。
ヨルン・エルネストは、静かに目を閉じた。
息を吸い、吐く。
もう一度吸おうとして、そのまま、呼吸は途切れた。
夜は、雪の音だけを連れて窓の外を通り過ぎていった。
◇ ◇ ◇
数日後。
薄曇りの空の下、簡素な葬儀が行われた。
参列者は多くなかったが、記録局の同僚たち、昔の戦友、勇者の家からの花束も届いていた。
ミレイは、涙を拭く暇もなく、葬儀が終わったその足でヨルンの部屋の片付けに取り掛かった。
局長から、「遺稿や文書を整理して、局に運んでほしい」と頼まれていたのだ。
机の上の原稿束は、既に布で丁寧に包まれている。
『戦後記録 第一巻』と書かれた方の束は、局に運ぶための箱に慎重に収めた。
問題は、もう一つの束だった。
「別稿」と走り書きされた紙束は、表向きの原稿に比べて紙が薄く行間も狭い。
そこには、公式には書けなかった名前や公表されなかった事件の詳細、誰かが意図的に見えなくした数字の補足がびっしりと詰め込まれていた。
ミレイは束を手に取り、しばらく黙っていた。
これを局にそのまま持ち込めば、間違いなく議論になる。
「どこまで公開するか」
「そもそも公式記録として認めるのか」
最悪、焼却炉行きになる可能性もある。
彼女は、紙束を胸に抱え、部屋の中を見回した。
ふと、視線が一冊の古い本に止まる。
棚の隅に、場違いなほど分厚い法令集が一冊。
背表紙は擦り切れ、金の文字もほとんど読めない。
――エルネストさんが、昔触っていた本。
だいぶ昔、記録局の保管庫で「法令集の中に写本を隠した」という話を聞いたときのことをミレイは思い出していた。
彼は冗談めかして、こう言った。
『誰も読みたがらない本の中に隠すのが、一番安全だ』
ミレイは法令集を手に取り、表紙の端を指先でそっと押した。
縫い目が、わずかに浮く。
慎重に布を剥がすと、中から薄い冊子が現れた。
紙は黄ばみ、インクはところどころ薄れている。
それでも、かつてヨルンが夜毎に書き写した文字がそこには確かに残っていた。
魔族収容区の、あの朝の空気。
反乱の夜の、火の粉と叫び。
勇者の、誰にも聞かれなかった言葉。
彼が「いつか燃やされるかもしれない」と覚悟しながら残した記録が、法令集の中で息を潜めていた。
ミレイは、しばらくその場に立ち尽くした。
腕の中には、二つの束。
一つは、世界に向けて差し出されるべき、整えられた記録。
もう一つは、世界から隠されるはずだった、あまりに生々しい記録。
どちらも、ヨルン・エルネストの一部だ。
どちらか一方だけを運ぶことは、彼の仕事を半分だけ切り取ることになる。
ミレイは、静かに息を吸った。
そして、両方の束を抱え直した。
「……好きにしろ、って顔してましたよね、きっと」
誰もいない部屋で、彼女は小さく笑った。
雪は、いつの間にか止んでいた。
窓から差し込む冬の光が二つの束の上に落ちる。
その重さを両腕に感じながら、ミレイは階段を降りていった。
◇ ◇ ◇
──【ミレイ・カーター書簡(後年)より抜粋】
エルネストさんの死の翌日、私は二つの束を抱えて記録局に向かった。
一つは、世界に見せるための記録。
戦後三十年までの出来事を、可能な限り公平に、穏やかにまとめた稿。
王国の印章を押され、書庫に収められ、
いつでも誰もが閲覧できるようになるべき記録。
もう一つは、世界から隠されるはずの記録だった。
焼却炉に投げ込まれてもおかしくなかった写本。
法令集の表紙の裏に縫い込まれ、誰の目にも触れないまま朽ちるはずだった紙束。
私は、その両方を抱えて階段を降りた。
どこまでを公開し、どこまでを隠すべきかという議論は、
きっとこの先、何度も繰り返されるだろう。
その議論に、彼自身はもう立ち会えない。
だからこそ、彼は“二つの束”を残したのだと、今では思う。
世界に語るための言葉と、
世界に語れなかった言葉。
その両方を抱えたまま、
私たちは「戦後」を生きている。
老記録官の最後の一頁は、彼自身の死をもって閉じられた。
だが、その頁の余白に私たちはなお文字を書き足し続けている。
――それが、彼から託された仕事なのだと、私は信じている。