“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~   作:こじまたり

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第16話 地下朗読会

 戦争を体験したことのある世代が、ごく少数になったころ。

 

 王都の中心部では四代目の勇者像が広場の真ん中に立ち、その台座には「真なる歴史を守れ」と刻まれた新しい銘板が嵌め込まれている。

 

 勇者教会の塔は城よりも高くなり、鐘の音は一日の始まりと終わりを誇らしげに告げていた。

 

 その鐘の音が届きにくい場所が、王都にはいくつか残っていた。

 

 混血街。

 川沿いの湿った土地。

 酒と煙と、ささやき声の集まる路地。

 

 その地の、さらに下。

 

◇ ◇ ◇

 

 ある夜。

 

 混血街の外れにある古い酒場の裏口から、数人の人影が順番に地下への階段を降りていく。

 階段は急で、石は何度も磨り減っている。

 地下室には窓はなく、湿った土と古い酒樽の匂いがこもっていた。

 

 天井から吊るされたロウソクが細い炎を揺らしている。

 

 樽をひっくり返した即席の椅子に、人々が腰を下ろし、静かに時を待つ。

 

 角の名残を持つ混血。

 角も牙も持たない人間。

 かつての魔族の血を、その肌や瞳の色に薄く残す者。

 

 皆、日陰者と呼ばれる者たち。

 

 その輪の中に、白髪混じりの男が座っていた。

 

 ボールドン。

 

 古書店の隅でヨルン・エルネストの写本を見つけ、床下に隠し、仲間内で回し読みしていた混血の若者は、今では、混血街の「年長者」と呼ばれる側になっていた。

 

 背筋はまだまっすぐだが、目の端には皺が刻まれ、指には硬い節くれが見えた。

 その膝の上には、古ぼけた紙束が一束。

 

 何度も綴じ直された跡。

 ページの端は丸くなり、インクはところどころ薄くなっている。

 だが、その表紙は、今でもかすかな文字が読めた。

 

 『戦後記録 第一巻』

 

 ヨルン・エルネストの名は、今では禁書指定の告示の中でしか見かけない。

 だが、この地下室では真実を語る口のように扱われていた。

 

◇ ◇ ◇

 

「今日は、ここからだ」

 

 ボールドンは、ロウソクの光に紙束を近づけ指で一行をなぞった。

 集まった者たちの顔が淡い光に浮かび上がる。

 

 混血の若者たち。

 教会の教義に違和感を抱き、勇者像の足元で行われる儀式を遠巻きに見るようになった人間の青年など、さまざま。

 

 そして、その中にひとり、異質な存在があった。

 

 年配の人間。

 まるで教会のローブを着ているように見えるが、袖には勇者教会の印はない。

 

 王都大学の歴史学者――と呼ばれている男だ。

 

 本名をここで口にする者はいない。

 彼は、自分のことを「ケッセル」と名乗っていた。

 

 別に、本名であっても偽名であっても構わない。

 この地下では、“表の身分”は邪魔になるだけだ。

 

 ボールドンは、ゆっくりと読み始めた。

 

「『……勇者は英雄であった。

 

  だが同時に、彼はただの人であり、

  戦場で血を流し、

  戦後に迷い、

  時に自分の言葉が利用されることに戸惑っていた。

 

  私は彼と幾度か言葉を交わし、

  その素朴さと誠実さに打たれた。

 

  だからこそ、

  その言葉が加工され流布されることを

  私は恐ろしく思う。』」

 

 ゆっくりとした、

 しかし噛みしめるような声。

 

 聴いている者の中には、目を閉じて耳だけに集中している者もいる。

 ボールドンはページをめくり、続きの行を追った。

 

 

「『勇者は決して、

  「魔族を一人残らず滅ぼせ」

  とは言わなかった。

 

  彼は、

  “もう誰も殺したくない”と、

  私に語った。

 

  その言葉は、公式記録には残されていない。

  だが、私の耳はそれを聞いた。

 

  私の手は、その震えを覚えている。』」

 

 

 読み終えると、部屋の中にしばし沈黙が落ちた。

 ロウソクの炎がわずかに揺れる。

 

 沈黙を破ったのは、混血の若い女だった。

 

「……それが本当なら、なぜ私たちはこんな目に合ってるんでしょう」

 

 彼女は、自分の額の小さな角を指で触れながら言った。

 

「教会では、“勇者は魔族とその血を憎んでいた”、と。

 “混血は勇者の慈悲を踏みにじる存在だ”って。

 でも、この記録だと――」

 

「この記録では、勇者は“魔族”を憎まず“騒乱”を避けようとしていたように思う」

 

 言葉を継いだのは、ケッセルだった。

 彼は手帳に何かを書きつけながら、静かな口調で続ける。

 

「ヨルン・エルネストは勇者と直接言葉を交わした。少なくとも、彼はそう書いている。

 教会の公式記録は、勇者の言葉を都合よく編集した。

 どちらを“本当”とするかは……

 いや、“どちらも本当かもしれない”と考えるのが、本来の歴史の読み方だ」

 

「どっちも、本当?」

 

 若い混血の男が眉をひそめる。

 

「勇者が“もう誰も殺したくない”と言ったのも本当。

 その後“魔族との混血は許されない”とする教義が作られたのも本当。

 もしかしたら、勇者、という存在すら作られたものだったのかもしれんしな」

 

 ケッセルの言い方は、まさしく大学の教壇で弁を振るうようだった。

 

 彼は、表では「王国史概論」の講義で勇者教義に沿った歴史を教える立場にある。

 その舌で、ここでは別の歴史の読み方を語っている。

 

 その矛盾を抱えたまま、彼はこの地下室に通っていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 輪の少し外側で、ひとりの男が壁にもたれて座っていた。

 鋭い目つきだが、体は華奢で混血でも魔族でもない。

 

 若い人間の男だ。

 

 誰かが彼を紹介したときには、「日銭を稼いで何とか凌いでいる」と言っていた。

 名はあまり呼ばれない。

 

 彼は、ボールドンの朗読を一言も漏らすまいとするように聴いていた。

 だがその目には、熱と同時にどこか冷めた光もあった。

 

 感動と警戒が、同じ瞳の中に共存している。

 

 ボールドンが読み終えた後、彼が口を開いた。

 

「……勇者が本当に居たとして、奴さんも俺たちみたいに苦しんでたのかな」

 

「そうだな」

 

 ボールドンはうなずいた。

 

「勇者も王も、間違いもする。迷いもする。

 ヨルンは、その“迷い”を書こうとした」

 

「それで、その迷いを書いたことで、“彼”はどうしたかったんですかね」

 

 男は、壁にもたれたまま言った。

 

「俺も、この本を読んで勇者が“魔族を目の敵にしてる”なんてことはないって知って、少しは救われた気がしやしたよ。

 でもね、混血街の子どもは相変わらず“罪の証”ってやつを背負ってる。

 勇者教会は休息日ごとに“真なる歴史”とやらを説いてる。

 歴史を書き換えたって、俺たちの明日の飯が増えるわけじゃない」

 

 その言葉に、場の空気が少しだけざらついた。

 

 ケッセルが、若者を宥めるような声色で話しかける。

 

「しかし、こうして本当のことを知るのは――」

 

「“本当”って、誰が決めるんですか」

 

 男は、鋭い視線をケッセルに向けた。

 

「ヨルンって人の記録が本当で、教会の本は嘘だって、どうやって言い切れるんです」

 

 ケッセルは、一瞬黙った。

 

 その沈黙は、「答えに窮した」というより、「安易な答えを選ばないため」の間だった。

 

「言い切れない」

 

 やがて彼は言った。

 

「だからこそ、複数の“歴史”を並べて読む必要がある。

 教会の本。

 王立記録局の公式史。

 ヨルンの記録。

 混血街の口伝。

 

 それ以外にもだ。

 

 それらを全部読んだ上で、それでもなお分からないところが残る。

 

 その“分からなさ”を抱えたまま、今どう生きるかを考えるのが本来の歴史の役割だと、少なくとも私は思っている」

 

「分からなさ、ねえ」

 

 男は鼻で笑った。

 

「分からないまま殺される奴もいるんですよ」

 

 誰も、軽々しく返事をしなかった。

 ロウソクの炎が、またひとつ短くなっていく。

 

◇ ◇ ◇

 

 地下朗読会は、最初は十日に一度程度だったが次第に頻度が上がっていった。

 

 混血街の住人だけでなく、勇者教会に疑問を抱く人間の若者や、元・魔族の古老も顔を出すようになった。

 

 ヨルンの文章が読み上げられるたび、誰かの顔が少し変わる。

 

 勇者を「神」として崇めていた者が勇者を「人間」として捉え直し、

 自らを「罪」としてしか見られなかった混血が自分の血を「歴史の続き」として感じ始める。

 

 それは、静かだが確かな揺らぎだった。

 しかし、揺らぎは往々にして誰かにとっては「危険」に映る。

 

 地下室の空気には、いつからか別の匂いも混じり始めていた。

 

 疑い。

 警戒。

 裏切りの可能性。

 

◇ ◇ ◇

 

 ある夜。

 

 朗読会が始まる前に、ボールドンは出入口の階段を振り返った。

 その上には、酒場の裏口がある。

 

 今日も見張り役の男がひとり、階段の途中に座っている。

 彼は、外の気配に敏感な耳を持っていた。

 

 人間と魔族の混血。

 

 外では「耳ざとい厄介者」と呼ばれるが、ここでは頼りになる者だ。

 

「今日は?」

 

 ボールドンが声をかけると、男は肩をすくめた。

 

「今のところ、教会の袖を付けたのは通ってない。

 だが……最近、見慣れない顔がうろついてるみたいだな」

 

「最近は新顔も増えたからな」

 

「いや。目つきが“何かを探している”目だ」

 

 男は、酒場の表の方を顎でしゃくった。

 

「あんたが前に言ってたろ。

 “歴史を狩りに来る目”って、どんな目かって話。あれに近い」

 

 ボールドンは、胸の奥がざわつくのを感じた。

 

 ヨルンが生きていた頃から、「記録を燃やそうとする者たち」はいつも静かに近づいてきた。

 

 顔を変え、服を変え、時代に合わせた口実を持って。

 

「誰が裏切るか分からん」

 

 ボールドンは、自分の手を見下ろした。

 

 この手は、写本を守ってきた手であり、同時に、自身の生活を守るために多くの妥協をしてきた手でもある。

 

 誰かを責めることは簡単だ。

 

 だが、人は皆、恐怖と飢えの前で揺れる。

 

 そのことを、彼はヨルンの記録から嫌というほど学んでいた。

 

◇ ◇ ◇

 

 それから間もなく、小さな事件が起きた。

 

 地下朗読会の常連のひとり――

 混血街で靴職人をしている男が、ある日姿を消した。

 

 数日後。

 勇者教会の前に、「異端者を捕らえた」と喧伝する張り紙が掲げられた。

 

 そこには、男の名と罪状が記されている。

 

 「禁書を所持し、

  異端の言説を広め、

  勇者と王への信仰を揺るがそうとした罪」

 

 混血街には、噂がすぐに回った。

 

 「酒場の地下で、何かを読んでいたらしい」

 「誰かが密告したんだ」

 

 ボールドンたちは、直接その張り紙を見に行くことはしなかった。

 

 だが、地下室の空気はそれ以降、明らかに変わった。

 朗読の声は、以前よりも小さく、囁きに近くなった。

 集まる人数も、少しずつ減っていった。

 

 それでも来る者は、以前よりも覚悟の色が濃い。

 

 ケッセルは、その夜、自嘲気味に笑っていた。

 

「歴史を読むことが、“罪”になる時代だ。

 だが、こういう時代は実は珍しくない。

 どの時代にも“危険な本”があって、誰かが地下でそれを読んでいる」

 

「そういう場所に、貴方もよく顔を出しましたね」

 

 ボールドンが皮肉を込めて言うと、ケッセルは肩をすくめた。

 

「私の研究対象が、“禁止された記録”だからな。

 表で堂々と読むことができない以上、こういう場所に来るしかない」

 

「捕まった靴職人のことは……」

 

「すまないが、私にできることは多くない」

 

 ケッセルは、真っ直ぐボールドンを見返した。

 

「ただ、ひとつだけ言えるのは、“誰かが捕まったからといって、歴史の流れそのものが止まるわけではない”ということだ。

 むしろ、誰かの犠牲の上に別の誰かが“書き続ける理由”を見つける」

 

 ボールドンは、その言葉を簡単に飲み込むことができなかった。

 犠牲を美談にすることほど、ヨルンが嫌ったものはない。

 

 だが同時に、ヨルン自身もまた、幾つもの「犠牲の上」に文字を書いていた。

 

 この矛盾をどう扱えばいいのか。

 彼は、自分の胸の中の“分からなさ”を手の甲でなぞるように意識した。

 

◇ ◇ ◇

 

 地下朗読会は、やがて場所を変えた。

 

 あるときは修理工場の倉庫の奥。

 またあるときは川沿いの廃屋の二階。

 

 集まる人数は十人に満たないことも多くなったが、その代わり、そこには新しい顔も混じっていた。

 

 勇者教会の内部から、教義に疑問を抱いた若い助祭。

 王都大学の学生でありながら、教科書に載らない「戦後」のことを知りたがる者。

 

 ヨルンの記録は、地下で細々と読み継がれながら少しずつ別の層へと滲み出していった。

 

 誰かが、それを元に簡単な要約を書いた。

 誰かが、その要約をさらに噛み砕いて別の紙に写した。

 

 そのうち、「ヨルン」という名前だけが独り歩きし始める。

 

 “勇者を貶めた異端者”としてではなく、

 “救われなかった者たちの名を記した男”として。

 

◇ ◇ ◇

 

 ある朝。

 

 王都のあちこちの壁に一枚のビラが貼られているのが見つかった。

 紙は粗末で、インクも安物だ。

 

 だが、その文言は読み手の目を離させない力を持っていた。

 

 誰が書いたのかは分からない。

 誰が撒いたのかも分からない。

 

 ただ、そのビラの末尾には、どこか見覚えのある文体がかすかに滲んでいた。

 

──【匿名のビラより抜粋】

 

 『彼らは言う。

  “勇者はすべてを救った”と。

 

  教会の鐘は、そう繰り返し、

  子どもたちの耳に染み込むまで鳴り続ける。

 

  だが、救われなかった者たちがいた。

 

  柵の中で忘れられた魔族。

  石碑にも刻まれなかった戦死者。

  英雄の影に押し潰された子どもたち。

  混血という名で括られた私たち。

 

  その名を記した男がいた。

 

  その嘆きと迷いを、

  自らの震える手で紙の上に残した記録官がいた。

 

  その名は、ヨルン・エルネスト。

 

  彼の書は、勇者を貶めるためのものではない。

 

  “すべてが救われた”と嘘をつくのではなく、

  救われなかった者たちの存在を、

  消さないためのものだ。

 

  あなたが、

  勇者を愛するなら、

 

  どうか覚えてほしい。

 

  英雄譚の外側で、

  なお続いている戦後があることを。』

 

 ──と。

 

 それは、歴史の教科書にも、勇者教会の説教にも載らない文だった。

 

 だが、その紙片を読んだ誰かの胸の中で、小さな火が灯ったことだけは確かだった。

 

 その火がこれからどう燃え広がるのか。

 あるいは、すぐに踏み消されてしまうのか。

 

 知る者は、まだ誰もいない。

 

 ただ一つ言えるのは。

 

 王都の地下で読み上げられた老記録官の文章は、焚書の炎にも、禁書の告示にも消されず、別の言葉、別の声となって、歴史の底を流れ続けている――ということだけだった。

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