“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~   作:こじまたり

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第17話 書く人、読む人

 戦争、という言葉が、講義の中でしか聞かなくなってきた。

 

 王都は、もはや「戦後」ではなく次の時代の名を求めている。

 だが、その名はまだ定まらない。

 

 勇者教会は、新たな礼拝堂を郊外にまで広げ、

 王都大学は、「王国史学部」を増設し、

 

 歴史は、教義と学問の間で引き合いにされ続けていた。

 

 そして、そのどちらにも属しきれない記録があった。

 それは、ヨルン・エルネストの『戦後記録』。

 

◇ ◇ ◇

 

 王立記録局の執務室。

 

 かつて保管庫の棚の影で老記録官に怒鳴られていた少女。

 今では大きな机の向こう側に座っている老女。

 

 ミレイ・カーター、局長。

 

 眼鏡の奥の視線は鋭いが、その目尻には、長年の疲れと、消えない澱のようなものが刻まれている。

 

 机の上には、報告書の束と民衆騒擾の記録が積み重なっていた。

 

 「混血街周辺にて小規模な暴動発生」

 

 「勇者教会支部の前で“異端的ビラ”のばら撒き」

 

 「記念碑前での座り込み抗議」

 

 いずれも、「小規模」「速やかに鎮圧」と記されている。

 だが、その行間からミレイには別の文字が透けて見えた。

 

 ――ヨルン・エルネストの名。

 

 拘束された者の中には、地下朗読会に出入りしていた者がいたという。

 押収された品目の欄には、「禁書“戦後記録”の写し」「ヨルンの名を記したビラ」

 

 そうした記述がじわじわと増えつつある。

 

 ヨルンの残した記録が、地下から浮上し別のかたちで世間を揺らし始めている。

 それは、彼女自身がかつて望んだことのようでいて、望まなかったことでもあった。

 

「……あの人は、こんな使われ方を望んでいたかしら」

 

 ミレイは、机の引き出しから古いノートを取り出した。

 

 そこには、若き日の彼女が書いた覚え書きと、ヨルンの言葉が走り書きで残っている。

 

――『書かれたものは、

   読む者のものになる。

 

   書き手は、それを恐れなきゃいかんが、

   同時に、手放す覚悟もせにゃならん。』

 

 今なら分かる。

 

 ヨルンは、自らの記録が自分の手を離れた先でどう使われるか分からないことを、最初から知っていた。

 

 だが、その覚悟があったとしても――

 

 ミレイは、最近の暴動報告書の束に目を落とした。

 歴史書が、石や火炎瓶や殴り言葉の代わりに掲げられている光景が、彼女の頭の中にありありと浮かんだ。

 

 そこにいるのは、「ヨルンに救われた」と言う者たち。

 だが彼らは時に、ヨルンの名を盾として振りかざす。

 

 “ヨルンもこう言っている!”

 

 “本当の歴史はこっちだ!”

 

 その叫びは、勇者教会の説教とどこか鏡合わせに見えた。

 

◇ ◇ ◇

 

 その頃、混血街の酒場の隅ではボールドンがケッセルと向かい合っていた。

 

 地下朗読会の常連たちは、最近の空気の変化を肌で感じていた。

 

 ある者は、ヨルンの文章を引用して教会の行列にヤジを飛ばすようになり。

 ある者は、新しいビラを作って勇者像の台座に貼り付けることに快感を覚え始めていた。

 

 「ヨルン信者」という言葉さえ、混血街の一部では半ば冗談、半ば本気で使われている。

 ボールドンは、その響きに薄ら寒いものを感じていた。

 

「……紹介したい人がいる」

 

 ケッセルが酒杯を指で回しながら言った。

 

「ヨルン・エルネストに直接師事していた人だ。

 今は、王立記録局のトップだが――

 お前に会っておいた方がいい」

 

「ヨルン、に」

 

「そうだ。ミレイ・カーター局長。

 俺は学者として、彼女とは何度か意見を交わしたことがある。

 お前は“読む人間”の代表みたいなものだ。

 “一番近くにいた人間”の声を、一度きちんと聞いておいた方がいい」

 

 ボールドンは、しばらく黙った。

 地下でヨルンの文章を朗読し、それに耳を傾けてきた年月。

 いつの間にか、彼の中でヨルンは「ただの人間」から「象徴」に変わりつつあった。

 

 勇者教会が勇者を神格化したように。

 

「……会ってみたいですね」

 

 やがて彼は言った。

 

◇ ◇ ◇

 

 会合は、記録局本館の裏手にある小さな庭で行われた。

 

 夕暮れ時。

 

 局長室に迎え入れるわけにはいかない。だが、全くの他人のふりをするつもりもない。

 その折衷案として、庭の片隅のベンチが選ばれた。

 

 ミレイは黒い簡素な上着の上にショールを羽織り、ベンチに腰を下ろしていた。

 

 ボールドンは、場違いな気がして仕方がなかった。

 混血街の湿った空気とは違う、乾いた書類の匂い。

 庭に植えられた木々は手入れが行き届き、枯れ葉もすぐに片付けられている。

 

 ケッセルが軽く会釈する。

 

「局長。例の“読者”を連れてきました」

 

「そんなかしこまった言い方は止めて頂戴」

 

 ミレイは、わずかに笑った。

 

「ボールドン、だったかしら」

 

「はい」

 

 ボールドンは、自分の角に無意識に触れた。

 

「混血街の……」

 

「知っているわ」

 

 ミレイは彼の手の動きに目をやり、ふっと視線を戻した。

 

「あなたたちが、地下でヨルンの文章を読んでいることも」

 

 ボールドンは言葉を失った。

 ミレイは、ケッセルから視線を外しまっすぐボールドンを見た。

 

「怒ってはいないわ。

 あの人は、自分の書いたものが地下に潜る可能性を分かっていた。

 だからこそ、あれほど“焚書”を嫌がっていた。

 燃やされれば、地下にしか居場所がなくなるから」

 

「……局長は、ヨルンさんのことをどういう人だと思っていますか」

 

 ボールドンは、思い切って聞いた。

 自分の中で膨らみつつある「ヨルン像」が、何か歪んでいるのではないかという不安があった。

 

 ミレイは、少しだけ考えてから答えた。

 

「面倒な人」

 

 あまりにも即答だったので、ボールドンは思わずぽかんとしてしまった。

 ケッセルは少し肩を震わせる。

 

「頑固で、融通が利かなくて、命知らずのくせに、自分で自分を“弱虫だ”と言い続けていた。

 英雄でも聖人でもない。

 ただ、“目を逸らせない性質”を持っていただけの人」

 

 ミレイは、ベンチの背にもたれた。

 

「戦後の汚いところも、

 魔族の柵の中も、

 復興利権も、

 戦犯裁判の裏側も。

 

 あの人は、それがあると知ってしまったら、見なかったふりができない。

 だから書くしかなかった。

 書くことで、自分が“見たもの”から逃げないようにしていた。

 たぶんそれだけ」

 

 ボールドンは、自分の胸の中にあった「ヨルン像」が少しずつ形を変えていくのを感じた。

 

 人々が言う“真実の歴史の預言者”ではなく、ただ、目を逸らせなかった一人の人間。

 

「……じゃあ、俺たちがヨルンさんを“旗印”みたいに使ってるのは間違いなんでしょうか」

 

 口に出してしまうと、それは告白になった。

 

「勇者教会が勇者様を掲げて、いろいろとやっているのと俺たちは何が違うんでしょう。

 地下でヨルンさんの文章を読んで、“こっちが本当の歴史だ”って叫ぶのは結局、神様の名前を変えただけなんじゃないかって……」

 

 ミレイは、ボールドンの顔をじっと見つめた。

 

 その瞳には、若い頃の自分が抱いていた同じ種類の迷いが薄く映っている気がした。

 

「違いがあるとしたら――」

 

 彼女は、ゆっくりと言葉を選んだ。

 

「勇者教会は、“問いを終わらせるため”に勇者の名を使っている。

 “こう書いてあるから、こう信じなさい”と。

 ヨルンは、“問いを始めるため”に文章を書いた。

 “こう見えたが、本当はどうなのだろう”と。

 もしあなたたちが、ヨルンの名前を使って“問うこと”ではなく“決めつけること”を始めたなら――

 そのときは、勇者教会と同じになってしまうかもしれない」

 

 ボールドンは拳を握りしめた。

 

 地下朗読会での議論。

 

 「勇者はただの人間だった」と言うことで救われる者もいれば、その一言を新しい棍棒のように振り回す者もいた。

 

 “勇者信者を殴るためのヨルン信仰”。

 そんなものになりかけていたのかもしれない。

 

◇ ◇ ◇

 

 ミレイが床に伏すようになったのは、その出会いから数年後のことだった。

 

 病状は緩やかだが確かに進み、かつてヨルンの枕元に立っていた女は、今、自らの枕元で、別の世代の「読む人間」を迎えていた。

 

 薄暗い部屋。

 

 窓際には、干した花束が吊るされている。

 

 机の上には、ミレイが局長として仕上げたいくつかの報告書と、若い記録官が整理途中の新たな年表が置かれていた。

 

 ベッドの脇の椅子に、ボールドンが座っていた。

 ケッセルは、扉の近くで黙って立っている。

 

 ミレイは、天井を見つめていた視線を二人に向けた。

 

「……また、地下で騒ぎがあったそうね」

 

 声はかすれているが、言葉ははっきりしている。

 

「すまない」

 

 ボールドンは頭を下げた。

 

「俺たちが朗読会を続けたせいで、あちこちで暴れ出す奴らが出てきた。

 ヨルンさんの言葉を、“武器”にしている奴らがいる。

 俺は……

 ヨルンさんの思いを間違って解釈していないか、怖くなってきたんです」

 

 ミレイは、小さく笑った。

 

「“解釈を間違えない読者”なんて、この世にいると思う?」

 

 ボールドンは顔を上げた。

 

「書かれたものは、書いた瞬間から読む人間の手に渡る。

 読む人間は皆、自分の傷と願いを抱えている。

 同じ一行を読んでも、十人いれば十通りの受け取り方をする。

 ヨルンは、それを知っていて書いていた。

 だからこそ、“自分の記録がすべてだ”とは決して言わなかった」

 

「でも……」

 

「大事なのは、“間違えないこと”じゃない。

 “間違えるかもしれない”と自覚した上で、読むことをやめないこと。

 それと、自分の解釈を、他人に殴りつける道具にしないこと」

 

 ミレイは、浅く息を吸った。

 

「ヨルンは、自分の記録が“武器”になることを恐れていた。

 でも同時に、“誰かにとっての盾”にも“鏡”にもなることを信じていた。

 あなたが、ヨルンを神様にしない限り、あの人は怒らないわ」

 

「神様に……」

 

「“ヨルンがこう書いているから、世界はこうあるべきだ”

 そう言い始めたら、それはもう神格化よ。

 あの人はきっと、ベッドの上でひっくり返るわ」

 

 ボールドンは、涙をこらえながら小さく笑った。

 

 笑いと涙は、同じ場所から出てくる。

 胸の奥が痛かった。

 

「俺、どうすればいいんでしょうね」

 

「……あなたは、“読む人”よ」

 

 ミレイの声は、少しだけ小さくなっていた。

 

「だったら、一度くらい、“書く人”の苦労も知っておきなさい。

 世界を見て、自分の目で。

 他人の言葉じゃなくて、自分の言葉で何かを書いてみるといい。

 それが、ヨルンがあなたに望むことだと、私は勝手に思っている」

 

 ボールドンは、その手を握った。

 骨ばっていて、軽い。

 

 だが、その手には、何十年分もの書類と読んだ文字の重みがまだ残っているように感じた。

 

「……局長」

 

「ミレイでいいわ」

 

 彼女は、まぶたを少し下ろした。

 

「私があなたに伝えられるヨルンの思いは、これで全部。

 あとは、あなたたち読者が、どういう“続き”を書くかの問題よ」

 

 その夜、ミレイ・カーターは静かに息を引き取った。

 

 彼女の残した報告書と、未完の覚え書きは、後に「記録局長ミレイ手稿」として別の棚にまとめられることになるが、それはまた別の話だ。

 

◇ ◇ ◇

 

 ミレイの葬儀から程なくして、ボールドンとケッセルは地下朗読会の終わりを告げた。

 場所は、かつて最初の朗読会が行われた酒場の地下。

 

 集まった顔ぶれは、以前よりも少ない。

 だがその分、ここにいる者たちの表情には、濃い迷いと決意が混ざっていた。

 

 ボールドンは、ロウソクの灯りの下で紙束を見つめた。

 

 ひび割れた表紙。

 何度もめくられた跡。

 

 ヨルンの文字は、今でもそこにある。

 

「……俺たちは、ここで長いあいだヨルンの文章を読んできた」

 

 ボールドンは、ゆっくりと言った。

 

「それで救われた奴もいる。

 勇者教会だけが“真実”じゃないって知って、息がしやすくなった奴もいる。

 俺も、その一人だ」

 

 何人かが、小さく頷いた。

 

「でも、最近は――これを盾にして、誰かを殴る奴が出てきた。

 ヨルンの名を使って、石を投げる奴もいる。

 それは違う。

 少なくとも、俺がヨルンから受け取った“続き”は、そうじゃない」

 

 左右で瞳の色が違う男が、眉をひそめた。

 

「じゃあ、俺たちは黙って殴られてろって言うのか」

 

「殴るなとは言ってない」

 

 ボールドンは首を振った。

 

「殴られるなら、ヨルンの名前を使わずに殴れって言ってる。

 自分の怒りに、他人の言葉を巻き込むな。

 自分の暴力に、ヨルンの記録を借りてくるな」

 

 別の者が、苛立ちを隠さずに口を挟んだ。

 

「歴史を読んで、何も変えようとしないなら、読む意味なんてあるのかよ」

 

「変えようとするなとは言ってない」

 

 ボールドンは、ひとつひとつ否定形を外すように答えた。

 

「ただ、“ヨルンがこう書いているから”という理由で何かを変えようとするのは違う。

 変えたいなら、自分の目で世界を見て、自分の言葉で理由を書け。

 ヨルンの文章は、そのための出発点であって、殴るときの口実じゃない」

 

 ケッセルが横から静かに口を挟んだ。

 

「歴史を読むのは、“与えられた物語”に疑問を持つためだ。

 だが、新しく手にした歴史をまた“与える物語”にしてしまえば、同じことの繰り返しになる。

 だから俺は、これ以上“ヨルン読み”が暴力の燃料になるくらいなら、ここで一度、終わらせたい」

 

 沈黙。

 

 納得した顔。

 納得していない顔。

 

 それぞれの胸の中で、ヨルンの一行一行が別々の意味を持っている。

 それ自体は、きっと自然なことだ。

 

 ただ、その自然な違いがこれ以上血を呼ばないことを、二人は願っていた。

 

「……俺は、旅に出る」

 

 ボールドンは、突然そう言った。

 数人が顔を上げる。

 

「王都の外にも、きっと戦後はある。

 混血街の外にも、“赦されなかったままの者たち”がいる。

 ヨルンは、一つの王国の中で見える限りを書いた。

 俺は、読むだけじゃなくて、自分の目で見てみたい。

 そして、いつか自分の言葉で何かを書けたら――

 それはきっと、“ヨルンの続き”じゃなくて“俺の始まり”になるはずだ」

 

 誰かが、

 「勝手だな」と呟いた。

 

 誰かが、

 「うらやましい」と笑った。

 

 誰かが、

 ただ黙って目を伏せた。

 

 朗読会は、その夜を最後に、明確な形を持って開かれることはなくなった。

 

 ヨルンの文章は、もう闇の中で声に出されるのではなく、それぞれの胸の内で静かに読み返されるものになっていく。

 

◇ ◇ ◇

 

 混血街の小さな部屋。

 ボールドンは、旅支度を整えていた。

 

 布袋。

 雨除けのコート。

 わずかな金。

 

 そして、薄く綴じ直した一冊の写本。

 

 ヨルンの『戦後記録』から、いくつかの章だけを抜き出して自分で製本したものだ。

 それは、彼にとっての「持ち歩ける地下朗読会」だった。

 

 床板の下には、もう一冊、元の写本が大事に隠されている。

 それは、ここに残る者たちのための「古い火種」だ。

 

 部屋を出る前、ボールドンは机に座り、ノートを開いた。

 

 炭筆を握りしめ、しばらく迷った末にいくつかの行を書き付けた。

 それは、彼が「読む人」から「少しだけ書く人」に足を踏み出した瞬間でもあった。

 

──【ボールドンの手記より】

 

 『――我々は、

  都合のいいように歴史を解釈しようとしていたのかもしれない。

 

  まるで、勇者教会と同じように。

 

  彼らは、

  勇者の言葉を選び取り、

  自分たちの教義に合う形で並べ替えた。

 

  我々もまた、

  ヨルンの言葉を選び取り、

  自分たちの怒りや希望に合う形で

  並べ替えようとしていた。

 

  それが、

  彼の意図とどれほど離れているのか、

  今の私には分からない。

 

  だからこそ、

  薄暗い地下で本を読むだけでなく、

  世界を見てみることにした。

 

  教会の書庫にも、

  記録局の棚にもない“戦後”が、

  きっとどこかにあるはずだ。

 

  それを見たとき、

  私はヨルンの文を、

  もう一度、最初から読み直すだろう。』

 

 ──と。

 

 その頁を閉じると、ボールドンはゆっくりと扉を開けた。

 外の空気は冷たく、川の匂いがした。

 

 勇者教会の鐘の音が、遠くで鳴っている。

 

 それとは別に、どこか別の場所でまだ見ぬ「誰かの歴史」が小さくページをめくる音を立てている――

 

 そんな気がした。

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