“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~ 作:こじまたり
山に向かうのは初めてだったが、見た目に感じる距離よりも遠かった。
村を出る前、ボールドンはアルンたちと地図を広げて道筋を確認していたのを思い出す。
山脈は北に長く連なり、どこから越えても険しい。
「ここら辺ならまだ道がある」とリェルが指差していた峠を目指して、彼は歩き出した。
それから、幾度か季節が変わった。
川沿いの道を進み、小さな町で数日の宿を借り、物資を買い足す。
預かった手紙を懐の内側で確かめる。
くしゃくしゃにならないようにそっと撫でると、彼らの思いが自分を後押ししてくれるような気がした。
◇ ◇ ◇
山に入ると、空気の質が変わった。
風の音が、低く唸るように聞こえる。
木々は背が低くなり、やがて岩と苔ばかりの世界になった。
夜には、焚き火の灯りが頼りない。
星は王都よりもずっと多く、手を伸ばせば掴めそうなほどだが、その光は寒さを和らげてはくれない。
ボールドンは予備の外套をすべて重ね、手袋の中の指先を何度もこすり合わせながら歩いた。
山道は、獣が歩いた痕跡の名残のようなものがところどころに残っているだけで、それが本当に“道”と呼んでいいものか、確信が持てない瞬間も多かった。
それでも、彼は戻らなかった。
ヨルンが書いていない場所へ。
今はまだ白紙の場所へ、自分の足で行ってみたかった。
◇ ◇ ◇
数ヶ月が過ぎた。
食料は計画的に減らしていたが、それでも心許なくなってきた。
水は雪を溶かせば手に入る。
だが、体を温める燃料と、疲労の方が問題だった。
ようやく「峠だ」と思える場所に差し掛かった頃、問題は別の形で姿を現した。
獣の群れ。
最初に気づいたのは雪に残った足跡だった。
熊とも狼とも違う、長い爪を持つ四足の獣。
一人旅のエモノは、彼らにとっては格好の獲物だ。
気づいたときにはすでに囲まれていた。
低い唸り声。
雪を踏みしめる音。
ボールドンは、腰の短剣に手をかけた。
混血街で身につけた喧嘩の技術と、狩猟の心得がないわけではない。
だが、数の不利は明らかだった。
「これはまずいな」
口の中で呟いた瞬間。
一頭の獣が飛びかかってきた。
ボールドンは身を捻り、刃を振るう。
血が雪に散った。
だが、それが合図になった。
他の獣が一斉に距離を詰める。
視界の端が、黒と白の斑点のように揺れた。
――そのとき。
山の斜面の上から鋭い音がした。
弓弦が鳴る音。
次いで、甲高い悲鳴。
一頭の獣が、喉に矢を受けて倒れた。
さらにもう一度。
矢は正確に獣の急所を射抜き、その勢いを削いでいく。
「おい、こっちだ!」
声が飛んだ。
人の声だ。
低く、しかしよく通る声。
ボールドンは、雪を蹴って声の方へと走った。
残りの獣たちも追ってくる。
だが、斜面の上から降り注ぐ矢がその進路を切り裂いていく。
やがて獣たちは、数頭の死骸を残して撤退した。
山の静寂が、少しずつ戻ってくる。
◇ ◇ ◇
「生きてるか」
ボールドンが息を整えていると、雪を踏む音と共にひとりの男が近づいてきた。
老人だった。
灰色の髪を肩で縛り、背丈は高くないが、体つきには力が見受けられた。
背には弓。
腰には短剣。
目は山の気候と同じように冷たく鋭いが、そこに敵意はなかった。
「……助かりました」
ボールドンは頭を下げた。
「間に合ってよかった」
老人は淡々と言った。
言葉の響きは人間のそれだ。
魔族特有の訛りも、混血街で聞き慣れた混じり気もない。
「こんなところを一人でうろついていたら、食われるのがオチだぞ」
「肝に銘じます」
ボールドンが苦笑すると、老人もわずかに口元を緩めた。
「名は」
「ボールドンです。王都から来ました」
「王都から。ずいぶん遠くからだな」
老人はしばらくボールドンの顔を眺め、彼の耳と角に目をやった。
だが、特に何も表情には浮かべず、ふむ、と頷くだけ。
老人は、自分の胸を軽く叩いた。
「俺はアルノ。この山脈の向こうで暮らしている者だ」
アルノ――と名乗ったその名前に、ボールドンは一瞬胸のどこかが引っかかるのを感じた。
昔、そんな名前を聞いたことがある気がする。
だが、寒さで痺れた頭は答えを出してはくれなかった。
頭を振って、思考を切り替える。
今必要なのは、この山を越える事だ。
「魔族の土地に、手紙を届けに行きたいんです」
ボールドンは、懐から布包みを取り出した。
「山の南側の村から。
家族に、結婚を知らせたいと」
アルノは、封筒に書かれた宛名をちらりと見た。
「ここに書かれている場所なら、知っている。
簡単な道ではないが、ここまでこれたなら問題ない。
案内しよう」
それは、要求も見返りもない申し出だった。
ボールドンは深く頭を下げた。
「助かります」
「なに、気にするな」
アルノはそう言って肩をすくめた。
◇ ◇ ◇
アルノの案内は確かだった。
彼は、どの岩場が崩れやすいか、どの谷筋なら雪崩に巻き込まれにくいかを体で知っていた。
風の向きと雲の流れを見て、「今日はここまで」と判断する。
夜営の場所は慎重に選ばれ、焚き火の燃やし方も、煙が谷にこもらないよう工夫されていた。
ボールドンは、自分がどれだけ「山を知らないか」を思い知らされた。
「お前さん、書き物を読む口だな」
ある夜、火を囲んでいるときアルノが唐突に言った。
「どうして分かるんです」
「焚き火の起こし方がまるでお手本みたいだからな。
口伝で教わると癖が顔を出すが、お前さんにはそれがない」
ボールドンは笑った。
「王都で、少しばかり本を読んでいました」
「そうか、俺も昔はそうだった」
アルノは、懐かしそうに目を細める。
「剣の道を目指したが、芽が出なくてな。本ばかり読んでいた時期がある。
たまに顔を出してくれた人が、時折、贈り物として持ってきてくれた」
寒さのせいで寄っていた眉間の皺が、焚火の熱以外で溶けていく。
「その人は、俺を俺としてみてくれていた。色眼鏡でなく、な。
だが、俺はそれに答えられなかった。
どちら付かずに生きてきて、逃げて来たのさ」
誰かに聞いてほしかったのか、思いを吐露する彼にボールドンは何も言えなかった。
彼は責められたいのか、共感してほしいのか。
その姿が、見たこともないヨルンの影と重なって見えた気がした。
◇ ◇ ◇
数日後。
冷たい風の質がわずかに変わった。
アルノは、足を止めて一つ息を吐いた。
「……着くぞ」
峠を越えると、そこには別の世界が広がっていた。
谷がひとつ、大きく口を開けている。
その中に家々の屋根が見えた。
石と木と、硬そうな土を組み合わせた建物。
雪を払い落としやすいように屋根は急な角度で作られ、壁には、冷たい風を防ぐための板が二重三重に組み合わされている。
村と町の中間ほどの規模。
だが、その周囲には堅牢な柵と門が巡らされていた。
獣を防ぐためだけではない。
“外のもの”を、簡単には中に入れないための工夫。
門の前には、槍を持った見張りが立っていた。
彼らの額には角。
瞳は深い色。
明らかに魔族と分かる見た目。
アルノが近づくと、ひとりが声を張り上げた。
「〈グラ・ナ=フルド!〉」
耳に馴染みのない音が、ボールドンの鼓膜を打つ。
喉の奥を鳴らすような発音と、舌で弾く子音。
王国以外で聞く、魔族の言葉。
思えば、国内であればみな、訛りがあるとはいえ我々の言葉を使っていた。
完全な魔族の言葉を聞くのは初めてだった。
「〈アルノ・リェク。サ=トゥル・ゲスト〉」
アルノも、同じような響きで応じた。
人間の口から出ているはずなのに、まるで別人の声を聞いているような感覚がある。
魔族の男は、わずかに目を見開き、次いで表情を和らげた。
「〈アルノ……カン・ドラ。〉」
短く何かを告げ、それからボールドンに視線を向ける。
人間とも魔族ともつかない己、混血に向ける視線。そこには、同情も侮蔑の視線もなかった。
男は、今度はたどたどしい共通語を口にした。
「アルノ、つれてくるなら……だいじょうぶ。
ここ、なにもない。ゆっくりしていくといい」
意味は通じる。
だが、語順も発音も、どこか魔族語の余韻を引きずっている。
男は門の戸を叩いた。
中から、重い鍵の外れる音が聞こえる。
門が開くとき、冷たい空気と共に温かい湯気の匂いが漏れてきた。
煮込みの匂い。
煙と獣脂と、
人の暮らしの匂い。
ボールドンは、胸の奥で何かが緩むのを感じた。
――ここにも、営みがある。
◇ ◇ ◇
集落の中は、外から見た印象よりも賑やかだった。
木製の歩道。
家と家のあいだをつなぐ梯子。
雪を避けるための屋根付きの共同通路には、人々が行き交っている。
子どもたちが走り回り、老人が火の番をし、女たちが大鍋をかき混ぜ、男たちは外の柵の修理をしている。
あちこちで、聞き慣れない言葉が飛び交っていた。
「〈ドゥナ! ルガ・フェン!〉」
「〈アシャ、アシャ!〉」
子どもが怒鳴られ、笑い声が返ってくる。
単語の意味は分からない。
だが、その抑揚と間合いから、
それが叱責ではなくじゃれ合いであることは伝わってきた。
彼らの角は様々だった。
立派な角を持つ者もいれば、ほとんど目立たない小さな角の者もいる。
肌の色も、
瞳の色も、
人間とあまり変わらない者もいる。
皆、「魔族」だ。
その中を、アルノは当然のように歩いていく。
すれ違う者たちが、魔族語で「〈アルノ〉」と名を呼び、軽く頭を下げ、
子どもたちは、「〈アルノ・ジヤ!〉」と駆け寄ってくる。
言葉は違うのに、雰囲気で言いたいことは伝わるのは、子供だからだろうか。
「おお、また背が伸びたな」
アルノは人の言葉で言いながら、子どもの頭を軽く叩いた。
子どもはきょとんとした顔をし、そのあとで意味を察したのか、はにかんで笑う。
「見たところ、人間は一人だけなのにずいぶん馴染んでいるようですね」
ボールドンが漏らすと、アルノは少しだけ肩をすくめた。
「馴染まなきゃ、生きていけん。
人間の土地で魔族が肩身を狭くするように、ここでは人間が肩身を狭くする。
言葉もな。
最初の頃は苦労した。
こいつらの喉の鳴らし方を真似できるようになるまでに、何年もかかった」
アルノは、そう言いながら魔族語で誰かに何かを投げかけた。
「〈オルグ、ハシャ・ドラン。ゲスト、ミル・ラ〉」
呼びかけられた若者が、笑いながら手を振る。
言っている内容は分からない。
だが、アルノの声色はどこか嬉しそうだった。
「それでも、ここに居たいと思ったから俺はここにいる」
その最後の一文だけは、人の言葉ではっきりと告げられた。
◇ ◇ ◇
「ひとまず、うちに来い」
アルノは、集落の端にある一軒の家の前で足を止めた。
石と木を組み合わせた二階建ての家。
屋根には雪よけの板が張られ、窓は小さく、厚い布で内側から覆われている。
扉を開けると、暖かい空気が溢れ出した。
部屋の真ん中には、囲炉裏に似た炉があり、その上には鍋がかけられている。
壁には弓と矢筒。
棚には、人間の文字で書かれた古い本が数冊。
魔族語の文書も混じっているようだったが、ボールドンには表紙の文字の半分も読めない。
「ここで一息つけ。この山を越えてきたんだ」
アルノは茶を淹れ、ボールドンに湯気の立つ椀を渡した。
熱い液体が喉を通る。
寒さで固まりかけた輪郭が、少しずつ戻ってくる感覚。
「手紙の届け先には、俺から声をかけておこう。顔なじみだ。
南から客が来たとなれば、きっと喜ぶ。
向こうは人の言葉はあまり得意じゃないが、まあ何とかなる」
「アルノさんは、ここでどれくらい暮らしているんですか」
ボールドンが尋ねると、老人は窓の外の山を見た。
「そうだな……もう十年、二十年、長いということは確かだな」
それ以上は語らない。
言いたくない、という感じではない。
「言葉」を選んでいるようにも見えた。
ボールドンは、もし話してくれればな、と薄く思いながら頷いた。
◇ ◇ ◇
その夜。
アルノの家の狭い寝台に横たわりながら、ボールドンはぼんやりと天井を見つめた。
壁の向こうから、
かすかに魔族語の歌声が聞こえてくる。
言葉は分からない。
だが、子守唄のような、祈りのような、
不思議な調子だった。
山の向こうにも、戦後の暮らしがある。
勇者教会の鐘の音も届かない土地で、魔族たちは静かに生きている。
王都で伝えられている物語のどこにも、この集落の名は出てこない。
ヨルンの記録にも、この土地に関する記述はない。
だからこそ、ここに来る価値がある。
ボールドンは懐の写本に触れた。
ヨルンの文字は、今もそこにある。
だが、今この瞬間、自分の耳と目の前にある景色は誰の記録にもまだ書かれていない。
通訳なしでは、半分も理解できない言葉で交わされている日常。
その「分からなさ」さえ含めて、彼の胸を奇妙に高鳴らせた。
◇ ◇ ◇
後年、ボールドンが晩年にまとめた旅行記の中には、この時期の旅路が簡潔な言葉で記されている。
──【ボールドンの旅行記より】
「――山々は寒々しく、獣は荒々しい。
とてもではないが、人が住める環境とは思えなかった。
だが、そこに彼らは住んでいた。
雪と風に囲まれた谷の中で、
火を囲み、互いの名を呼び合いながら、
人間と変わらぬやり方で笑い、悩み、生きていた。
一人の老人に助けられ、
私は彼らの地にたどり着く。」
──と。
それは、
魔族の土地への、短くも長い前口上に過ぎなかった。