“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~   作:こじまたり

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第2話 戦死者名簿と生き残り

 その日が何日目だったのか、正確には覚えていない。

 

 ただ、指にこびりついた黒が、もはや洗っても落ちなくなっていたことだけは覚えている。

 

 インクか、煤か、血か。

 最初の頃は違いが気になったが、名札の数が増えていくうちに、どうでもよくなっていった。

 

 机の上には紙束。

 右手の側には、名前の刻まれた識別票を放り込んだ桶。

 桶の底を指先で探ると、まだ手つかずの金属片が、ざらりと音を立てた。

 

 名前。階級。所属部隊。出身地。

 それだけを書いて、日付を記す。

 

 一本の羽ペンで紙をなぞるたび、知らない誰かの人生が「一行」に変わる。

 それを延々と繰り返すと、人間の感覚というものは、どこかで麻痺してくるらしい。

 

「……ヨルン。指、また割れてるぞ」

 

 隣の机から、同じ係になった兵がぼそりと言った。

 

「ああ」

 

 返事をしながら、右手の親指を見る。

 ペンを握るところの皮がすっかり硬くなり、ところどころひび割れて、赤黒い線ができていた。黒いインクと混ざって、どこまでが血なのか分からない。

 

「交代するか? 俺が書くから、お前は札渡せ」

「大丈夫だ。まだ握れる」

 

 そう言うと、相手は肩をすくめて、自分の紙に向き直った。

 

 俺はインク壺にペン先を浸し、新しい紙を一枚引き寄せる。

 桶から識別票をひとつつまみ上げ、刻まれた文字を読む。

 

「……フレド・カルサ。槍兵。南方連隊」

 

 書き写す。

 インクの線が乾かないうちに次の札を拾う。

 

「エルネ・ディアス。従軍雑役。王都出身……」

 

 書く。

 また拾う。

 

 作業は、機械の歯車みたいに同じ動きを繰り返していく。

 その合間に、たまにペンが止まる瞬間があった。

 

 名前の読みが妙に難しいとき。

 出身地の地名を初めて目にしたとき。

 あるいは――

 

「……あ?」

 

 そのときも、そうだった。

 

 桶からつまみ上げた札に刻まれた文字を見て、俺は思わず眉をひそめる。

 

 少し擦れて読みづらくなっていたが、その地名は間違えようがなかった。

 

「……谷間の村、第三支区」

 

 俺の口から、自然に、その村の呼び名がこぼれた。

 

 それは俺の故郷の村だ。

 山と山に挟まれた小さな谷間。

 畑よりも石ころの方が多い土地で、春先には雪解け水が道を川に変える。

 

 札には、知らない名が刻まれていた。

 同じ村の誰か。顔を知らないのは、あそこを出て随分経つからだろう。

 

 初めてじゃない。

 故郷の村の名が出てくるのは、これで何枚目かだ。

 

 ペン先を紙に置く。

 名前。階級。出身地。

 

 「谷間の村」と書いたところで、一瞬、手が止まった。

 

 俺があの村を出たのは十年以上前だ。

 残してきた家族がどうしているのか、具体的な顔を思い出そうとしても、今はもう輪郭がぼやけている。

 

 だが、名札に刻まれた出身地の行だけは、妙にくっきりと頭の中で浮かんだ。

 

 あの谷間にも、何人も徴兵がかかったのだろう。

 誰が行って、誰が戻らなかったのか。

 

 インクがじわりと紙に滲む。

 俺はペンを動かし、その一行を書き上げた。

 

 もう何度も繰り返した作業なのに、書き終えた瞬間だけ、胸の奥に重しを乗せられたような感覚が残る。

 

「エルネスト二等兵」

 

 背後から声がして、俺ははっとして振り返った。

 

「は」

 

 短く返事をする。

 立っていたのは、前線本部から派遣されてきた士官だった。最初の日に俺をここへ連れてきた男とは違うが、同じ段の肩章を付けている。

 

「名簿は一段落ついたか」

「……まだ全部ではありませんが、本日渡された分は、ほとんど」

 

 机の横に積まれた紙束を見せる。

 士官はそれをざっとめくり、まとめて抱え上げた。

 

「よし。お前は別の仕事だ」

「別の?」

「遺族への通知がいる。字が書ける者が足りん。

 報告書を持って行って、家まで届けてこい」

 

 俺は思わず口をつぐんだ。

 紙の上でだけ完結していた「死亡」の二文字が、今度は扉の向こうの誰かのものになる。

 

「……自分が、ですか」

「名前を書いたのはお前だろう。

 紙に書いた名に、顔を見せる機会だ。悪い仕事じゃない」

 

 士官は、淡々とそう言った。

 悪い仕事、ね。

 

 俺は机の上で乾きかけていた紙束を見た。

 ここに並ぶのは、もう戻ってこない人間たちの名前。

 

 誰かが扉を叩いて、そのことを「知らせなきゃいけない」。

 

 知らせなければ、世界のどこかで心のどこかで、「まだ帰ってくるかもしれない」と思い続ける誰かがいる。

 知らせれば、その「かもしれない」は、永遠に消える。

 

 どちらが残酷なのか、俺には分からない。

 

「……分かりました」

 

 結局、俺は頷いた。

 

◇ ◇ ◇

 

 馬車に揺られながら、俺は膝の上に置かれた封筒の束を見つめていた。

 

 それぞれの封筒には、さっきまで机の上で書いていたのと同じ名前が書かれている。

 ただし、今度は宛名として。

 

 王国軍 戦死通知 と赤い印が押されているそれは、遠目にも嫌な情報を運ぶものだと分かるだろう。

 

 隣には、同じ通知任務に回された兵が二人。

 ひとりはまだ若い、髭もろくに生えていない新兵。もう一人は俺より少し年上の、口数の少ない男だ。

 

「……緊張してるか」

 

 年上の方が、新兵に話しかけた。

 

「い、いえ……その……」

 

 新兵は歯切れの悪い返事をして、封筒の束を抱き直した。

 手が汗で滑っているのか、何度も握り直している。

 

「最初の一軒目だけだ。二軒目からは、もっと嫌になる」

 

 年上の兵の言葉は、冗談とも本音ともつかない。

 新兵は笑うべきかどうか判断しかねた顔で俯いた。

 

 俺は窓の外に目をやった。

 

 野戦病院や前線本部から離れるにつれ、景色はゆっくりと、戦場から「日常」の形に戻っていく。

 倒れたまま放置されている建物は減り、屋根に煙の立つ家が増えていく。

 

 それでも、道端に積まれた瓦礫や、黒く焼け焦げた壁は、まだあちこちに残っていた。

 馬車が通るたびに、それを修理していた住民たちが手を止めて、こちらを見る。

 

 俺たちの積んでいる封筒と、兵服と、戦死通知の印。

 彼らの視線が意味するものは、口に出さなくても分かる。

 

 馬車は町ごとに止まり、一軒一軒、決められた住所を回っていく。

 

 最初の家の扉の前に立ったとき、俺は拳を握る手に力が入っているのを自覚した。

 

 扉の板は、ところどころ傷だらけで、真新しい木片で補修されている。

 この家もきっと、この戦争で何かを失っている。

 

 俺は拳を上げ、扉を叩こうとして――寸前で止めた。

 

 木の前板に映る自分の顔が、妙に他人事に見えた。

 唇がひきつっている。額に薄く汗が滲んでいる。

 

 一度、深呼吸する。

 二度目で、ようやく拳が扉を叩いた。

 

 コン、コン、と乾いた音がする。

 少しの沈黙のあと、木が軋む音とともに扉が開いた。

 

 出てきたのは、中年の女だった。

 髪を後ろでまとめ、袖をまくったまま、手には小麦粉のついた木杓子を持っている。

 

 こちらの服装と封筒に目をやった瞬間、彼女の表情から血の気が引いた。

 

「……王国軍、戦死通知をお持ちしました」

 

 俺は、教えられた言葉をそのまま口にする。

 自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。

 

 女の手から、木杓子がするりと滑り落ちた。

 床に当たって、乾いた音を立てる。その音と同時に、女は膝から崩れ落ちた。

 

「いやだ……いやだ、いやだ……」

 

 何度も繰り返される否定の言葉が、狭い玄関に満ちる。

 俺は封筒を差し出したまま、動けなかった。

 

 奥から、幼い子どもの顔が覗いた。

 男の子だ。

 状況が理解できないのか、不思議そうな顔でこちらを見ている。

 

「お母さん?」

 

 その声に、女は一瞬だけ顔を上げた。

 濡れた目が俺を睨む。

 

「……あんたらが、うちの人を殺したのかい」

 

 その問いに、正しい言葉で答えられる兵士はいるのだろうか。

 

 俺は、ただ首を横に振った。

 

「いえ……俺は、ただ、知らせを持って来ただけです」

 

 女はまた、わっと泣き崩れた。

 背後で、男の子が不安そうに泣き顔になっていく。

 

 この家にとって、封筒の中の「名前の一行」は、夫であり、父親であり、支えだった。

 それがもう戻らないと告げるのに、紙切れ一枚と兵士ひとりで足りるはずがない。

 

 それでも、俺は封筒を渡し、形式的な言葉を告げて、その場を去るしかなかった。

 

 次の家も、その次の家も、大差はなかった。

 

 泣き叫ぶ者。

 呆然と封筒を見つめ続ける者。

 中身も見ずに、黙って封筒を受け取って家の中に消える者。

 

 稀に、「あの人は前から体が弱かったからな」と、静かに受け止める者もいた。

 

 泣き崩れる母、無言の父、実感のない幼い弟妹。

 どの家も少しずつ違う顔をしていて、どれも同じ「喪失」の色をしていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 三日目だった。

 

 俺たち通知隊は、前線に近い町から徐々に離れ、より奥の村へと入っていった。

 道は悪く、馬車を降りて歩かねばならないところも増えた。

 

 夕方近く、小さな村の入口に辿り着く。

 薄く開いた木の門の向こうに、石と土でできた家々が見える。

 

 俺は、持っている封筒を確認した。

 宛先は、この村の外れにある家のものだ。

 

 丘を登り、小川を渡り、麦畑の脇を抜ける。

 日が傾き始め、影が長く伸びていく。

 

 ようやく目的の家が見えた。

 石を積んで作った低い家。屋根には苔が生え、煙突からはうっすらと煙が出ている。

 

 扉の前に立つ。

 拳を上げ、いつものように叩こうとして――俺は、そのまま動けなくなった。

 

 扉には、子どもの頃、何度も見たような傷の跡があった。

 じゃれ合った兄弟が、木の棒で叩きつけてつけた傷だ。

 

 胸の奥が、冷たいものに締め付けられる。

 

 俺はもう一度、封筒の宛名を見た。

 

 谷間の村 第四支区 フロイ家御中。

 

 フロイ。

 それは、母の旧姓だった。

 

 この家に住んでいた叔父夫婦は、小さい頃に何度も世話になった人たちだ。

 俺が徴兵される前、最後に訪れた日からでも、もう随分時間が経っている。

 

 封筒に書かれている名は、彼らの息子のものだった。俺より少し年下の、あの気弱な従弟の。

 

「……」

 

 叩くか、やめるか。

 どちらにしても、この封筒の中身は変わらない。

 

 悩んでいるうちに、扉の向こうから足音がした。

 中から、扉が開く。

 

 出てきたのは、やつれた顔の男だった。

 痩せて髭が伸びているが、その目元や頬の骨格は、見覚えがある。

 

「……ヨルンか?」

 

 先に名前を呼ばれ、俺は軽く息を呑んだ。

 

「……フロイ叔父さん」

 

 あまりにも久しぶりで、呼び方が昔のままになってしまった。

 

 叔父は、俺の姿と封筒とを見比べる。

 表情は、分からなかった。

 

「そうか。お前が、持ってきたのか」

 

 俺は封筒を差し出そうとして、手を止めた。

 

「……あの、叔父さん」

「いい。分かってる」

 

 叔父は、俺の言葉を遮るように封筒を取った。

 表の宛名を一瞥し、すぐに裏返して封を切る。

 

 中の紙を引き抜き、声に出さずに目で追う。

 紙を読み終えると、叔父は小さく息を吐いた。

 

 そのとき、家の奥から別の声がした。

 

「父さん、誰か来たの?」

 

 若い男の声。

 俺が知っている従弟の声よりも、ずっと低く、よく通る声だった。

 

 次の瞬間、奥の部屋から、その持ち主が顔を出した。

 

 短く刈った髪。

 頬に走る浅い傷跡。

 日焼けした皮膚。

 

 俺は、その顔を知っていた。

 訓練所で一度だけすれ違ったことがある。戦場でも、遠くの列で見た気がする。

 

 ――戦死通知の宛名に書かれていた男、死んだとされた男がそこに立っていた。

 

「お前……」

 

 思わず声が出る。

 

 彼も俺に気づいたようで、目を丸くした。

 

「ヨルン兄さん? なんでここに……って、その格好……」

 

 視線が俺の軍服に落ち、そして叔父の持つ紙切れに移る。

 眉が、ゆっくりとひそめられていった。

 

「……なんだ、それ」

 

 叔父は答えず、紙を折り畳んで、無理やり笑顔を作った。

 

「なんでもないさ。お前の話じゃない」

「戦死通知、だろ」

 

 彼は一歩、俺たちに近づいた。

 紙をひったくるように取り上げ、文字を目で追う。

 

 そこには自分の名前と、所属部隊と、「戦死」の二文字が並んでいる。

 

 読み終えたとき、彼は乾いた笑い声を漏らした。

 

「……俺、死んだことになったのか」

 

 笑い声はすぐに消え、代わりに、何とも言えない表情が残った。

 怒りとも、悲しみとも、呆れともつかない。

 

「どこで?」

 

 彼の視線が俺に向く。

 

「どこで、俺は死んだことになってるんだ、ヨルン兄さん」

「……前線からの報告では、撤退時の混乱で行方不明の後、戦死と推定、と」

 

 自分で言いながら、ひどく空疎な言葉だと思った。

 

「俺はちゃんと戻ってきたけどな」

 

 彼は半ば自嘲するみたいに笑い、手の中の紙をひらひらと振った。

 

「俺が生きてるって、どこに言えばいいんだ? その紙を書いた場所か?」

 

 俺は言葉を詰まらせた。

 

 識別票が取り違えられたのか。

 報告の過程で誰かが名前を誤ったのか。

 

 どこかで間違いがあって、その結果、この紙には「戦死」と書かれている。

 

 紙の上の「一行」は、現実をぴたりと反映しているとは限らない。

 頭では分かっていたはずのことが、目の前の従弟を見て、ようやく実感を伴って胸に刺さった。

 

「……記録局に、訂正の願いを出すことはできます」

 

 それは、俺が知っている範囲での唯一の答えだった。

 

「ただ……一度上がった記録は簡単には変わらない。

 それに、今のままなら、戦死者としての年金が出る。

 おばさんたちの暮らしには、その方が……」

 

 言いながら、自分でも嫌になる。

 

 生きている人間に「死んだままでいた方が得だ」と言っているのと同じだ。

 

 従弟は、じっと紙を見続けていた。

 叔父は、困ったように頭をかいた。

 

「……実を言うとな、ヨルン」

 

 叔父が口を開く。

 

「お前が来る前に、軍の役人が一度、ここへ来た。俺一人の時にな。

 “息子さんは戻ってこないでしょう”って、そんな話をしに来た。

 他の家にも回っていたからな、遅かれ早かれ、息子が死んだことになっているというのは広まるはずだ」

 

 叔父の視線が、家の外に向く。

 そこには、寂し気な家々が並ぶ。恐らく、戦死した家族を持つ家も多いのだろう。

 

「今さら、『実は生きてました』ってなったら……ここでの立場がどうなるか、分からん」

「そんなの、ちゃんと話せば――」

 

 従弟が反発しかけるのを、叔父は手で制した。

 

「無駄だ。だから、近々お前にはここを出るように言うつもりだった。もちろん、戦死者年金は受け取りを拒否するさ」

 

 しばし沈黙が落ちる。

 

 従弟は、紙をぎゅっと握りしめた。

 紙の端がくしゃりと折れる。

 

「……俺は」

 

 彼は、ぽつりと口を開いた。

 

「俺は、どうしたらいいんだ?」

 

 その問いは、俺に向けられているようで、そうでないようでもあった。

 誰かに答えを求めているようで、自分で自分に問うているようでもある。

 

 俺には、やはり上手い言葉が出てこなかった。

 

 代わりに、頭に浮かんだのは、記録局で聞いた役人の言葉だった。

 

 ――一度上がった記録は、滅多に直らない。

 ――訂正には時間がかかる。手続きも面倒だ。

 ――その間、家族の年金はどうなる?

 

 誰かの都合と、誰かの生活と、誰かの名誉と。

 いくつものものが、たった一行の「戦死」の文字に圧し掛かっている。

 

「……俺は、少なくとも、俺の手元の名簿には、お前を生きていることにして書く」

 

 ようやく出てきた言葉は、それだけだった。

 

「公式の記録がどうであろうと、お前が生きているってことを、

 俺は、自分の紙の上にはそう書く。

 それで全部が変わるわけじゃないけど……それでも、何もしないよりはマシだと、思いたい」

 

 自分でも頼りない約束だと思った。

 だが、嘘ではなかった。

 

 従弟は、しばらく俺の顔を見つめてから、ふっと目を細めた。

 

「……ヨルン兄さんの字で、俺が生きてるって書かれるのか」

「ああ」

「じゃあ、せいぜい綺麗に書いてくれよ。

 兄さんの字、昔から癖があっただろ」

 

 ほんの少しだけ、口元に笑いが浮かんだ。

 叔父も、それを見て肩の力を抜いたようだった。

 

「とりあえず今日は、上がって飯でも食っていけ。

 久しぶりに、肉を手に入れたところなんだ」

 

 そう言って、叔父は家の中へ引き返していく。

 従弟も、紙を握ったまま俺の背中をぽんと叩いた。

 

「生きてるってのは、面倒だな」

 

 ぼそりとこぼれたその言葉だけが、やけに耳に残った。

 

◇ ◇ ◇

 

 基地へ戻る道すがら、俺は馬車の揺れに身を任せながら、考え続けていた。

 

 紙の上の「一行」が、どれほど乱暴に、人の生き死にを決めてしまうのか。

 そして、その「一行」を書く側に回ってしまった自分が、どこまで正確でいられるのか。

 

 帰ってすぐ、俺は机に座った。

 戦死者名簿の束を広げ、そこに記されている従弟の名前を探す。

 

 見つけた。

 削って、書き直したい衝動に駆られる。

 

 だが、この名簿はすでに、上へ送られた分の控えだ。

 公式の記録は、もうどこか別の場所で、彼を「死んだ人間」として数え始めている。

 

 それでも、俺は、自分の手元の紙に、新しい一行を書き加えた。

 

『フロイ家の長男、前線で行方不明となるも、生存を確認』

 

 読み返すと、あまりにも頼りない行だ。

 だが、その一行を、俺は赤い印で囲んでおいた。

 

 いつか、誰かがこの紙を見るかもしれない。

 誰も見ないまま、火にくべられるかもしれない。

 

 それでも、書いておきたかった。

 

 紙の上の文字は、ときに現実をねじ曲げる。

 ならせめて、自分の手が届く範囲だけでも、ねじれた分を少し戻すくらいのことはしたかった。

 

 ペン先から落ちたインクが、また小さな染みを作る。

 その黒い点を眺めながら、俺はゆっくりと息を吐いた。

 

 戦後の世界は、名前の数だけ、少しずつズレながら形を変えていく。

 その最初のズレを、俺は自分の手で見てしまったのだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 ──【大陸王国正史 戦後補遺より抜粋】

 

 魔王戦争終結直後に作成された戦死者名簿には、少なからず誤記が存在したと伝えられる。

 識別票の取り違えや混乱の中での記録漏れにより、死んだはずの者が生き、

 生きていたはずの者が紙の上で「死者」とされる事例もあった。

 

 訂正を求める声は、当時の混乱と制度の硬直の中で弱く、

 また多くは、歴史の頁に届くことなく、ひっそりと消えていった。

 

 ただし、ごく一部の記録には、

 その「ズレ」を読み取ることのできる余白が、確かに残されている。

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