“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~ 作:こじまたり
リェルの家族の家は、谷の少し上手にあった。
風を避けるように斜面に沿って建てられた家々のひとつ。
壁には、獣の毛皮と乾いた薬草が吊るされている。
アルノが先に立ち、扉の前で短く合図を送った。
「〈リェル・トゥヴ家の者よ、客だ〉」
木の扉越しに何かが応じる。
低く、短く、よく通る声。
やがて錠が外れ、扉が少しだけ開いた。
中から、年老いた魔族の女が顔を出す。
額には短い角。
瞳は、リェルと同じ赤みを帯びた色。
アルノが何事かを告げると、彼女の目がわずかに大きくなった。
そして、ボールドンの方へ視線が移る。
角。
耳。
人間と混じった輪郭。
その目に宿るのは敵意ではなく、ただ慎重な好奇心だった。
◇ ◇ ◇
家の中は暖かかった。
中央の炉に火が焚かれ、壁際には寝台と棚。
棚には木製の器と、石でできた小さな像がいくつか並んでいる。
炉の向こう側に、出迎えてくれた老女とその伴侶と思われる老人が座っていた。
リェルによく似た額の紋様。
彼がリェルの父であることは、言葉を交わす前から分かった。
「〈南の村から手紙を運んできた〉」
アルノが魔族語で告げ、視線をボールドンに投げる。
ボールドンは懐から布包みを取り出し、両手で差し出した。
手紙を受け取る老人の手は、少し震えていた。
「〈まさか、この地から出た息子から便りが来るとは。
今生の別れかと、諦めていたが〉」
老人は封筒を丁寧に開き、紙を取り出した。
何と書いてあるかは分からないが、整えられたリェルの文字が、そこにあった。
老人はゆっくりと目を通す。
ところどころで言葉に詰まり、眉をひそめ、そして、何度も口元を緩めた。
母親と思しき女も、彼の肩越しに文字を追いながら何度も目元を拭った。
やがて老人は、紙から目を離し、まっすぐボールドンを見た。
「〈伝えよ。よく生きている、と。
こちらも、まだ生きている、と〉」
アルノが受け取り、人の言葉に変える。
「“礼を言う。
息子に伝えてほしい。
こちらも、まだ生きている、と”だそうだ」
ボールドンは、思わず深く頭を下げた。
「必ず伝えます」
下げた頭に、温かい眼差しが降ってきているのが分かる。
魔族の父母は、角を持つ男を見ている。
“人間でも魔族でもない何か”としてではなく、
“娘からの便りを運んできた者”として。
そのことに気づいた瞬間、ボールドンは戸惑いと安堵を同時に覚えた。
人間の土地では、先に角が目に入る。
ここでは、先に「人となり」が見られている。
――追われる側の地では、誰かを下に見る余裕がないのかもしれない。
そんな考えが、胸の内にふと浮かんだ。
◇ ◇ ◇
足の痛みに気づいたのは、集落に着いてから数日後だった。
山越えの最中から違和感はあった。
だが、彼はそれを「疲労」だと片付けていた。
日が傾く頃、路地でつまずいた拍子に右足が思うように動かないことを悟った。
冷たい痛み。
指先の感覚が鈍い。
アルノに告げると、老人はすぐに顔色を変えた。
魔族の医師が呼ばれた。
年配の女で、薬草の匂いが染みついている。
彼女は、短い共通語と長い魔族語を交えながら診察をした。
「〈指、黒く。雪の中で…長く。〉」
アルノが通訳する。
「“山で凍えたまま歩き続けたせいで、足の指がやられている。
命までは取らないが、前みたいには歩けんだろう”」
医師は、布に包んだ薬草を足に巻きつけながら真剣な目でボールドンを見た。
「〈山を越えるには、わるい足。谷で歩くには、まだよい足〉」
意味は、アルノが言う前にその表情でなんとなく理解できた。
山越えは、もう無理かもしれない。
王都に戻る道は、足の痛みと共に少しずつ遠ざかっていく。
ボールドンは、布団の中で天井を見つめた。
リェルへの約束は果たした。
手紙は届いた。
帰れぬかもしれぬ、そう思った時、不思議と王都の景色が目に浮かんだ。
混血街の仲間たち。
地下朗読会の面々。
ケッセル。
彼らは、今どんな顔でヨルンの本を読んでいるだろうか。
◇ ◇ ◇
「ここに残ってみてはどうだ」
しばらくして、アルノが言った。
薬草の匂いが薄れた部屋で、老人は炉の火を見つめながら続ける。
「山を降りる足がおぼつかないなら、山のこちら側でできることを探せばいい。
人間の言葉を教える者が要る」
「人間の言葉を、ですか」
「ここにいる連中は、人の言葉を聞いたことがある者が少ない。
追われていた頃、罵り言葉として聞いたことがあるのが少しだ。
……今後は、必要になってくるだろう。
それに、谷を出ていきたい若い連中もいる」
アルノは、視線をボールドンに向けた。
「俺も、たまに教えてはいる。
だが、狩りに出ることも多いし、年も取った。
書物から学んだ人間のことばを、ちゃんと形にして渡せる奴が必要だ」
「……俺でいいんでしょうか」
「お前は本を読んできた。
物を教えるに向いていると、俺は思うぞ」
ボールドンは、焚き火の火を見つめた。
王都に戻れないかもしれないという事実と、この谷で自分の場所を見つけるかもしれないという可能性が入り混ざっていた。
「……やってみます」
その答えが口から出たとき、胸のどこかで何かが静かに納得した。
◇ ◇ ◇
季節が、一巡りした。
ボールドンは、アルノの家の一角に間借りしていた寝台を離れ、谷の中腹に小さな家を借りることになった。
石壁と木の梁。
屋根には雪よけの板。
壁の内側には、人間の文字で書かれた紙片と、魔族語の単語が並んで貼られている。
彼は、魔族の言葉を覚え、
子どもたちは、人間の言葉を覚えた。
谷の共同の小屋の一つが、“教える場所”になった。
床に敷かれた毛皮の上に、子どもたちが輪になって座り、黒く焼いた板にチョークで文字が書かれる。
「“みな”」
ボールドンが板に書きながら言う。
「“みな”」
子どもたちが復唱する。
その後に、魔族語で意味を補う。
「〈カ=ルン〉。みんな」
子どもたちの目は真剣だ。
覚えが早い。
新しい単語を教えると、翌日には文章にして使い始める。
ボールドンは、時折心の中で呟いた。
――人間よりも、頭がいいのかもしれない。
それは「種族」の差ではなく、多分「必要」によるものだろう。
追われた者たちは、互いの言葉を聞き漏らさないように耳を鍛える。
谷の外から来る音にも、敏感にならざるを得ない。
彼らは、互いを見捨てられない。
山に追い立てられた夜のことを、皆がそれぞれ伝えられ、覚えているからだ。
◇ ◇ ◇
夜、ボールドンは自分の家で灯りをともした。
机の上には、ヨルンの写本と自分が魔族語を覚えるためのノートと、子どもたちの書いた拙い共通語の文が並んでいる。
「われらは、きょう、たにのそとをみた」
「ゆきは、しろく、つめたかった」
文は不格好だが、そこには確かに「声」がある。
ふと、王都のことを思い出す。
勇者教会の塔。
地下朗読会の部屋。
あの街では、人々は「魔族」や「混血」という、
“下に見る対象”を作り上げることで自分の居場所を確かめていた。
誰かを指差し、
笑い、
罵ることで、
自分が“こちら側”だと安心したがっていた。
ここでは、その余裕がない。
外から来た者は、危険の兆しであり、
同時に、谷に新しい風を運ぶ存在でもある。
追われた者たちは、互いを抱え込む。
人間は、“仮想の敵”を作って自分を大きく見せる。
どちらが正しいとは言えない。
ただ、片方しか知らないまま歴史を書いてしまうことの危うさを、ボールドンは身に染みて感じ始めていた。
◇ ◇ ◇
後の時代。
谷の中で書き継がれた歴史書の一つに、この頃のことが拙い共通語で記されている。
──【『高嶺谷年代記』第三巻より】
「この年、
山の南よりひとりの男きたる。
名をボールドンという。
角は小さく、
目は人のようであり、
ことばは南の国のものであった。
われらは、
人のことばを“のろい”として聞いてきた。
追われた夜、
兵らはそのことばでもって
われらを名でなく“魔”と呼んだ。
しかしボールドンは、
その同じことばで、
子らの名をひとつひとつ呼んだ。
『ルガ』『アシャ』『トゥヴ』と。
子らは笑い、
われら年寄りは
はじめて南のことばで
自分たちの名前を聞いた。
それは“のろい”ではなく、
“よび声”であった。
この年より、
谷では人の文字とわれらの文字が
同じ板の上に書かれるようになった。
この記しもまた、
ボールドンより教わりし
人の文字をまじえて記す」
──と。
たどたどしい文の行間には、
追われた者たちが、自分たちを“魔”ではなく、
“名を持つ者たち”として書き直そうとする意志が、静かに滲んでいるのだった。