“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~ 作:こじまたり
谷の冬は、相変わらず厳しかった。
雪は容赦なく降り積もり、風は骨の芯まで冷やしにくる。
それでも、十数年前にボールドンが初めてここへ来た頃より、谷の中はほんの少しだけ「住みやすく」なっていた。
◇ ◇ ◇
屋根の形が変わった。
雪を受け流す角度を計り、梁の組み方を工夫する者が現れた。
食糧の保存の仕方が変わった。
乾燥させるだけでなく、塩や煙を使うやり方を人間の本から知り、それを魔族のやり方と組み合わせて新しい保存庫を作る者が現れた。
谷の端には、小さな水車が回るようになった。
流れの強い沢に板を渡し、回転する力で穀物を挽く仕掛け。
軸に使う木の選び方。
厚み。
角度。
そうしたものは、ボールドンの知識だけでは賄えない。
彼は、ボールドンが持ち込んだ数少ない本にあった絵を見せただけだ。
それを見て、「自分たちならこう作る」と考え、実際に形にしたのは谷の若い魔族たちだった。
追われた者たちの谷は、ゆっくりと、しかし確実に形を変えつつあった。
◇ ◇ ◇
ボールドンが始めた教育も同じように根を張っていた。
「教える」といっても、彼自身、王都で教育を受けたわけではない。
書物と経験から拾い集めた知識を、自分なりに噛み砕いて子どもたちに渡しているに過ぎない。
だが、それで十分だった。
子どもたちはそこからさらに枝葉を伸ばしていく。
「“山”」
黒板の上に共通語の文字が書かれる。
「“やま”」
子どもたちが復唱する。
すぐに魔族語が続く。
「〈ガル〉」
「〈ガル〉!」
声が重なる。
ボールドンは黒板の下に、谷を囲む山々の簡単な絵を描いた。
「“山の向こうに何があるか、知っているか”」
「“人間の国”!」
ひとりが誇らしげに共通語で答える。
それを聞いて、他の子らもくすくす笑った。
「“そうだ。人間の国。
ヨルンという人間の書いた本の中に、お前たちのことも少しだけ出てくる”」
「〈ヨルン〉?」
魔族語の響きの中に、人間の名が混じる。
ボールドンは、自分が書き写したヨルンの記録をそっと撫でた。
戦後の記録。
魔族収容区。
勇者教会。
そこに描かれた「魔族」は、谷の子どもたちが笑っている姿とはだいぶ違っていた。
だが、その差を知ることもまた学びなのだと、彼は思う。
◇ ◇ ◇
アルノは、年は取ったが相変わらず山にいた。
冬も猟に出て、春になれば山菜を採り、夏には遠くの谷まで様子を見に行く。
「じっとしてると、身体の方が先に腐る」
そう笑っていた。
病床に伏せることもない。
若い魔族たち混じり、雪の上を歩き、弓を引き、時には言葉で彼らの暴走を抑える役も担っていた。
だからこそ、その知らせは谷に小さくない衝撃を与えた。
◇ ◇ ◇
夜。
見張りに立っていた若者が、集会所に飛び込んできた。
「〈アルノが……〉」
言葉にならない声。
ボールドンが駆けつけたとき、アルノは地面に倒れていた。
雪の上に、赤いものが点々と落ちている。
胸から腹にかけて、粗い刃物の跡。
周囲には、まだ興奮の残る空気と魔族たちのざわめき。
誰かが叫ぶ。
「〈やりすぎだ!〉」
「〈止めようとしたのに……〉」
ボールドンには、半分しか意味が取れない。
だが、「やりすぎた」という言葉とアルノの傷の深さだけで、何が起こったかは十分すぎるほど理解できた。
「アルノ!」
ボールドンが膝をつき、老人の身体を抱き起こす。
アルノは息をしていた。
だが、その息は浅く、瞳の焦点は定まらない。
唇が、かすかに動いた。
「……ボールドンか」
共通語だった。
この谷では、周囲に聞かれたくない話をするとき、アルノはよく共通語を使った。
今もそうなのだと、ボールドンは直感する。
「医師を……」
「いい。見りゃ分かる」
アルノは、喉の奥から笑いとも咳ともつかない音を出した。
「何があったんです」
「少し……言い争いになってな。“人間の血を谷に入れた”とか、そんな話だ」
ボールドンの背筋に冷たいものが走る。
「俺のことですか」
「お前のこともある。だが、もっと前の話だ」
アルノは苦しげに息を吐いた。
「言ってなかったな。俺の父は――勇者だ」
時間が、止まったように感じた。
「勇者……の」
ボールドンは、思わず周囲を見た。
魔族たちは、何人かが険しい顔をしており、何人かは目を逸らしている。
知っていた者も、知らなかった者もいるのだろう。
「戦争が終わったあと、“英雄の子”としてあっちでもこっちでも持ち上げられた。
でも、俺にはそれがどうしようもなく息苦しかった。
魔族の血を流した父親の顔を、“誇れ”と言われた」
アルノの目は、空の上を見ていた。
誰かに思いを馳せているようにも見えた。
「ここの連中の中には、戦で家族を失った者もいる。その子どもや孫たちもな。
そういう者の中に、“勇者の血を谷から追い出すべきだ”と考える連中が居てもおかしくはないだろう?」
ボールドンは、喉がうまく動かないのを感じた。
憎しみは、人間だけのものではない。
追われた者たちの谷にも、「仮想の敵」は姿を変えて現れる。
「……止められなかったんですか」
「止めるだけの力が、もう残ってなかったということだ。
年は取る。当たり前の話だ」
アルノは、ボールドンを見た。
その目には、悔いよりも、どこか静かな諦めがあった。
「ボールドン」
「はい」
「お前は、ヨルンの本を読んで、この谷に来た。
俺は、彼の言葉を胸に、この谷に流れ着いた」
かすかな笑い。
「どっちも“戦後”から逃げたようなもんだ」
「……彼も、ヨルンも、逃げたとは言わないはずです」
「だと、いいな」
アルノは息を整え、短く、しかしはっきりと言った。
「俺が死んだあとも、ここには“勇者の子”を憎む者がいるだろう。
人間を憎む者もいる。それを全部止めろとは言わん。
ただ……どこかに書いといてくれ。
“勇者の血は呪いではない”ってな」
ボールドンは、胸の奥に冷たく重い石を抱えたような気持ちになった。
それでも、頷くことはできた。
「必ず」
アルノはうなずきかけた。
その途中で、息が途切れた。
◇ ◇ ◇
アルノの葬儀は、谷の古いしきたりと人間の習慣を混ぜた形で行われた。
魔族語の祈りと、共通語の短い別れの言葉。
谷の者たちは皆出席した。
彼を傷つけた者たちも、遠巻きに立っていた。
憎しみと後悔と、言葉にならない感情が雪の上に積もっていった。
ボールドンは、それを記録した。
ヨルンがそうしたように。
戦後の記録官の系譜は、彼の中で細く続いている。
◇ ◇ ◇
アルノの死から、さらに数年が過ぎた。
ボールドンもすっかり「谷の年寄り」のひとりになっていた。
足は以前よりも遅く、指は昔ほど早く動かない。
それでも、教えることは続けていた。
若い魔族たちは、彼を「先生」と呼ぶ。
谷の外の話を聞きたがる者もいれば、谷のことを文字にしたいと言い出す者もいた。
その日も、教室代わりの小屋で授業を終え、ノートを片付けていたときだった。
「先生」
低めの声がした。
振り返るとひとりの若い魔族が立っていた。
角はまだ短いが、体つきはしっかりしている。
谷の子らの中でもとりわけ言葉の覚えが早く、よく質問をしてくる青年だ。
名を、ザリュガ=フェルンと言った。
皆は縮めて「ザリュ」と呼んでいる。
「どうした、ザリュ」
「話がしたい。……先生のことばで」
共通語でそう言い、彼は戸を閉めた。
魔族語のざわめきが、外に少し遠ざかる。
ボールドンは椅子に腰を下ろし、ザリュに向き直った。
「聞こう」
「外へ出たい」
ザリュは、それだけをまっすぐに告げた。
迷いのない瞳だった。
「外、というのは……」
「山の向こう。人間の国へ。
先生が昔いたところに」
ボールドンは、少しだけ目を閉じた。
予感はあった。
人の言葉を学び、
人の文字を読み、
谷の外の話を聞き続けていれば、いつかそう言い出す者が出ることは分かっていた。
だが、いざその瞬間が来ると、自身が王都を旅立ったときと同じような感覚に襲われた。
――世代が、自分の手から離れていく。
「何をしに行きたい」
「見たい。
人間の街。人間の教会。先生が言っていた“混血の村”も。
話をしたい。
人間も、混血も、谷の外の魔族も。
……それと」
ザリュは言葉を探すように眉を寄せ、やがてゆっくりと続けた。
「先生の話が、本当かどうか確かめたい」
「本当かどうか、か」
「先生は、人間も魔族も、どちらも“自分の正しさを信じていた”って言った。
戦争のときも。その後も。
でも、俺はまだ“自分の目で”それを見ていない」
ボールドンは、机の上に置いてあったヨルンの写本を指先で叩いた。
「本を読むだけじゃ足りない、か」
「先生がそう言った」
ザリュの指摘は、痛いところを突いていた。
ボールドン自身、ヨルンの本を読み、地下朗読会で議論をし、それでも足りずに王都の外へ出た。
同じことが、世代をひとつ挟んで繰り返されようとしている。
「人間の国では、お前は“魔族”として見られる。
谷では気にしない者でも、山の南では角と瞳の色だけで判断する連中がいる」
「知ってる。先生の話で」
「話と現物は違う。石を投げられるかもしれん。
“魔王の残り火”と言われるかもしれん。
勇者教会の信徒に捕まれば、“改心させる”とか言ってろくでもないことをされる可能性もある」
ザリュは、それでも目を逸らさなかった。
「谷にいても、俺は“人と親しくしている魔族”のだ。
そう言って、俺のことを嫌う連中もいる」
ボールドンは、アルノを襲った者たちの顔を思い出した。
谷の中にも、憎しみはある。
ここにいても、ザリュは別の形で“矢面”に立つのだろう。
「どこにいても、何かしらの“下に見る対象”を人は作るのかもしれんな」
思わず漏れた言葉に、ザリュは小さく笑った。
「だからこそ、俺は外を見たい。
谷の外にも、ここみたいに笑って暮らしている場所があるのかどうか。
先生が昔世話になったっていう村。
魔族と混血と人間が一緒に暮らしていたっていう村が、まだ残っているのかどうか」
ボールドンは、胸の奥に遠い日の光景が蘇るのを感じた。
畑と川と、小さな酒場。
アルンの笑い声。
リェルとその妻。
イオの複雑な目。
今、あの村がどうなっているかは分からない。
だが、いずれ誰かが確かめに行くのなら――
それが、谷の言葉と人の言葉を両方知っている者であってほしい。
「……分かった」
ボールドンは静かに言った。
「行きたいなら、行け。俺が止める権利はない。
ただし、ひとりで好き勝手にするんじゃない。
山を越える道はアルノに教わった通りに行け。
南側の村で、この手紙を渡せ」
机の引き出しから、紙とインクを取り出す。
震える指で、ゆっくりと文字を綴る。
――親愛なる村人たちへ。
かつてここを訪れた混血の男、
ボールドンという名を、
もしかしたら覚えているかもしれない。
高嶺谷と呼ばれる場所から、
ひとりの若い魔族を送る。
どうか、
かつて俺がそうされたように、
彼にも水と食事と、
少しばかりの話を分けてやってほしい。
――
書き終えた手紙を折りたたみ、
ザリュに渡した。
「その村に着いたら、まずこの手紙を見せろ。
もしアルンやリェルが、まだどこかで息をしているなら――
お前は、“ボールドンの弟子だ”と言えばいい」
ザリュは、手紙を両手で受け取った。
その目には、期待と抑えきれない好奇心が入り混じっていた。
「戻ってくるつもりはあるか」
ボールドンが問うと、ザリュは少しだけ迷った。
「分からない。でも、見たものは先生に話したい」
「なら、戻ってこい。
俺がまだ生きていたら、話を聞こう。
俺が死んでいたら……その時は、お前が書け」
「書く?」
「谷の外のことを、だ。俺が書けなかった“あとの戦後”をな」
ザリュは、ゆっくりと頷いた。
「分かった。書いてみる。
先生みたいに上手くはできないかもしれないけど」
「下手でいい。
大事なのは、誰かが読める形で残すことだ」
◇ ◇ ◇
数日後。
谷の門の前で、ザリュは背負い袋を整えていた。
仲間たちが見送りに来ている。
角を持つ子どもたちが、口々に魔族語で声をかける。
「〈戻ってこいよ!〉」
「〈人間の話、いっぱい聞かせろ!〉」
ザリュは笑い、彼らの頭を順に叩いた。
ボールドンは、少し離れた場所からそれを見ていた。
門の向こうには、雪と風と獣のいる山。
そのさらに向こうには、勇者教会と混血の村と、谷に居るだけでは見ることのない形式が広がっている。
ザリュは、振り返って深く頭を下げた。
「行ってきます、先生」
「行ってこい」
ボールドンは、胸の奥に少しだけアルノの声を聞いた気がした。
――目を凝らせ。
上にも下にも。
谷にも山にも。
そうして初めて、自分の立っている場所が分かる。
ザリュの背中が門の向こうに消えていく。
ボールドンは、その姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
◇ ◇ ◇
後年。
ボールドンが老年期にまとめたひとつの文書が、谷の歴史書として読み継がれることになる。
タイトルには、彼らの土地の名と人間の文字が並んでいた。
──【『高嶺谷発展記』第一葉】
「われらの谷は、
追われし者らの谷であった。
山は高く、
風は冷たく、
人の国から見れば
“捨てられた土地”であった。
しかし、
われらはここに家を建て、
火を囲み、
互いの名を呼び、
少しずつ、
少しずつ、
谷を広げてきた。
人のことばを学びしは、
人を愛するためだけにあらず。
人がわれらをどう見てきたかを知り、
その視線にのみ支配されぬためである。
やがて、
谷の子らの目は
山の外にも向かうようになった。
それは裏切りではない。
追われた者たちが、
“追われた先”だけでなく、
“追われる前の世界”をも
見直そうとする歩みである。
この書を記した者は
ボールドンという。
混じりモノの身にてここに暮らし、
人の本と谷のことばのあいだで
筆を迷わせ続けた者である」
──と。
その続きは、ザリュガ=フェルンという名の若者が書き足すことになるのだが、それはまた、別の話である。