“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~   作:こじまたり

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第22話 在留資格

 山はいざ登ってみると意外なほど近く感じたが、それでも遠かった。

 

 ザリュガ=フェルンは、肩に食い込む背負い袋の紐を握り直し、雪に埋もれきらない細い道を踏みしめていた。

 

 息は上がっている。

 太腿は焼けるように重い。

 

 それでも、彼の歩みは止まらなかった。

 高嶺谷の若者としては、これくらいの坂は日常の一部だ。

 谷の外へ出るのは初めてでも、雪と岩の渡り方は物心ついた頃から知っている。

 

(先生も、ここを越えたのか)

 

 ふと、ボールドンの顔が思い浮かんだ。

 

 老いた混血の記録者は出発前の晩、焚き火の前で山の話をしてくれた。

 

 獣の群れに追われたこと。

 アルノに助けられたこと。

 

 今ザリュが歩いているこの道も、かつてボールドンがアルノと共に駆け抜けた記憶の上にあるのだと思うと、どこか繋がりを感じる気がした。

 

◇ ◇ ◇

 

 やがて風の向きが変わった。

 背中から押していた冷気が、横から顔を撫でるようになる。

 

 ザリュは足を止め、息を整えた。

 

 視界の先、傾斜はわずかに緩やかになっている。

 

 山頂。

 

 その言葉を谷の子どもたちはよく口にしたが、実際にそこに立った者は多くない。

 ザリュにとっても、これが初めてだった。

 

 最後の岩場をよじ登り、雪を払って立ち上がる。

 目の前の景色が、ひらけた。

 

 背後には谷を囲む山々が連なっている。

 雪を頂いた峰々が、幾重にも重なり合って白と青の波を作っていた。

 

 前方には、別の世界が広がっていた。

 

 山の斜面の向こう、遠くに平らな土地が見える。

 

 細い線がいくつも走り、その上を小さな黒い点がゆっくりと動いていた。

 煙の筋。

 煙の根元には、屋根の集まりがある。

 高嶺谷よりももっと密に、地面に貼りつくように。

 

(あれが、人間の……)

 

 胸の内で、何かが跳ねた。

 

 不安は握りこぶし一つ分ほど。

 期待はその何倍もあった。

 

 谷で聞いてきた物語の向こう側に、今、自分の足で辿り着こうとしている。

 

 ザリュは深く息を吸った。

 

 冷たい空気が肺の奥まで刺さる。

 その痛みさえ、彼には心地よかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 山を下りる道は、登りとは違う種類の危険があった。

 

 雪解け水で滑る岩。

 足元をすくう小石。

 

 だが、若さと、高嶺谷で鍛えた足腰がザリュを支えた。

 

 何度か尻もちをつき、毒づき、それでも日が傾く頃には山裾の森へとたどり着いていた。

 そこから先は、ボールドンの教えてくれた通り川沿いの道を辿る。

 

 谷で見たことのない樹木が立ち並び、鳥の鳴き声も違う。

 

 空気の匂いが変わるたびに、自分が「外」にいるのだという実感が胸の中で重なっていく。

 

◇ ◇ ◇

 

 村だと聞いていた場所は、村ではなくなっていた。

 

 山からの道を抜けると、視界の先に広い空き地と、真っ直ぐ伸びる鉄の線が見えた。

 鉄の線は木々を割り、街の中心へ向かっている。

 

 その傍らに、白い壁の建物が建っていた。

 

 大きな時計のついた塔。

 人々が出入りしている。

 

 ザリュは立ち止まり、口を半ば開けたまま周囲を見回した。

 

 レンガ造りの家が並び、石畳の道を車輪のついた箱が走っている。

 箱の前には角のない獣――馬がつながれ、行き交う人間たちは似たような帽子と服を身にまとい、慣れた足取りで互いを追い越していく。

 

 遠くから、低くうねるような音が近づいてきた。

 鉄の線の上を黒い箱が滑ってくる。

 

 煙を吐き、鉄を軋ませ、街の中へと入ってくる。

 

(これは……いったい)

 

 見たことも聞いたこともない「文明の音」が、現実になって目の前を通り過ぎていく。

 谷の水車とは、比べ物にならない力の塊。

 

 ザリュは、生まれて初めて聞く音に胸の内側がざわめくのを感じた。

 

 高鳴りと、かすかな恐れ。

 ここは、高嶺谷の外の世界。

 

 追われた者たちが逃れてきた山の向こうで、人間たちはこんなものを走らせている。

 

(……すごい)

 

 素直にそう思った。

 

◇ ◇ ◇

 

 きょろきょろと辺りを見回しながら広場を歩いていると、背後から低い声が飛んできた。

 

「おい、そこの」

 

 共通語。

 

 谷で聞き慣れたイントネーションとも、ボールドンの柔らかい発音とも違う。

 もっと硬く、舌を突き出すような音の使い方。

 

 ザリュが振り向くと、そこにはひとりの男が立っていた。

 

 中年。

 がっしりとした体格。

 丈の詰まった軍服のような服。

 

 腰には剣。

 腕には腕章。

 

 普通の町人ではない――ということだけは一目で分かる。

 

「お前だ。そこの角の」

 

 男の視線が、ザリュの額の短い角に向かう。

 街の中で角を持っているのは、今のところザリュ自身しか見かけていない。

 

 周囲の人間たちも、ちらちらと視線を寄こしている。

 

 軽い好奇心。

 少しの警戒。

 

 ザリュは、肩にかけていた荷を少し持ち直した。

 

「なにか、問題でも」

 

 できる限り落ち着いた口調で言う。

 

 男はその共通語を聞いてわずかに眉を上げた。

 

「話せるのか。なら早い。

 ここは駐屯憲兵詰所の所管区域だ。

 外から来た者は、まず身分を確認させてもらう」

 

「みぶん……?」

 

 ザリュは、聞き慣れない言葉に思わず問い返す。

 谷の中では、名を名乗り、顔を見ればそれで足りた。

 

 「身分」を確かめるためのものなど、必要とされたことはない。

 

 男は、ザリュの戸惑いを「無知」として理解したらしい。

 少しだけ口元を緩めた。

 

「ここは王国領内だ。

 王都からの命令で、混血が出入りするときには在留資格を確認せよと言われている。

 よそから来た角持ちがいきなり街中でうろうろしていたら、困るからな」

 

 言葉自体は淡々としている。

 だが、「角持ち」という言い方にはかすかな距離感が滲んでいた。

 

 ザリュは、ほんの少しだけ肩を強張らせた。

 

「俺は、高嶺谷から来た。

 人に会いに来た。

 名前はザリュガ=フェルン」

 

「高嶺谷……?」

 

 男は、目を細めた。

 聞き覚えのある名なのかどうか、判断がつかない。

 

 ザリュは続けた。

 

「恩師がいる。

 その恩師が世話になった人間たちに、挨拶に来た。

 アルン、イオ、リェル。

 その三人を探している」

 

 その名前を聞いた瞬間、男の表情が変わった。

 驚きと、少しの警戒と、それから、懐かしさのようなものが一度に浮かんでは消えた。

 

「今、お前はなんと言った」

 

「アルン、イオ、リェル。

 ボールドンという名の混血の男が、ここで世話になっていたと聞いている」

 

 沈黙が二人のあいだを流れた。

 広場の喧噪が、遠くに聞こえる。

 

 男は、しばらくザリュを見ていた。

 

 角。

 瞳。

 言葉遣い。

 

 それから、微かに息を吐いた。

 

「……随分、懐かしい名前だ」

 

 低い声。

 

「イオとリェルの名は知っている。

 そして――

 アルンという名前も」

 

 男は、胸に指を当てた。

 

「俺の名前だ」

 

 ザリュの喉が鳴った。

 

「……え?」

 

「アルン。

 昔はただのならず者だったが、今は立派な王国軍憲兵様だ」

 

 冗談めかした言い回しの中にわずかな照れが混じっていた。

 ザリュは、思わず半歩近づいた。

 

「じゃあ――

 先生が言っていたアルンは、あんたのことか」

 

「先生、ね。

 ボールドンは元気か」

 

 ボールドンの名を男は自然に口にした。

 ザリュは、胸の内で何かがつながるのを感じた。

 

「元気だ。

 年は取ったが、まだ本を書いている。

 あんたによろしく伝えてくれと言われている」

 

「そうか。

 あいつは無事に着いていたか……」

 

 アルンは、ほんの少しだけ目を伏せた。

 何かを飲み込むように息を吸い、すぐに顔を上げる。

 

「証拠は」

 

「証拠?」

 

「ボールドンから預かっているものはないか。

 手紙とか」

 

「ああ」

 

 ザリュは慌てて懐を探った。

 布に包んだ封筒を取り出し、両手で差し出す。

 

 アルンはそれを受け取り、封の内側を確かめるように紙を光に透かして見た。

 やがて封を切り、中の文字に目を走らせる。

 

 一夜だけとはいえ、交わした言葉の雰囲気が文章から感じ取れる。

 

「……間違いないな」

 

 アルンは小さく笑った。

 その笑いには、懐かしさと、どこか寂しさがあった。

 

「ボールドンの知り合いなら、とりあえず問題はないだろう」

 

 そう言って、彼はザリュの肩を軽く叩いた。

 その手は、憲兵としての硬さを持ちながら、どこかかつて混血の男の背を押した兄の手と同じものでもあった。

 

◇ ◇ ◇

 

「まずは宿を取れ」

 

 アルンは言った。

 

「話はそれからだ。

 イオとリェルにも会わせてやる」

 

「助かる」

 

「ただし、ここに泊まるには在留資格書が要る」

 

 また聞き慣れない単語が出てきて、ザリュは首をかしげた。

 

「さっきも言ったが、今は不審な角持ちが街にいるだけでいちいち報告書を書かされる時代だ。

 お前みたいに目的もはっきりしている奴ばかりなら話は早いんだがな」

 

 アルンは、腰のポーチから小冊子を取り出した。

 

 中から、一枚の紙片を破り取る。

 素早く何かを書きつけ、印章を押した。

 

「よし、これだ」

 

 ザリュは紙を受け取った。

 硬めの紙に、人間の文字が並んでいる。

 

 中央には太い文字で「仮発行 在留資格書」と書かれていた。

 

 自分の名。

 種別――「魔族」。

 滞在目的――「知人訪問」。

 

 簡単なことしか書いていないが、紙の端に押された赤い印章が妙な重みを持って見えた。

 

「これは……何だ」

 

「お前が“ここにいていい”と王国軍憲兵が認めた印だ。

 宿屋や役所に見せれば、少なくとも追い出されはしない」

 

「“ここにいていい”……」

 

 ザリュは、思わず紙と街を交互に見た。

 

 谷では、誰かが谷に居てもいいかどうかを紙で決めたりはしなかった。

 

 追われてきた者たちが互いを抱え込んで生きる場所で、「在留資格」などという言葉は必要とされていなかった。

 

 ここでは違う。

 

 角を持つ者は、まず紙の上で分類され、その上でようやく「客」として扱われるのだ。

 

 意識の差。

 世界の仕組みの差。

 

 ほんの一枚の紙が、それを突きつけてくる。

 

「難しく考えるな」

 

 アルンが、ザリュの表情を見て笑った。

 

「こいつはただの“鍵”みたいなもんだ。

 持っていれば扉が開く。

 持っていなければ、扉は開かず。

 お前らの角が目立つ分、こういうのを先に用意しておいた方がお互い楽なんだよ」

 

 言い方は軽い。

 だがその軽さは、制度の重さを隠すための人間流の処世術なのだろう。

 

 ザリュは、紙を丁寧に折りたたみ懐に入れた。

 

「宿は、駅前の『白鹿亭』に行け。

 “アルンから聞いた”と言って、それを見せれば通る。

 仕事が終わったら迎えに行く。そこで改めて話そう」

 

 そう言うと、アルンは踵を返した。

 憲兵としての顔に戻り、広場の様子を見回しながら人の波の中へと消えていく。

 

 ザリュはその背中を見送り、それから街並みに向き直った。

 

◇ ◇ ◇

 

 『白鹿亭』は、アルンの言った通り駅の近くにあった。

 

 看板には角のない白い鹿が描かれ、

 扉の前には荷車が横付けされている。

 

 中に入ると、木の香りと料理の匂いが混じった空気が鼻をくすぐった。

 

「いらっしゃい」

 

 カウンターの奥から、女将と思しき中年の女が顔を出した。

 ザリュを見るなり目を瞬かせる。

 

 角。

 

 その視線の動きをザリュは敏感に感じ取った。

 だが、彼は深く息を吸い、

 

 懐から紙を取り出した。

 

「泊まりたい。

 アルンという憲兵からここを紹介された」

 

 女将は、紙を受け取り目を走らせる。

 

 在留資格書。

 アルンの署名。

 赤い印章。

 

 彼女の表情がわずかに緩んだ。

 

「そうかい。

 あいつが紹介するなら、悪い客じゃないだろうね。

 角の客は久しぶりだよ」

 

 言葉の中に、露骨な嫌悪はない。

 だが、「角の客」という区別は確かに存在している。

 

「二階の奥の部屋が空いている。

 一泊いくら――って、読めるかい?」

 

 女将は、壁にかかった料金表を指した。

 

 ザリュは共通語の数字と文字を追い、頷いた。

 

「読める。

 問題ない。払える」

 

「なら結構。

 あんた名前は?」

 

「ザリュガ=フェルン」

 

 女将は帳面にその名を書きつけ、ちらりと角を見てからニッと笑った。

 

「長え名前だねえ。

 じゃあ“ザリュ”でいいかい?」

 

「……ああ」

 

 ザリュは、どこか懐かしい響きを感じた。

 谷で友人たちが呼ぶのと同じ短縮だ。

 

 人間の女将の口からその呼び名が出てくることに、小さな驚きと、少しの嬉しさがあった。

 

◇ ◇ ◇

 

 部屋に通され、荷を下ろす。

 

 窓を開けると、石畳の道と鉄道の線路が見えた。

 人間の街の音。

 高嶺谷とは違う種類のざわめきが、遠くから耳に届く。

 

 ザリュは在留資格書を机の上に置き、しばらくそれを眺めた。

 

 紙一枚。

 

 ここでは、それが「居場所」の印になる。

 

 谷では、誰かと火を囲み、名前を呼び合うことが居場所の証だった。

 

 どちらが良い悪いではない。

 ただ、世界の意識が違う。

 

 その差を、ザリュはようやく自分の肌で感じ始めていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 ――後年、

 ザリュガ=フェルンが記した旅行記の

 最初の頁には、

 この日のことがこう記されている。

 

 *

 

 【『ある角持ちの旅行記』第一章より】

 

 「わたしは、高嶺谷という谷から来た。

 

  そこでは、人がそこにいていいかどうかを決めるのに、

  資格は要らなかった。

  名と顔と、火を囲んだ夜があれば足りた。

 

  しかし山を越え、人の国の最初の町に着いたとき、

  わたしは最初に“在留資格書”という紙を渡された。

 

  それは、わたしがそこにいていいと誰かが認めた印であり、

 

  同時に、

  わたしが“ここではないどこか”の者であると

  証明する印でもあった。

 

  谷の子らにとって、

  谷の外はただの“外”だった。

 

  人の国の者たちにとって、

  外から来た角持ちは、

  まず紙の上で名前と種別に分けられる。

 

  この違いを、

  わたしはそのとき初めて

  はっきりと知った。」

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