“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~   作:こじまたり

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第25話 朗読会再び

 東へ向かえ、と言われた。

 

 王都の表通りで宿を断られたザリュガ=フェルンは、その言葉に従って歩き出した。

 

 石畳は美しく整えられている。

 道の両脇には、レンガ造りの店が並び、窓辺には花鉢まで置かれていた。

 

 どの建物もきれいだった。

 どの看板も磨かれていた。

 どの通りにも、王都らしい秩序があった。

 

 だが、東へ進むほどに、その秩序が少しずつ変わっていく。

 

 店の看板から金色の飾りが消え、レンガの壁には煤とひびが目立つようになり、路地の奥から漂う匂いも変わった。

 

 焼けた油。

 湿った布。

 人の多すぎる場所に溜まる、逃げ場のない生活臭。

 

 ザリュは、そこに奇妙な懐かしさを覚えた。

 

 高嶺谷の匂いとは違う。

 混血街の匂いを、彼は知らない。

 

 けれど、ここにあるのは、誰かが整えた「王都」から零れ落ちたものたちの匂いだった。

 谷もまた、そういう場所だった。

 

 逃げた者。

 追われた者。

 行き場のない者。

 

 そうした者たちがどうにか火を囲み、名を呼び合い、自分たちの場所を作ってきた。

 ここも、たぶん同じなのだろう。

 

 そう思ったところで、路地の影から声がかかった。

 

「兄さん、そっち行くなら気をつけな」

 

 振り向くと、壁際に座り込んだ男がいた。

 

 髭は伸び、服はくたびれている。

 年齢は分かりにくい。

 

 だが、耳の形が少し尖っていた。

 混血だ。

 

「何に気をつければいい」

 

 ザリュが尋ねると、男はひゅう、と口笛を吹いた。

 

「おお、喋れる角持ちか。

 いや、喋れるどころか、ずいぶん丁寧だな。どこから来た」

 

「山の向こうから」

 

「山の向こう?」

 

 男は笑った。

 

「またずいぶん遠いところから、わざわざ掃き溜めに来たもんだ」

 

「ここが混血街か」

 

「そう呼ぶ奴もいる。役所の書類だと、東部居住調整区だ」

 

 男はその言葉をわざとらしく丁寧に発音し、すぐに肩をすくめた。

 

「きれいな名前だろ。馬鹿らしい」

 

 自嘲が混じっていた。

 ザリュは、その男の横に少しだけしゃがみ込んだ。

 

「宿を探している」

 

「なら、奥に行け。表通りの宿よりは安い。

 まあ、安いぶん、屋根が雨を通すこともあるがな」

 

「助かる」

 

 ザリュが立ち上がろうとすると、男はふと真顔になった。

 

「兄さん」

 

「何だ」

 

「ここじゃ、あんたの角は目立たない。

 でも、油断はするなよ。

 王都は人が多いぶん、よろしくない連中も混じってる」

 

 よろしくない連中。

 ザリュは、その言葉を胸の内で繰り返した。

 

 王都の表通りで浴びた視線を思い出す。

 あからさまな罵声ではない。

 石を投げられたわけでもない。

 

 ただ、見られる。

 そして、すぐ逸らされる。

 

 そこにいることは分かっているのに、そこにいないものとして扱われる。

 それは、谷で聞いていた差別とは少し違っていた。

 

 もっと静かで、もっと日常に溶けている。

 

◇ ◇ ◇

 

 混血街の宿は、宿というよりも大きな長屋に近かった。

 

 狭い受付。

 軋む階段。

 薄い壁。

 

 店主は、片目に傷のある女だった。

 彼女はザリュの角を見ても、特に表情を変えなかった。

 

「泊まりかい」

 

「ああ」

 

「在留資格書は?」

 

 ザリュは懐から紙を出した。

 

 女は受け取り、内容をざっと見て、ふん、と鼻を鳴らす。

 

「立派な紙だ。王都の表で断られた口だね」

 

「分かるのか」

 

「分かるさ。表で泊まれた角持ちは、こんなところに来ない」

 

 女は鍵を取り、机に置いた。

 

「三階の奥。飯は下で出る。

 喧嘩をするなら外でやりな。

 ただし、憲兵に捕まると面倒だから、できればやるな」

 

「揉め事を起こすつもりはない」

 

「みんな最初はそう言うのさ」

 

 女はそう言って、少しだけ笑った。

 

◇ ◇ ◇

 

 その夜、ザリュは宿の一階で粗末な煮込みを食べていた。

 

 薄い肉。

 硬い豆。

 濃い塩気。

 

 谷の食事とは違うが、体には染みた。

 

 周囲には混血らしい者たちが多い。

 額に小さな角を持つ者。

 瞳の色だけが魔族に近い者。

 牙が少しだけ覗く女。

 ほとんど人間にしか見えない男。

 

 彼らは大声で笑うこともあれば、急に声を潜めることもあった。

 その振る舞いの端々に、外の世界を警戒する癖が染みついている。

 

 窓際では、昼間の浮浪者らしき男が仲間数人と一緒に安酒を飲んでいた。

 男はザリュに気づくと手招きした。

 

「山の兄さん。こっち来いよ」

 

 ザリュは少し迷ったが、椀を持ってその卓へ移った。

 

「名を聞いてなかったな」

 

「ザリュガ=フェルン。ザリュでいい」

 

「俺はナト。

 こいつはベズ、そっちはミーシャ。

 全員、だいたい仕事なしだ」

 

 ナトは笑った。

 だが、心からの笑いではない。

 笑うことで自分をだましている。そんな笑い方だった。

 

「仕事がないのか」

 

「ないわけじゃない。できないようにされてる、が近いさ」

 

 ベズと呼ばれた痩せた男が言った。

 

「清掃、荷運び、下水、危ない工場。そういう仕事ならある。

 でも、少しでもいい仕事に就こうとすると、“今回は縁がなかった”って言われる」

 

 ミーシャが指で杯の縁をなぞる。

 

「わたし、字は読めるんだよ。計算もできる。

 でも帳簿係にはなれなかった。

 理由は言われなかったけど、店主がずっとわたしの牙を見てた」

 

 ザリュは何も言えなかった。

 

 谷では、魔族であることは前提だった。

 角も牙も、誰かを測る理由にはならない。

 

 ここでは違う。

 

 人間の国では、混血であることも、魔族であることも、まず「説明すべきもの」になる。

 

「何かをしたいとは思わないのか」

 

 ザリュが尋ねると、ナトが笑った。

 

「思うよ。思うだけなら、毎晩な」

 

「何を」

 

「分からん」

 

 ナトは、空の杯を振った。

 

「教会に火でもつけりゃいいのか。宿屋の主人を殴ればいいのか。役所の窓を割ればいいのか。

 そういうことを考える夜はある。でも、翌朝には腹が減る。捕まったら飯どころじゃない。それで終わりだ」

 

 沈黙が落ちる。

 

 怒りはある。

 だが、怒りの向け先が分からない。

 

 何もできない。

 しかし、何かをしたい。

 

 それは、かつて地下朗読会に集まっていた者たちと同じことなのだと、ザリュはまだ知らない。

 ただ、その胸のざわめきだけは感じ取っていた。

 

◇ ◇ ◇

 

「山の向こうってのは、どんな場所なんだ」

 

 やがて、ミーシャが尋ねた。

 

「魔族が住んでるんだろ」

 

「ああ」

 

「やっぱり、人間を憎んでる?」

 

 その問いは、率直だった。

 ザリュは少し考えた。

 

「憎んでいる者もいる。そうでない者もいる。

 人間のことを知らない者も多い。憎むほど近くないんだ」

 

「憎むほど近くない、か」

 

 ナトが呟く。

 

「いいな、それ」

 

「いいことばかりじゃない。知らないからこそ、怖がる。

 怖がるから、近づかない。近づかないから、分からないままだ」

 

 ザリュは、自分でも驚くほど自然に言葉を続けていた。

 

 ボールドンが語ってくれたこと。

 谷で学んだこと。

 アルノの死。

 ザリュ自身が山を越えて見たもの。

 

 それらが、少しずつ言葉になっていく。

 

「俺の先生は、混血だった」

 

 そう言うと、卓の者たちが顔を上げた。

 

「人間の国で生まれた。でも、人間にも魔族にもなりきれなかった。

 先生は、昔、王都の地下で本を読んでいたらしい」

 

「地下で本?」

 

 ベズが眉をひそめる。

 

「ああ。ヨルン・エルネストという記録官の本だ」

 

 その名を出した瞬間、ナトの顔がわずかに変わった。

 

「ヨルン……聞いたことがある」

 

「禁書の名前だろ」

 

 別の卓から声がした。

 いつの間にか、周囲の者たちも耳を傾けていた。

 

 ザリュは言葉を止めた。

 まずいことを言ったのかもしれない。

 

 だが、止めるにはもう遅かった。

 

「読んだことはあるのか」

 

 ミーシャが身を乗り出した。

 

「直接ではない。

 先生が読んで、聞かせてくれた。俺は、先生の写しを少しだけ読んだ」

 

「何が書いてある」

 

「戦争のあとに、救われなかった者たちのこと」

 

 ザリュは、ゆっくりと答えた。

 

「魔族収容区。

 戦犯裁判。

 勇者の言葉。

 混血街に続くような、名前のない者たちのこと」

 

 宿の一階が、少し静かになった。

 外では馬車が通り過ぎる音がした。

 

「話してくれよ」

 

 ナトが言った。

 

「その、当たり障りのあるところじゃなくてもいい。

 まずは、当たり障りのないところからでいい」

 

 ザリュは、しばらく迷った。

 

 ボールドンは言っていた。

 ヨルンの言葉は武器にもなる。

 盾にもなる。

 鏡にもなる。

 

 自分の怒りに他人の言葉を巻き込むな、と。

 

 だが、ここにいる彼らは怒りを持て余している。

 ただ火をつければ燃え広がるかもしれない。

 ならば、火ではなく、灯りとして差し出すことはできないか。

 

 ザリュは椀を置いた。

 

「俺の先生が、最初に教えてくれた話からでいいか」

 

 皆が黙って頷いた。

 

◇ ◇ ◇

 

 ザリュは語り始めた。

 

 高嶺谷の話ではない。

 まずは、もっと穏やかな話。

 

 山の向こうの村。

 人間、魔族、混血が、

 同じ卓を囲んで酒を飲んでいた村の話。

 

 人間の兄が、魔族の妹婿を不器用に認めていた話。

 混血の青年が、「ここは居心地がいい」と言いながらも、いつまで続くか分からないと不安を漏らした話。

 そこにいたボールドンという男が、魔族の家族へ手紙を届ける役目を買って出た話。

 

 最初は、皆、物語を聞く顔をしていた。

 

 遠いどこかの話。

 自分たちとは違う場所の話。

 

 だが、ザリュが語るうちにその表情が少しずつ変わっていった。

 

 人間と魔族が同じ卓で笑っている。

 混血が、混血であることを一番の特徴にされない。

 

 そんな場所が、王都の外にはあった。

 それだけで、彼らの中の何かが揺れる。

 

「そんな村、本当にあるのか」

 

 ベズが聞いた。

 

「ある。正しくは、あった、だがな」

 

「じゃあ、俺たちは何なんだろうな」

 

 ナトが笑った。

 

 だが、その笑いには誰も続かなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 それから、ザリュはヨルンの話をした。

 

 禁書の中身を朗読したわけではない。

 彼自身、全文を持っているわけではない。

 

 だが、ボールドンから繰り返し聞かされた一節は、記憶の底に残っていた。

 

「ヨルンという記録官は、勇者を貶めたかったわけじゃないと、先生は言っていた。

 ただ、“すべてが救われた”という話の外側にいた者たちを、消したくなかった」

 

 誰かが小さく息を飲んだ。

 

「勇者は、“もう誰も殺したくない”と言ったらしい。

 でも、その言葉は、公式の演説からは消えた」

 

 宿の片隅で、杯を持った女が泣きそうな顔をした。

 

「消えるんだな」

 

 彼女は言った。

 

「言葉って、消えるんだな」

 

「消える。でも、誰かが覚えていれば、別の形で残る」

 

 ザリュは答えた。

 

「俺の先生は、それを“読むだけでは足りない”と言った。

 自分の目で見て、自分の言葉で書け、と」

 

「書けって言われてもな」

 

 ナトが頭をかく。

 

「俺たち、そんな大したことは書けねえぞ」

 

「大したことじゃなくていい」

 

 ザリュは、ボールドンに言われた言葉を思い出しながら言った。

 

「誰かが読める形で残すことが大事なんだ」

 

 沈黙。

 そして、小さな声。

 

「じゃあ、今日のことを書いてもいいのか」

 

 ミーシャだった。

 

「王都の宿で、山の向こうから来た魔族が、ヨルンの話をしたって」

 

「いいと思う」

 

「わたしの字、汚いよ」

 

「俺の魔族語の字も、最初はひどかった」

 

 その言葉に、少しだけ笑いが起きた。

 硬かった空気が、わずかにほどける。

 

◇ ◇ ◇

 

 その夜の集まりは、誰が言い出したわけでもなく遅くまで続いた。

 

 最初は四人の卓だった。

 やがて隣の卓から椅子が寄せられ、壁際に立つ者が増えた。

 宿の女将は少し離れたところからそれを見ていたが、止めはしなかった。

 

 禁書の朗読会ではない。

 

 ザリュは本を開いていない。

 彼はただ、師から聞いた話を自分の言葉で語っているだけだ。

 

 それでも、その場には確かにかつて地下でロウソクを囲んだ者たちの気配があった。

 

 ただ、違うこともある。

 ザリュは、ヨルンの名を掲げて誰かを責めなかった。

 勇者教会を罵ることもしなかった。

 

 ただ、「そうではない見方もある」と語った。

 「救われなかった者たちがいた」と語った。

 「自分たちの言葉で書いていい」と語った。

 

 それは、怒りを否定する言葉ではない。

 怒りが、自分自身の形を見失わないための言葉だった。

 

◇ ◇ ◇

 

 夜更け。

 

 宿の外へ出ると王都の空は狭かった。

 

 高い建物の隙間から、星が少しだけ覗いている。

 勇者教会の尖塔は、東の空からも見えた。

 その塔の足元に、混血街はある。

 

 美しく整えられた王都の制度。

 在留資格書。

 居住調整区。

 労働許可。

 表向きの平等。

 

 それらは、紙の上では整っている。

 

 だが、紙の外側では何もできずに燻る者たちがいる。

 

 何かをしたい。

 だが、何をすればいいか分からない。

 

 その気持ちは、放っておけば火になる。

 

 けれど、言葉を与えれば灯りになることもある。

 

 ザリュは、自分の手を見下ろした。

 

 谷でチョークを握っていた手。

 ボールドンから手紙を受け取った手。

 在留資格書を差し出した手。

 

 そして今、誰かに話を渡した手。

 

「先生」

 

 彼は、誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「俺は、うまくやれているだろうか」

 

 答えはない。

 

 だが、宿の中ではまだミーシャが紙と炭筆を探している声がしていた。

 

 その小さなざわめきだけが、今夜の答えのようにも思えた。

 

◇ ◇ ◇

 

 ――後年、混血街の民間資料の中に、この夜を思わせる断片が残されている。

 

 筆者は不明。

 文字は拙く、ところどころ誤字も多い。

 

 だが、そこには確かにひとつの集まりが始まった夜の空気が刻まれていた。

 

 

 

 【『東部居住区聞書断片』より】

 

 「その夜、

  山の向こうから来た角の男が、

  われらに話をした。

 

  彼は、

  勇者を罵らなかった。

 

  教会を燃やせとも言わなかった。

 

  ただ、

  “書かれなかった者たちがいる”と言った。

 

  “書かれなかったなら、

   自分たちで書いてもよい”と言った。

 

  われらは、

  それまで自分たちを

  王都の汚れのように思っていた。

 

  掃き寄せられ、

  名前をまとめられ、

  区画の中に置かれるものだと。

 

  だが、その男は、

  われらのことを

  “まだ書かれていない行”のように語った。

 

  それが正しいのか、

  危ういのかは分からない。

 

  ただ、その夜から、

  何人かが紙を持つようになった。

 

  誰かを殴るためではなく、

  自分たちがここにいたと

  後で誰かに知らせるために。」

 

 ――と。

 

 この断片が、のちに「第二の朗読会」と呼ばれる小さな動きの始まりであったかどうかは研究者の間でも意見が分かれている。

 

 ただ、この夜以降、混血街では粗末な紙片に自分の暮らしを書きつける者が増えた。

 

 その事実だけは、複数の資料が静かに物語っている。

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