“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~   作:こじまたり

26 / 27
第26話 名のない歯車

 王都の朝は、聴きなれない音で始まる。

 

 高嶺谷の朝は、もっと静かだった。

 雪を踏む足音。

 薪を割る乾いた音。

 炉に火が入り、鍋が温まっていく匂い。

 

 誰かが戸を開けると冷たい風が家の中に流れ込み、子供たちが「寒い」と魔族語で文句を言う。

 それを年寄りが笑って、誰かが湯を沸かす。

 

 朝はそういうものだった。

 だが、王都の朝は違う。

 

 窓の外から鉄の車輪が軋む音がする。

 遠くで汽笛が鳴り、どこかの工場が一日の始まりを告げる鐘を鳴らす。

 石畳を荷車が走り、階下では皿が重ねられ、誰かが怒鳴り、誰かが笑う。

 

 蒸気の抜ける音が、細い路地を震わせるように響いた。

 

 ザリュガ=フェルンは、混血街の安宿の三階で目を覚ました。

 

 薄い毛布の下で、しばらく天井を見つめる。

 壁の向こうから隣室の男が咳き込む声が聞こえた。

 そのさらに下からは、宿の女将が誰かを叱る声。

 

 王都は、朝日と共に目覚めるのではない。

 

 歯車が噛み合うように、ひとつ、またひとつと、音を増やしていく。

 そんな街だった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 階下へ降りると、食堂にはすでに何人もの客がいた。

 混血街の宿だけあって、そこにいる者たちの姿はばらばらだ。

 

 耳が少し尖った男。

 瞳の色だけが魔族に近い女。

 額に小さな角の名残を持つ老人。

 一見すれば人間と変わらないが、笑った拍子に牙が覗く若者。

 

 彼らは、椀に入った薄い粥をかき込み、黒パンを布に包み、仕事へ向かう準備をしている。

 

 ザリュが席に着くと、窓際で湯をすすっていたナトが手を上げた。

 

「先生、今日は外に出るのか」

 

 いつの間にか、彼らはザリュをそう呼ぶようになっていた。

 高嶺谷で呼ばれていた「先生」とは、少し違う。

 

 半分は冗談。

 半分は敬意。

 もう半分は、何か分からないものを知っていそうな者への淡い期待。

 

「ああ。鉄道駅を見たい」

 

「駅か。そりゃまた、朝から油臭いところへ行くんだな」

 

 ナトは笑った。

 彼の隣にいた痩せた男、ベズが、硬いパンをかじりながら口を挟む。

 

「油臭いだけじゃない。

 蒸気管の近くは熱い。下水管の近くは臭いし、荷の積み下ろし場は騒がしい。

 で、そういう場所には大体、俺たちみたいのがいる」

 

 ナトはそう言って、空になった椀を置いた。

 

「ついでだ。俺たちの仕事場も見ていけよ。王都がどれだけ立派なもんか、よく分かる」

 

 その言い方には、皮肉と少しばかりの誇りが含まれていた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 宿を出ると、混血街の朝はすでに動き出していた。

 

 狭い路地に人が集まり、簡素な札や道具を受け取っている。

 札は仕事先の住所と、その仕事に就いたという証文だ。

 

 清掃用の長い柄の箒。

 下水路の蓋を開ける鉄棒。

 油に汚れた手袋。

 荷運び用の革帯。

 

 人々はそれぞれ、王都のあちこちへ散っていく。

 

「清掃、下水、工場、駅、廃材処理。

 だいたいその辺りが、混血街の連中に回ってくる仕事だ」

 

 ナトが言った。

 

「仕事があるのは、いいことじゃないのか」

 

 ザリュが尋ねると、ナトは肩をすくめた。

 

「いいことだよ。

 腹は膨れる。家賃も払える。酒も、まあ少しは飲める」

 

 そこで彼は、自分の指を見せた。

 右手の薬指の先が、少し欠けていた。

 

「機械が増えると仕事も増える。ありがたい話だ。

 ただし、俺たちに回ってくるのは、油まみれになる場所と、爆ぜたときに死ぬような場所だけだがな」

 

 路地の向こうで、若い混血の女が重そうな工具箱を肩に担いで歩いていく。

 ザリュはその背を見送った。

 

 機械化。

 王都の進歩。

 勇者の勝利からの発展。

 

 そうした言葉の下で、この街の者たちは油に濡れ、蒸気に焼かれ、それでも朝になると仕事へ向かっている。

 

 彼らは犠牲者だけではない。

 働く者だった。

 稼ぐ者だった。

 誰かの食卓を支える者だった。

 

 だが、その働きが王都の誇りとして語られることは、おそらくないのだろうか。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 鉄道駅は、王都の西側にあった。

 

 ザリュは遠くからその建物を見た瞬間、思わず足を止めた。

 

 巨大な屋根。

 鉄骨。

 石造りの壁。

 煙突。

 

 高嶺谷の水車を初めて作ったとき、谷の者たちは皆、それを誇らしげに見上げていた。

 流れる水が木の羽を押し、軸が回り、挽き臼が動く。

 あれも十分に大きな発明だった。

 

 だが、王都の駅は違う。

 

 ここでは、機械が建物の中に収まっているのではない。

 建物そのものが、機械の一部であるように見えた。

 

 黒い車体が、煙を吐いて止まっている。

 何十もの荷箱が積まれ、作業員たちが号令に合わせて動いていた。

 蒸気が白く噴き出し、鉄の車輪がわずかに軋む。

 

 ザリュは、胸の奥が震えるのを感じた。

 

 美しい。

 そう思ってしまった。

 

 恐ろしいよりも先に、その仕組みの大きさと精密さに、目を奪われた。

 

「すごいだろう」

 

 近くで、商人らしい男が自慢げに言った。

 ザリュに向けた言葉ではなかった。

 隣にいる若い見習いに話しているらしい。

 

「王国は変わった。

 もう馬と剣だけの時代じゃない。

 鉄道があれば、北の鉱石も南の麦も三日で王都に届く」

 

「魔王戦争の頃には、なかったんですよね」

 

「ああ。昔とは違う。

 今の王国は、機械で大陸をまとめるんだ」

 

 男は誇らしげだった。

 

 その誇りは、嘘ではない。

 ザリュにも分かる。

 

 鉄道は確かに大きな力だ。

 人と物を運び、街を支え、冬の飢えを減らす。

 各地にこの仕組みがあれば、助かる者は多いだろう。

 

 だが、その誇らしげな言葉の中に、駅の裏で油にまみれている混血の名は出てこない。

 蒸気弁を調整している魔族も出てこない。

 

 王国は機械で大陸をまとめる。

 その機械を、誰が動かしているのか。

 

 ザリュは、それを知りたくなった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 駅の裏手へ回ると空気が変わった。

 

 表側では、汽笛や人のざわめきが目立つ。

 裏側では、金属が打たれる音、工具が床に置かれる音、蒸気に負けない、威勢のいい者たちの声が響いていた。

 

 そこに、魔族がいた。

 

 額には短い角。

 肌の色は人間とほとんど変わらない。

 だが瞳の奥に、谷の者たちと近い深い色があった。

 

 彼は蒸気管の前に屈み込み、片手で圧力計を見ながらもう片方の手で弁を調整していた。

 

「そこ、締めすぎるな」

 

 彼は共通語で若い作業員に告げた。

 

「冬場は圧が落ちるが、昼になれば戻る。今締めると昼に釜の調子が悪くなる」

 

「はい、ヴェルグさん」

 

 若い人間の作業員が素直に頷く。

 

 魔族の男――ヴェルグと呼ばれた技術者は、ザリュの方に視線を向けた。

 

 角を見る。

 それから、作業員へ向ける顔とは違う顔で少し笑った。

 

「珍しいな。外の者か」

 

「なぜ分かる」

 

「王都の魔族は、そんなふうに真っ直ぐこちらを見ないからな」

 

 ザリュは、言われて初めて周囲を見た。

 何人かの作業員が、こちらを気にしている。

 

「ザリュガ=フェルン。高嶺谷から来た」

 

「ヴェルグ・ラシュだ。王都鉄道整備局、第三整備班所属」

 

 ヴェルグは手袋を外し、油の染みた手を布で拭いた。

 

「機械を見に来たのか」

 

「ああ。王都の機械を知りたかった」

 

「なら、こっちに回って正解だ。

 表にあるのは調子の良い看板だけ。

 機械の本当の顔は、裏にある」

 

 ヴェルグはそう言って、蒸気管を軽く叩いた。

 

「王国の機械は嫌いじゃない。むしろ、美しいと思う。

 蒸気の圧が釜を押す。

 弁がそれを逃がす。

 歯車が力を受け、車輪が動く。

 機械ってのは素直だ」

 

 その声には、確かな愛情があった。

 

「人間は素直ではないと?」

 

 ザリュが尋ねると、ヴェルグは少しだけ笑った。

 

「人間だけじゃない。

 魔族も混血も変わらないさ。そういう意味じゃな」

 

 彼は近くの壁に貼られた図面を指差した。

 そこには、新型蒸気弁の構造が描かれている。

 下部には、設計者の名が記されていた。

 

「これは、あなたが?」

 

「俺だけじゃない。ここの班で作った。

 若い人間の技師もよく働いた。

 混血の作業員も何度も試験に付き合った。

 だが、そこに載る名前はひとつだ。良く分からんお偉いさんの名だ」

 

「悔しくないのか」

 

「悔しいさ」

 

 ヴェルグはあっさり言った。

 

「だが、名前を載せろと騒げば、次から設計に関われなくなる。

 俺は機械に触りたい。

 機械をよくしたい。

 列車が安全に走るなら、それは俺の誇りだ。

 ……その誇りを、誰かに認めてもらえないことにも、まあ、悔しいがだいぶ慣れた」

 

 慣れた。

 

 その言葉が、ザリュの胸に小骨のように残った。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 少し離れた場所から、若い人間の技師が駆け寄ってきた。

 

「ヴェルグさん、二番線の圧力弁なんですが――」

 

 彼はそこでザリュに気づき、ほんの一瞬だけ視線を角に止めた。

 だが、すぐに会釈した。

 

「失礼しました。見学の方ですか」

 

「そんなところだ」

 

 ザリュが答えると、若い技師は人懐こく笑った。

 

「ヴェルグさんに案内してもらえるなら、運がいいですよ。

 この駅の蒸気弁は、ヴェルグさんがいなければ三度は爆発してますから」

 

「大げさだ」

 

「大げさなんかじゃありません。

 去年の冬なんか、僕らだけなら絶対にやらかしてましたよ」

 

 若い技師の尊敬は本物だった。

 

 ザリュは、彼を見た。

 

 悪意はない。

 むしろ、目の前の魔族技術者を心から頼りにしている。

 

 だからこそ、尋ねた。

 

「なら、なぜ図面に彼の名前がない」

 

 若い技師は、言葉を失った。

 気まずそうに視線を泳がせ、それから困ったように笑う。

 

「それは……まあ、色々ありますよ。

 ヴェルグさんも、波風を立てたくないと言っていますし」

 

「波風」

 

 ザリュは繰り返した。

 

 アルンたちも言っていた。

 波風を立てなければ、今のままでいられる。

 

 波風を立てないことは、誰かの暮らしを守る知恵でもある。

 だが同時に、誰かの名前を消したままにする口実にもなる。

 

 若い技師は善良だった。

 ヴェルグを尊敬していた。

 

 その善良さと、名前が消される仕組みが何の矛盾もなく同じ場所に並んでいる。

 

 ザリュは、怒ればいいのか、悲しめばいいのか分からなくなった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 駅を出た後、ザリュは勇者教会の前庭へ向かった。

 

 何やら祭が近づいているらしく、前庭には仮設の展示場が作られていた。

 

 小型蒸気機関。

 模型列車。

 街灯装置。

 新式の印刷機。

 

 子どもたちが目を輝かせ、親たちが誇らしげに笑っている。

 

 看板には、こう書かれていた。

 

『勇者の勝利から百年。

 王国は、ここまで進歩した』

 

 白衣を着た係員が、小型の機関を動かして見せる。

 蒸気が噴き、車輪が回ると子どもたちから歓声が上がった。

 

 司祭が、その隣で穏やかに語る。

 

「勇者様が魔王を討ち、王国に平和を取り戻してくださったからこそ、

 我々はこうして技術を磨き、豊かな時代を迎えることができたのです」

 

 誰も疑問を挟まない。

 確かに、戦争が終わらなければ、この機械の多くは生まれなかったかもしれない。

 

 だが、ザリュは展示の裏手に視線を向けた。

 そこでは、混血の青年が汗を拭きながら、動かなくなった模型の歯車を調整していた。

 

 さらに奥には、角を布で隠した魔族らしき女が係員に小声で何かを指示している。

 

 展示の看板に、彼らの名はない。

 

 王国の進歩。

 勇者の勝利。

 機械文明の誇り。

 

 その言葉の中に、油に汚れた手は入っていない。

 

 ザリュは、看板の文字をもう一度見た。

 

 王国は、ここまで進歩した。

 

 その「王国」の中に、

 混血街の者たちは含まれているのか。

 駅裏のヴェルグは含まれているのか。

 名を載せてもらえない技術者たちは、どこにいるのか。

 

 答えは、看板には書かれていなかった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 夜。

 

 混血街の宿に戻ると、一階の食堂にはまた紙が、記録が集まり始めていた。

 

 前よりも少し増えている。

 

 日記。

 労働記録。

 家族の名前が連なった紙。

 職を断られた日のことが綴られた詩のようなもの。

 

 そして今日は、機械にまつわる手記が多かった。

 ミーシャが、一部を開いて読み上げる。

 

「“蒸気管の点検に入った。

 中は熱く、息がしづらかった。

 人間の正職員は入口で待っていた。

 私たちが奥に入り、弁を締めた。

 作業後、正職員が報告書を書いた。”」

 

 別の男が紙片を差し出す。

 

「俺のも読んでくれ。字が汚いから」

 

 そこには、工場で指を失った混血の話が書かれていた。

 

 補償は出た。

 少ないが、出た。

 だから文句を言うべきではないのかもしれない。

 

 だが、指を失った者の名は工場記録に残らず、

 故障した機械の部品名だけが記録に残っていた。

 

 ナトは、油で汚れた布袋から一枚の紙を取り出した。

 

「駅の仕事をしてる奴から預かった。

 “新型連結器の試験に参加。作業員三名、うち混血二名。

 報告書には整備班主任の名のみ記載”だとさ」

 

 紙片が机に重ねられていく。

 

 ザリュはそれを分類した。

 

 鉄道。

 工場。

 清掃。

 下水。

 展示。

 事故。

 名前の欠落。

 

 王都の機械化は、彼らに仕事を与えていた。

 同時に、彼らの名を陰に沈めていた。

 

 善なのか悪なのか。

 希望なのか新しい鎖なのか。

 

 ザリュには、答えが出せなかった。

 

 ただ一つ、分かることがある。

 

 王国は、差別を消してはいない。

 差別を、より複雑な形に変えている。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「先生」

 

 若い混血の男が、不意に声をかけた。

 

 以前、店で仕事を断られたことを書いて朗読会で話していた青年だった。

 名はロウ。

 額に、小さな角の痕だけがある。

 

「俺たちがこうしてその日にあったような事を書いて、何か変わるんですか」

 

 食堂が静かになった。

 誰もが、同じ問いをどこかで抱いていたのだろう。

 

 ザリュは、すぐには答えられなかった。

 

 書けば変わる。

 そんなことは言えない。

 

 ヨルンは書いた。

 それでも禁書にされた。

 

 ボールドンは読んだ。

 それでも朗読会は時に暴力へ傾いた。

 

 ザリュが語り、彼らが書き始めても、王都の表通りの宿は角持ちを泊めない。

 駅の図面にヴェルグの名は載らない。

 勇者教会前の展示には、混血の仕事は書かれない。

 

 書けば、何か変わるのか。

 

 分からない。

 

 だが、ザリュはボールドンの声を思い出した。

 

 ――下手でいい。

 ――大事なのは、誰かが読める形で残すことだ。

 

 さらに遠くに、ヨルン・エルネストという名の記録官がいる。

 

 彼は、世界を救うために書いたのではない。

 消されるものを、消される前に紙へ移した。

 

 ザリュは、机の上の紙片に手を置いた。

 

「変わるかは分からない」

 

 正直に言った。

 ロウの目が、少しだけ沈む。

 

「明日の仕事が増えるとは限らない。

 名前がすぐ図面に載るとも限らない。

 勇者教会の展示に、お前たちの名札が並ぶとも限らない」

 

 そこで一度、言葉を切る。

 

「だが、書かなければ、この発展は“王国だけの手で動いた”ことになる」

 

 誰かが息を飲んだ。

 

「お前たちが油にまみれていたことも、

 蒸気に焼かれたことも、

 指を失ったことも、それでも歯車を止めなかったことも、

 誰も知らないままになる」

 

 ロウは、机の上の紙片を見た。

 

「……それは、嫌ですね」

 

「ああ」

 

 ザリュは頷いた。

 

「俺も嫌だ」

 

 ミーシャが、静かに帳面を開いた。

 

「今のも書いていい?」

 

「今の?」

 

「先生が、“俺も嫌だ”って言ったこと」

 

 ザリュは少し困った。

 

 ナトが笑う。

 ベズも肩を震わせる。

 

「見たままを書くんだろ、先生」

 

 ザリュは、しばらくしてから頷いた。

 

「……なら、書けばいい」

 

 ミーシャは満足そうに炭筆を握った。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 その夜遅く、ザリュは宿の小さな部屋で自分の旅行記を開いた。

 

 外では、まだ遠くで鉄道の音がしている。

 王都は夜になっても、完全には眠らないらしい。

 

 彼はペンを取り、ゆっくりと文字を書いた。

 

 王都は悪の都ではない。

 

 そう書いて、少し手を止めた。

 

 悪の都ではない。

 それは確かだった。

 

 王都には美しいものがある。

 便利なものがある。

 子どもの歓声があり、

 職人の誇りがあり、

 恋人たちが駅で手を振り、

 若い人間の技師が魔族の先輩を心から尊敬している。

 

 だが、その同じ街で、名前は消える。

 

 人間は機械を「王国の誇り」と呼ぶ。

 混血はそれを「仕事」と呼ぶ。

 魔族はそれを「自分たちの手が触れたもの」と呼ぶ。

 

 同じ歯車を見ても、

 立つ場所によって、見えるものが違う。

 

 ザリュは、さらに書き続けた。

 

 油の匂い。

 蒸気の熱。

 紙に載らない名前。

 波風を立てない善良さ。

 

 それらは一日見ただけでは分からない。

 

 何度も見て、

 何度も視線を受け、

 何度も同じ道を歩いて、

 ようやく街の仕組みの中に混ざる差別の形が見えてくる。

 

 ザリュはペンを置いた。

 

 窓の外で、汽笛が鳴る。

 

 高嶺谷の夜にはない音だった。

 だが、もうそれを聞いても、眠れないほど驚くことはない。

 

 そのことが、少しだけ怖かった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 ――後年、

 東部居住区で作られた私的記録集には、この時期にまとめられた「機械篇」と呼ばれる章がある。

 

 その序文は、誰の手によるものか確定していない。

 ただし、文体や整理方法から、ザリュガ=フェルンが深く関わっていたと見る研究者は多い。

 

 *

 

 【『東部居住区私的記録集・機械篇』序文】

 

 王都は機械の街になりつつあった。

 

 人間はそれを進歩と呼んだ。

 混血はそれを仕事と呼んだ。

 魔族はそれを、名を消された技術と呼んだ。

 

 どの呼び方を選んだとしても、

 蒸気は同じように噴き、

 歯車は同じように回った。

 

 しかし、

 歯車はひとりで回るものではない。

 

 そこには、

 油に濡れた手があった。

 蒸気に焼かれた腕があった。

 名を出されなかった技師がいた。

 報告書に残らなかった作業員がいた。

 

 王都の鉄道は、王国の誇りであるという。

 

 その言葉に異論はない。

 

 ただし、その誇りの下に、

 我々の手もあったことを、ここに記しておく。

 

 誰かに許されたからではない。

 

 歯車が回るたび、

 そこに我々がいたからである。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。