“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~ 作:こじまたり
王都の朝は、聴きなれない音で始まる。
高嶺谷の朝は、もっと静かだった。
雪を踏む足音。
薪を割る乾いた音。
炉に火が入り、鍋が温まっていく匂い。
誰かが戸を開けると冷たい風が家の中に流れ込み、子供たちが「寒い」と魔族語で文句を言う。
それを年寄りが笑って、誰かが湯を沸かす。
朝はそういうものだった。
だが、王都の朝は違う。
窓の外から鉄の車輪が軋む音がする。
遠くで汽笛が鳴り、どこかの工場が一日の始まりを告げる鐘を鳴らす。
石畳を荷車が走り、階下では皿が重ねられ、誰かが怒鳴り、誰かが笑う。
蒸気の抜ける音が、細い路地を震わせるように響いた。
ザリュガ=フェルンは、混血街の安宿の三階で目を覚ました。
薄い毛布の下で、しばらく天井を見つめる。
壁の向こうから隣室の男が咳き込む声が聞こえた。
そのさらに下からは、宿の女将が誰かを叱る声。
王都は、朝日と共に目覚めるのではない。
歯車が噛み合うように、ひとつ、またひとつと、音を増やしていく。
そんな街だった。
◇ ◇ ◇
階下へ降りると、食堂にはすでに何人もの客がいた。
混血街の宿だけあって、そこにいる者たちの姿はばらばらだ。
耳が少し尖った男。
瞳の色だけが魔族に近い女。
額に小さな角の名残を持つ老人。
一見すれば人間と変わらないが、笑った拍子に牙が覗く若者。
彼らは、椀に入った薄い粥をかき込み、黒パンを布に包み、仕事へ向かう準備をしている。
ザリュが席に着くと、窓際で湯をすすっていたナトが手を上げた。
「先生、今日は外に出るのか」
いつの間にか、彼らはザリュをそう呼ぶようになっていた。
高嶺谷で呼ばれていた「先生」とは、少し違う。
半分は冗談。
半分は敬意。
もう半分は、何か分からないものを知っていそうな者への淡い期待。
「ああ。鉄道駅を見たい」
「駅か。そりゃまた、朝から油臭いところへ行くんだな」
ナトは笑った。
彼の隣にいた痩せた男、ベズが、硬いパンをかじりながら口を挟む。
「油臭いだけじゃない。
蒸気管の近くは熱い。下水管の近くは臭いし、荷の積み下ろし場は騒がしい。
で、そういう場所には大体、俺たちみたいのがいる」
ナトはそう言って、空になった椀を置いた。
「ついでだ。俺たちの仕事場も見ていけよ。王都がどれだけ立派なもんか、よく分かる」
その言い方には、皮肉と少しばかりの誇りが含まれていた。
◇ ◇ ◇
宿を出ると、混血街の朝はすでに動き出していた。
狭い路地に人が集まり、簡素な札や道具を受け取っている。
札は仕事先の住所と、その仕事に就いたという証文だ。
清掃用の長い柄の箒。
下水路の蓋を開ける鉄棒。
油に汚れた手袋。
荷運び用の革帯。
人々はそれぞれ、王都のあちこちへ散っていく。
「清掃、下水、工場、駅、廃材処理。
だいたいその辺りが、混血街の連中に回ってくる仕事だ」
ナトが言った。
「仕事があるのは、いいことじゃないのか」
ザリュが尋ねると、ナトは肩をすくめた。
「いいことだよ。
腹は膨れる。家賃も払える。酒も、まあ少しは飲める」
そこで彼は、自分の指を見せた。
右手の薬指の先が、少し欠けていた。
「機械が増えると仕事も増える。ありがたい話だ。
ただし、俺たちに回ってくるのは、油まみれになる場所と、爆ぜたときに死ぬような場所だけだがな」
路地の向こうで、若い混血の女が重そうな工具箱を肩に担いで歩いていく。
ザリュはその背を見送った。
機械化。
王都の進歩。
勇者の勝利からの発展。
そうした言葉の下で、この街の者たちは油に濡れ、蒸気に焼かれ、それでも朝になると仕事へ向かっている。
彼らは犠牲者だけではない。
働く者だった。
稼ぐ者だった。
誰かの食卓を支える者だった。
だが、その働きが王都の誇りとして語られることは、おそらくないのだろうか。
◇ ◇ ◇
鉄道駅は、王都の西側にあった。
ザリュは遠くからその建物を見た瞬間、思わず足を止めた。
巨大な屋根。
鉄骨。
石造りの壁。
煙突。
高嶺谷の水車を初めて作ったとき、谷の者たちは皆、それを誇らしげに見上げていた。
流れる水が木の羽を押し、軸が回り、挽き臼が動く。
あれも十分に大きな発明だった。
だが、王都の駅は違う。
ここでは、機械が建物の中に収まっているのではない。
建物そのものが、機械の一部であるように見えた。
黒い車体が、煙を吐いて止まっている。
何十もの荷箱が積まれ、作業員たちが号令に合わせて動いていた。
蒸気が白く噴き出し、鉄の車輪がわずかに軋む。
ザリュは、胸の奥が震えるのを感じた。
美しい。
そう思ってしまった。
恐ろしいよりも先に、その仕組みの大きさと精密さに、目を奪われた。
「すごいだろう」
近くで、商人らしい男が自慢げに言った。
ザリュに向けた言葉ではなかった。
隣にいる若い見習いに話しているらしい。
「王国は変わった。
もう馬と剣だけの時代じゃない。
鉄道があれば、北の鉱石も南の麦も三日で王都に届く」
「魔王戦争の頃には、なかったんですよね」
「ああ。昔とは違う。
今の王国は、機械で大陸をまとめるんだ」
男は誇らしげだった。
その誇りは、嘘ではない。
ザリュにも分かる。
鉄道は確かに大きな力だ。
人と物を運び、街を支え、冬の飢えを減らす。
各地にこの仕組みがあれば、助かる者は多いだろう。
だが、その誇らしげな言葉の中に、駅の裏で油にまみれている混血の名は出てこない。
蒸気弁を調整している魔族も出てこない。
王国は機械で大陸をまとめる。
その機械を、誰が動かしているのか。
ザリュは、それを知りたくなった。
◇ ◇ ◇
駅の裏手へ回ると空気が変わった。
表側では、汽笛や人のざわめきが目立つ。
裏側では、金属が打たれる音、工具が床に置かれる音、蒸気に負けない、威勢のいい者たちの声が響いていた。
そこに、魔族がいた。
額には短い角。
肌の色は人間とほとんど変わらない。
だが瞳の奥に、谷の者たちと近い深い色があった。
彼は蒸気管の前に屈み込み、片手で圧力計を見ながらもう片方の手で弁を調整していた。
「そこ、締めすぎるな」
彼は共通語で若い作業員に告げた。
「冬場は圧が落ちるが、昼になれば戻る。今締めると昼に釜の調子が悪くなる」
「はい、ヴェルグさん」
若い人間の作業員が素直に頷く。
魔族の男――ヴェルグと呼ばれた技術者は、ザリュの方に視線を向けた。
角を見る。
それから、作業員へ向ける顔とは違う顔で少し笑った。
「珍しいな。外の者か」
「なぜ分かる」
「王都の魔族は、そんなふうに真っ直ぐこちらを見ないからな」
ザリュは、言われて初めて周囲を見た。
何人かの作業員が、こちらを気にしている。
「ザリュガ=フェルン。高嶺谷から来た」
「ヴェルグ・ラシュだ。王都鉄道整備局、第三整備班所属」
ヴェルグは手袋を外し、油の染みた手を布で拭いた。
「機械を見に来たのか」
「ああ。王都の機械を知りたかった」
「なら、こっちに回って正解だ。
表にあるのは調子の良い看板だけ。
機械の本当の顔は、裏にある」
ヴェルグはそう言って、蒸気管を軽く叩いた。
「王国の機械は嫌いじゃない。むしろ、美しいと思う。
蒸気の圧が釜を押す。
弁がそれを逃がす。
歯車が力を受け、車輪が動く。
機械ってのはは素直だ」
その声には、確かな愛情があった。
「人間は素直ではないと?」
ザリュが尋ねると、ヴェルグは少しだけ笑った。
「人間だけじゃない。
魔族も混血も変わらないさ。そういう意味じゃな」
彼は近くの壁に貼られた図面を指差した。
そこには、新型蒸気弁の構造が描かれている。
下部には、設計者の名が記されていた。
「これは、あなたが?」
「俺だけじゃない。ここの班で作った。
若い人間の技師もよく働いた。
混血の作業員も何度も試験に付き合った。
だが、そこに載る名前はひとつだ。良く分からんお偉いさんの名だ」
「悔しくないのか」
「悔しいさ」
ヴェルグはあっさり言った。
「だが、名前を載せろと騒げば、次から設計に関われなくなる。
俺は機械に触りたい。
機械をよくしたい。
列車が安全に走るなら、それは俺の誇りだ。
……その誇りを、誰かに認めてもらえないことにも、まあ、悔しいがだいぶ慣れた」
慣れた。
その言葉が、ザリュの胸に小骨のように残った。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所から、若い人間の技師が駆け寄ってきた。
「ヴェルグさん、二番線の圧力弁なんですが――」
彼はそこでザリュに気づき、ほんの一瞬だけ視線を角に止めた。
だが、すぐに会釈した。
「失礼しました。見学の方ですか」
「そんなところだ」
ザリュが答えると、若い技師は人懐こく笑った。
「ヴェルグさんに案内してもらえるなら、運がいいですよ。
この駅の蒸気弁は、ヴェルグさんがいなければ三度は爆発してますから」
「大げさだ」
「大げさなんかじゃありません。
去年の冬なんか、僕らだけなら絶対にやらかしてましたよ」
若い技師の尊敬は本物だった。
ザリュは、彼を見た。
悪意はない。
むしろ、目の前の魔族技術者を心から頼りにしている。
だからこそ、尋ねた。
「なら、なぜ図面に彼の名前がない」
若い技師は、言葉を失った。
気まずそうに視線を泳がせ、それから困ったように笑う。
「それは……まあ、色々ありますよ。
ヴェルグさんも、波風を立てたくないと言っていますし」
「波風」
ザリュは繰り返した。
アルンたちも言っていた。
波風を立てなければ、今のままでいられる。
波風を立てないことは、誰かの暮らしを守る知恵でもある。
だが同時に、誰かの名前を消したままにする口実にもなる。
若い技師は善良だった。
ヴェルグを尊敬していた。
その善良さと、名前が消される仕組みが何の矛盾もなく同じ場所に並んでいる。
ザリュは、怒ればいいのか、悲しめばいいのか分からなくなった。
◇ ◇ ◇
駅を出た後、ザリュは勇者教会の前庭へ向かった。
何やら祭が近づいているらしく、前庭には仮設の展示場が作られていた。
小型蒸気機関。
模型列車。
街灯装置。
新式の印刷機。
子どもたちが目を輝かせ、親たちが誇らしげに笑っている。
看板には、こう書かれていた。
『勇者の勝利から百年。
王国は、ここまで進歩した』
白衣を着た係員が、小型の機関を動かして見せる。
蒸気が噴き、車輪が回ると子どもたちから歓声が上がった。
司祭が、その隣で穏やかに語る。
「勇者様が魔王を討ち、王国に平和を取り戻してくださったからこそ、
我々はこうして技術を磨き、豊かな時代を迎えることができたのです」
誰も疑問を挟まない。
確かに、戦争が終わらなければ、この機械の多くは生まれなかったかもしれない。
だが、ザリュは展示の裏手に視線を向けた。
そこでは、混血の青年が汗を拭きながら、動かなくなった模型の歯車を調整していた。
さらに奥には、角を布で隠した魔族らしき女が係員に小声で何かを指示している。
展示の看板に、彼らの名はない。
王国の進歩。
勇者の勝利。
機械文明の誇り。
その言葉の中に、油に汚れた手は入っていない。
ザリュは、看板の文字をもう一度見た。
王国は、ここまで進歩した。
その「王国」の中に、
混血街の者たちは含まれているのか。
駅裏のヴェルグは含まれているのか。
名を載せてもらえない技術者たちは、どこにいるのか。
答えは、看板には書かれていなかった。
◇ ◇ ◇
夜。
混血街の宿に戻ると、一階の食堂にはまた紙が、記録が集まり始めていた。
前よりも少し増えている。
日記。
労働記録。
家族の名前が連なった紙。
職を断られた日のことが綴られた詩のようなもの。
そして今日は、機械にまつわる手記が多かった。
ミーシャが、一部を開いて読み上げる。
「“蒸気管の点検に入った。
中は熱く、息がしづらかった。
人間の正職員は入口で待っていた。
私たちが奥に入り、弁を締めた。
作業後、正職員が報告書を書いた。”」
別の男が紙片を差し出す。
「俺のも読んでくれ。字が汚いから」
そこには、工場で指を失った混血の話が書かれていた。
補償は出た。
少ないが、出た。
だから文句を言うべきではないのかもしれない。
だが、指を失った者の名は工場記録に残らず、
故障した機械の部品名だけが記録に残っていた。
ナトは、油で汚れた布袋から一枚の紙を取り出した。
「駅の仕事をしてる奴から預かった。
“新型連結器の試験に参加。作業員三名、うち混血二名。
報告書には整備班主任の名のみ記載”だとさ」
紙片が机に重ねられていく。
ザリュはそれを分類した。
鉄道。
工場。
清掃。
下水。
展示。
事故。
名前の欠落。
王都の機械化は、彼らに仕事を与えていた。
同時に、彼らの名を陰に沈めていた。
善なのか悪なのか。
希望なのか新しい鎖なのか。
ザリュには、答えが出せなかった。
ただ一つ、分かることがある。
王国は、差別を消してはいない。
差別を、より複雑な形に変えている。
◇ ◇ ◇
「先生」
若い混血の男が、不意に声をかけた。
以前、店で仕事を断られたことを書いて朗読会で話していた青年だった。
名はロウ。
額に、小さな角の痕だけがある。
「俺たちがこうしてその日にあったような事を書いて、何か変わるんですか」
食堂が静かになった。
誰もが、同じ問いをどこかで抱いていたのだろう。
ザリュは、すぐには答えられなかった。
書けば変わる。
そんなことは言えない。
ヨルンは書いた。
それでも禁書にされた。
ボールドンは読んだ。
それでも朗読会は時に暴力へ傾いた。
ザリュが語り、彼らが書き始めても、王都の表通りの宿は角持ちを泊めない。
駅の図面にヴェルグの名は載らない。
勇者教会前の展示には、混血の仕事は書かれない。
書けば、何か変わるのか。
分からない。
だが、ザリュはボールドンの声を思い出した。
――下手でいい。
――大事なのは、誰かが読める形で残すことだ。
さらに遠くに、ヨルン・エルネストという名の記録官がいる。
彼は、世界を救うために書いたのではない。
消されるものを、消される前に紙へ移した。
ザリュは、机の上の紙片に手を置いた。
「変わるかは分からない」
正直に言った。
ロウの目が、少しだけ沈む。
「明日の仕事が増えるとは限らない。
名前がすぐ図面に載るとも限らない。
勇者教会の展示に、お前たちの名札が並ぶとも限らない」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、書かなければ、この発展は“王国だけの手で動いた”ことになる」
誰かが息を飲んだ。
「お前たちが油にまみれていたことも、
蒸気に焼かれたことも、
指を失ったことも、それでも歯車を止めなかったことも、
誰も知らないままになる」
ロウは、机の上の紙片を見た。
「……それは、嫌ですね」
「ああ」
ザリュは頷いた。
「俺も嫌だ」
ミーシャが、静かに帳面を開いた。
「今のも書いていい?」
「今の?」
「先生が、“俺も嫌だ”って言ったこと」
ザリュは少し困った。
ナトが笑う。
ベズも肩を震わせる。
「見たままを書くんだろ、先生」
ザリュは、しばらくしてから頷いた。
「……なら、書けばいい」
ミーシャは満足そうに炭筆を握った。
◇ ◇ ◇
その夜遅く、ザリュは宿の小さな部屋で自分の旅行記を開いた。
外では、まだ遠くで鉄道の音がしている。
王都は夜になっても、完全には眠らないらしい。
彼はペンを取り、ゆっくりと文字を書いた。
王都は悪の都ではない。
そう書いて、少し手を止めた。
悪の都ではない。
それは確かだった。
王都には美しいものがある。
便利なものがある。
子どもの歓声があり、
職人の誇りがあり、
恋人たちが駅で手を振り、
若い人間の技師が魔族の先輩を心から尊敬している。
だが、その同じ街で、名前は消える。
人間は機械を「王国の誇り」と呼ぶ。
混血はそれを「仕事」と呼ぶ。
魔族はそれを「自分たちの手が触れたもの」と呼ぶ。
同じ歯車を見ても、
立つ場所によって、見えるものが違う。
ザリュは、さらに書き続けた。
油の匂い。
蒸気の熱。
紙に載らない名前。
波風を立てない善良さ。
それらは一日見ただけでは分からない。
何度も見て、
何度も視線を受け、
何度も同じ道を歩いて、
ようやく街の仕組みの中に混ざる差別の形が見えてくる。
ザリュはペンを置いた。
窓の外で、汽笛が鳴る。
高嶺谷の夜にはない音だった。
だが、もうそれを聞いても、眠れないほど驚くことはない。
そのことが、少しだけ怖かった。
◇ ◇ ◇
――後年、
東部居住区で作られた私的記録集には、この時期にまとめられた「機械篇」と呼ばれる章がある。
その序文は、誰の手によるものか確定していない。
ただし、文体や整理方法から、ザリュガ=フェルンが深く関わっていたと見る研究者は多い。
*
【『東部居住区私的記録集・機械篇』序文】
王都は機械の街になりつつあった。
人間はそれを進歩と呼んだ。
混血はそれを仕事と呼んだ。
魔族はそれを、名を消された技術と呼んだ。
どの呼び方を選んだとしても、
蒸気は同じように噴き、
歯車は同じように回った。
しかし、
歯車はひとりで回るものではない。
そこには、
油に濡れた手があった。
蒸気に焼かれた腕があった。
名を出されなかった技師がいた。
報告書に残らなかった作業員がいた。
王都の鉄道は、王国の誇りであるという。
その言葉に異論はない。
ただし、その誇りの下に、
我々の手もあったことを、ここに記しておく。
誰かに許されたからではない。
歯車が回るたび、
そこに我々がいたからである。