“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~   作:こじまたり

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第27話 機械仕掛けの噂

第27話 機械仕掛けの噂

 

 噂が巡るのは早い。

 朝の市場で誰かが口にしたひと言が、昼には駅の荷役場で別の形になり、夕方には勇者教会の前庭でまるで事実のように語られている。

 

 ザリュガ=フェルンが王都に来てから、季節は少しだけ進んでいた。

 

 混血街の宿の薄い窓から入る風は以前ほど刺すようには冷たくない。

 

 だが、街の空気には、春の湿り気とは別のざわつきが混じり始めていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 最初にそれを耳にしたのは、鉄道駅の売店だった。

 

 ザリュは、駅裏の整備場に顔を出した帰り、駅舎の片隅にある小さな売店で黒パンを買おうとしていた。

 

 売店の前には、新聞が束ねて置かれている。

 王都日報。

 勇者教会公認週報。

 商工通信。

 

 紙面には、百年祭に向けた記事が大きく載っていた。

 

 勇者勝利百年。

 王国の発展。

 鉄道網の拡張。

 新式蒸気機関の披露。

 

 それらの見出しに混じってひとつ、妙な一文があった。

 

『北西辺境に魔族残党の機械都市か』

 

 ザリュは、記事の前で足を止めた。

 売店の女主人が、彼の視線を追って言う。

 

「ああ、それね。ここ数日、その話ばっかりだよ」

 

「魔族残党の機械都市?」

 

「読んでないのかい。

 遠く北西の山向こうだか海沿いだかに、魔族の生き残りが国を作ってるって話さ」

 

 女主人は新聞を一部取り、器用に広げて見せた。

 そこには、挿絵が大きく描かれている。

 

 黒煙を吐く塔。

 いくつもの歯車。

 巨大な機械兵。

 そして、その前に立つ、角を持つ魔族の将軍。

 

 あまりにも芝居がかった絵だった。

 ザリュは眉をひそめる。

 

「これは、誰かが見て描いたものか」

 

「さあね。新聞屋が描いたんだろう。でも、ないとも言い切れないじゃないか。魔族は機械が得意だって言うし」

 

 女主人は悪意なく言う。

 ザリュは、喉の奥に小さな棘が刺さるような感覚を覚えた。

 

「その国の名はなんという」

 

「名前かい?」

 

 女主人は紙面を見直した。

 

「ええと……“魔族残党勢力”。

 “北西機械魔領”。

 あとは、“第二魔王国の疑い”だってさ」

 

「……名は無いのか」

 

「正式な名なんて、魔族の国にあるのかい」

 

 彼女はそう言ってから、しまった、という顔をした。

 ザリュの角を見たのだ。

 

「ああ、悪いね。そういうつもりじゃ」

 

「分かっている」

 

 ザリュは新聞を一部買った。

 

 黒パンと一緒に渡された紙は、

 焼きたてのパンよりもずっと冷たく感じた。

 

◇ ◇ ◇

 

 噂は、すでに混血街にも届いていた。

 

 宿の一階では、いつものように紙片と帳面が卓の上に置かれている。

 皆、思い思いの丈を語っている、いつもの、いつもとは少し違う夜。

 

「おい、聞いたか。北西に魔族の国があるってよ」

 

「魔族の国なら、先生の谷もそうだろ」

 

 誰かが面倒くさそうに返す。

 

「そういうのじゃねえ。もっとでかい、機械だらけの国だって話だ。

 黒煙の塔が並んでて、機械の兵隊を作ってるらしい」

 

 宿の空気が、少しだけ変わった。

 ベズが新聞を覗き込み、挿絵を見て口笛を吹いた。

 

「ずいぶん豪勢そうだな。

 少なくとも俺よりは飯を食えてそうだ」

 

「本当にこんな国があるなら、俺たちを雇ってくれないかね」

 

 日雇いの魔族が笑う。

 だが、笑いながらも彼の目は紙面から離れなかった。

 

「王都よりマシかもしれんぞ。少なくとも、同胞の国だ」

 

「でも、そんな国があるって分かったら、王国は放っておくの?」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 ザリュは新聞を卓に置いて答える。

 

「まだ、何も分からない。こんな国が、場所が、本当にあるのかもな」

 

「新聞にはそう書いてあるよ?」

 

「誰の為に、誰が、書いたかが大事だ。見方が変われば、真実すら変わる」

 

 ザリュの言葉は、いずれか昔の一人の書記官を思い描いていた。

 

 その言葉が何を意味するかを、宿の者たちは薄っすらとだが理解していた。

 自分たちの素性も、そうやって歪められたものであると、薄々理解していたからだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 翌日、ザリュは駅裏の整備場へ向かっていた。

 ヴェルグ・ラシュは、いつものように油に汚れた作業着で蒸気管の前にいる。

 

 彼は新聞を見るなり、嫌そうに片目を細めた。

 

「もうそこまで来たか」

 

「知っているのか」

 

「噂だけはな」

 

 ヴェルグは工具を置き、周囲を一度見回してからザリュを整備場の隅へ招いた。

 

「北西に、魔族系の都市同盟がある。

 少なくとも、それに近いものがあるとは聞いている」

 

「都市同盟」

 

「国というより、都市と工房の集まりだ。

 王国から逃げた技術者。

 旧収容区から出た者。

 魔王軍の残党ではなく、戦後に行き場をなくした連中の末裔。

 彼らが鉱山と古い要塞を拠点にして、機械を発展させた」

 

 ザリュは、新聞の挿絵を思い出した。

 

「機械兵は?」

 

「あるかもしれん」

 

 ヴェルグは否定しなかった。

 

「向こうも王国を信用していない。

 王国が攻めてくるなら守る必要がある。

 守るためには、武器も要る」

 

「侵略のためではなく」

 

「そう願いたいがな」

 

 ヴェルグの声は慎重だった。

 

「魔族だから善良、というわけではない。

 追われた者は、追った者を憎む。

 その憎しみから、先に殴ろうとする者もいる。

 だが、少なくともそこに描かれているような、魔王の亡霊が黒煙の塔で人間を滅ぼす準備をしている国、という話ではないはずだ」

 

「名を、知っているのか」

 

 ザリュが尋ねると、ヴェルグは少し迷う。

 やがて、小さな声で言った。

 

「灰炉都市同盟ヴァルガルド。

 俺が聞いている名は、それだ」

 

 灰炉都市同盟ヴァルガルド。

 

 ザリュは、その名を胸の中で繰り返した。

 

「なぜ新聞はそれを書かない」

 

「書けば、相手が“国”と認める形になるからな」

 

 ヴェルグは苦く笑った。

 

「国には習いがある。

 名がある相手とは、交渉しなければならない。

 だが、“魔王残党”という名目なら討てる。

 “第二魔王国”を掲げるなら、勇者の名で燃やせる」

 

 国が、国と認めない。名を認めない。

 それは、戦争の準備なのではないか。

 

 

 整備場の奥から、若い人間技師が声を上げた。

 

「ヴェルグさん、二番釜の調整をお願いします!」

 

 ヴェルグは返事をしながら工具を手に取った。

 その横顔には、疲労が色濃く見える。

 

「気をつけろ、ザリュ。この噂は、ただの噂で終わらないかもしれない。

 王国は今、百年祭を控えている。

 勇者の勝利を祝うために、新しい“敵”を必要としている者たちがいる」

 

「新しい、敵」

 

「人は、自分の正しさを確認するために、ときどき己の外側に敵を作る」

 

 ヴェルグは、蒸気管の弁に手をかけた。

 

「それが本当に敵どうかは、関係ないのかもな」

 

◇ ◇ ◇

 

 王都の表通りでは、噂はすでに別の形でもって広がり始めていた。

 酒場では、魔族機械国家の話で客たちが盛り上がっている。

 

「機械兵だってよ」

 

「人間の兵じゃ勝てねえんじゃないか」

 

「馬鹿言え。百年前、勇者様が魔王を倒したんだ。

 今さら残党が何をしたって、王国軍が叩き潰すさ」

 

「でも、鉄道路を襲われたらどうする」

 

「だから先に叩くんだろ」

 

 先に叩く。

 

 その言葉が、まるで当然のように軽く出てくる。

 

 ザリュは、酒場の入口近くで足を止めた。

 

 彼らは悪人ではない。

 今日の仕事を終え、酒を飲み、明日の天気を気にする普通の人間たちだ。

 だが、その普通の口から、まだ見ぬ国を叩くという言葉が滑り出る。

 

 見たこともない相手。

 名も知らない相手。

 新聞の挿絵でしか見ていない相手。

 

 それでも、彼らの中ではすでに敵になり始めている。

 

◇ ◇ ◇

 

 勇者教会では、さらに不安を煽るような言葉が語られていた。

 

 夕刻の説教。

 

 前庭には、仕事帰りの人々や、百年祭の準備を見に来た家族連れが集まっていた。

 若い司祭が壇上に立つ。

 

「兄弟姉妹よ。

 百年前、勇者は魔王を討ち、我らに光を取り戻してくださいました。

 しかし、我らは忘れてはなりません。

 魔は、形を変えて忍び寄るものです。

 かつては剣と牙を持っていた魔が、今は黒煙と歯車を纏っているのかもしれません」

 

 群衆がざわめく。

 

 黒煙と歯車。

 

 それは王都の誇りでもあるはずだった。

 鉄道の煙。

 工場の歯車。

 勇者教会前に飾られた技術展示。

 

 だが、魔族の手にあるとき、同じ黒煙と歯車は「敵」になる。

 

 司祭は続けた。

 

「我らは恐れてはなりません。

 勇者の勝利から百年。

 王国は平和と秩序を守る使命を、再び思い出すべき時を迎えているのです」

 

 誰かが拍手した。

 それに続く者がいた。

 

 やがて、前庭には人々の拍手が広がる。

 ザリュは、その拍手の中で立ち尽くすしかなかった。

 

 説教は、まだ戦争を求めてはいない。

 誰かを討てとは言っていない。

 

 ただ、恐れを形にしている。

 形を与えられた恐れは、やがて行き先を求める。

 

◇ ◇ ◇

 

 その夜、混血街の宿ではいくつもの新聞が重ねて広げられていた。

 

 誰かが王都日報を読み、

 誰かが教会週報を読み、

 誰かが商工通信の記事を切り抜いている。

 

 ミーシャは、目を皿のようにして文字を追っている。

 

「“灰炉都市同盟”という記載は?」

 

 ザリュが尋ねると、ミーシャは首を振った。

 

「どこにもない」

 

 ナトは腕を組み、唸った。

 

「新聞ってのは、書いてあることだけじゃなく、書いてないことも大事なのか」

 

「そうだな」

 

 ザリュは答えた。

 

「何を書くかで、人々には偏った情報しか渡すことをしない」

 

 ベズが苦々しく笑った。

 

「嘘を言ってるわけでもないのにな。怖いもんだ」

 

「そうだ」

 

 ザリュは言った。

 

「ここにあるのは、意識の矛先だ。意図した形で、思うが儘に意を操る」

 

 宿の中が静かになった。

 ザリュは、自分の言葉が少し強すぎたかもしれないと思ったが、取り消す気にはなれなかった。

 

「なら、どうする」

 

 ナトが尋ねた。

 

「俺たちが、その灰炉都市同盟の名を書けばいいのか」

 

「ああ、そうだな」

 

 ザリュは頷いた。

 

「ただし、分からないことまで書いてはいけない。

 俺たちはまだ、その国を見ていない。だから、見たようには書かない。

 分かっていることだけ、それだけでいい」

 

 ミーシャが炭筆を握った。

 

「また書くことが増えるね」

 

「ああ」

 

「先生、これ、何の記録になるのかな」

 

 ザリュは少し考えた。

 

 混血街の記録。

 王都の記録。

 そして今、まだ見ぬ国の名前が奪われていく記録。

 

「噂の記録だ」

 

 そう答えた。

 

「噂?」

 

「噂がどう生まれ、どう形を変え、どう人の口から人の口へ移っていくのか。

 それを書いておく。

 いつか誰かが、“なぜ戦争が始まりかけたのか”を調べるときのために」

 

 自分で言ってから、ザリュは胸の奥が冷えるのを感じた。

 

 戦争が始まりかけた。

 

 まだ始まっていない。

 まだ、誰も正式にはそう言っていない。

 

 だが、言葉はもう、その方向へ歩き出している。

 

◇ ◇ ◇

 

 深夜。

 

 ザリュは部屋で旅行記を開いた。

 

 窓の外では、混血街の路地が静まり返っている。

 遠くから、鉄道のかすかな音だけが聞こえた。

 

 彼は、ヴェルグから聞いた名を書いた。

 

 灰炉都市同盟ヴァルガルド。

 

 ザリュは、続けて書いた。

 

 王都の人々は、まだその国を見ていない。

 

 だが、恐れ始めている。

 恐れは便利だ。

 見たことのないものに、好きな形を与えられる。

 

 新聞は絵を与える。

 教会は意味を与える。

 酒場は笑いを与える。

 軍は、いずれ標的を与えるかもしれない。

 

 ザリュはペンを止めた。

 

 高嶺谷の子どもたちに、初めて人間の文字で名前を書かせた日を思い出す。

 名を書くことは、その者がいると認めることだった。

 

 ならば、名を書かないことは、その者をまだ見ぬ怪物に変えることなのかもしれない。

 

 ザリュはもう一度、灰炉都市同盟ヴァルガルド、と書いた。

 

 紙の上に、まだ見ぬ国の名が残った。

 

◇ ◇ ◇

 

 ――後年、

 王国と灰炉都市同盟ヴァルガルドの関係史を扱った史書には、

 この時期の王都について、次のような一節がある。

 

 *

 

 【『百年祭前夜における王都世論と北西問題』第一章より】

 

 北西の魔族系都市同盟に関する最初期の報道において、

 王都の主要紙は同盟側の正式名称をほとんど用いなかった。

 

 代わって紙面に頻出したのは、

 「魔族残党勢力」

 「北西機械魔領」

 「第二魔王国」

 といった呼称である。

 

 これらの名は、事実を説明するためのものというより、

 読者にあらかじめ解釈の枠を与えるためのものであった。

 

 すなわち、

 相手を交渉可能な隣国としてではなく、

 百年前の魔王戦争と連続する“討つべき敵”として想像させる効果を持っていたのである。

 

 この段階では、まだ王国は開戦を宣言していない。

 

 しかし、

 言葉の上では、

 すでに戦争は準備されつつあった。

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