“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~ 作:こじまたり
裁判所の大広間は、冬の朝のくせにむっとするほど暑かった。
人の熱気と、蝋燭の匂いと、絞られた声が、空気の層になって天井近くにたまり込んでいる。
高い窓から差し込む光が、埃をきらきらと浮かび上がらせていた。
王都中央裁判所。
戦後処理の一環として開かれる「戦犯裁判」は、今日が初日だ。
傍聴席の一角に、記録局のための小さな机が用意されていた。
ヨルンはそこに座り、膝の上に板を乗せて紙とペンを構える。
裁判長席には、法服をまとった判事が三人。
その脇には、王宮から派遣された官吏と、教会の高位神官。
被告席には、鎖で手を繋がれた人間たちが並んでいた。
貴族、商人、情報屋、軍の下級将校。
魔王側に協力したとされる者たちだ。
「被告、シュバルツエ伯爵」
書記官の声が響く。
最初の被告が、前へと引き出された。
歳を重ねた伯爵は、痩せた体に古びた礼服をまとっていた。
かつては美しかったであろう刺繍も、今は色あせている。
「罪状――魔王軍への物資供給、ならびに敵兵への情報提供」
法服の男が、淡々と読み上げる。
「弁明はあるか」
伯爵は、ひどく疲れた目で裁判長を見上げた。
「……わたしは、王国のために動いたつもりだった」
声はかすれていたが、言葉ははっきりしていた。
「我が領地は、前線に近かった。
兵が足りないと王都からの命令が来るたびに、男たちを差し出した。
畑は女と老人と子どもだけになった。
そのうち、魔王側からも使者が来た」
ヨルンはペンを走らせる。
「“中立を守れば、村は焼かない”と奴らは言った。
王都からの援助は、約束された分より常に少なかった。
兵も来ず、食糧も来ず、税だけがきっちり取られた。
私は……どちらに忠誠を誓えば、領民を守れたのだろうな」
伯爵は自嘲するように笑った。
「結果として、私は両方にとって裏切り者だ。
王国から見れば、敵に物資を流した戦犯。
魔王側から見れば、最後まで正式には寝返らなかった、曖昧な小物。
――正義というのは、勝った側が名乗るものなのだと分かったよ」
その言葉に、法服の男の眉がわずかに動く。
「あなたの立場や苦悩は、斟酌されるでしょう」
判事のひとりが、書類をめくりながら形式的に言う。
「しかし、あなたの選択によって、王国軍の兵が何人死んだか、
あなたの領民の何人が混乱の中で命を落としたかも、また事実です」
伯爵は肩を落とした。
ヨルンは、そのやり取りをそのまま紙に写した。
伯爵がどんな人間であったかを、個人的に知る者ではない。
ただ、あの声には、少なくとも「自分なりの正しさ」を信じていた痕跡が残っているように思えた。
◇ ◇ ◇
次に引き出されたのは、痩せこけた中年の女だった。
粗末な布服に身を包み、腰は曲がり、手は洗っても落ちない土の色をしている。
川沿いの村の出だと書類にはある。
罪状は「魔王軍への案内」「人間側の兵の居場所を密告したこと」。
「……どうして、敵に味方したのですか」
判事の問いに、女は震える声で答えた。
「味方したくてしたわけじゃ……ありません」
地方の村の一村民。
王都で裁くような人間ではなかったが、そういう人間がいる、と言うことを見せるためのものだった。
「戦争が始まってから、村には兵隊さんがよく来るようになりました。
王国の兵の方も、魔族の兵の方も。
最初のうちは、皆、言葉で脅すだけでした。
そのうち、言うことを聞かないと、家を壊すようになりました」
女は、自分の両手の甲を見つめた。
「ある日、魔王軍の兵が来て、『案内しろ』と言いました。
人間の兵のいる小屋まで。
断ったら、あたしの息子の首に剣を当てました。
あたしが案内を拒めば、あそこにいる兵十人が助かったのかもしれません。
でも、息子ひとりを、目の前で――」
言葉が喉で詰まる。
「……あたしは、息子を選びました」
傍聴席のどこかで、誰かが小さく舌打ちをした。
「卑怯だ」「裏切りだ」というささやきが漏れる。
判事は、淡々と尋ねる。
「その結果、あなたの案内により、王国軍の兵士十名が殺されました。
そのことを、どう考えますか」
「……あのときのあたしには、十人分の命の重さなんて、分かりませんでした」
女は、泣きもしなかった。
ただ、ひどく疲れた顔をしていた。
「分かっていても、同じことをしたかもしれません。
そうしなかったら、あたしは“良い人間”でいられたでしょうか。
でも、息子のいない家に戻るあたしは、きっともう生きてはいけなかったと思います」
その答えを書き写しながら、ヨルンは、紙の上の「裏切り」という文字が、
どれほど実際の行動の細部を削ぎ落としているのかを思った。
◇ ◇ ◇
三人目の被告は、眼鏡をかけた痩せた男だった。
書庫係だったという彼は、人間側の腐敗を告発する文を書き、それが魔王側への宣伝に利用されたとして訴えられている。
男は、驚くほど落ち着いた声で話した。
「私は、誰よりも王国を愛していました」
その言葉に、傍聴席から失笑が漏れる。
「戦争が長引くにつれて、王都では腐敗と利権がはびこりました。
兵に行きたくない貴族の子弟は、金で名簿から名を消し、
代わりに、貧しい家の子どもが数を埋め合わせた。
私は、その事実を書きました。
“この戦争は、王国の民の血を、特定の者たちの利益に変える装置になってしまっている”と」
判事が眉をひそめる。
「その文が魔王軍の宣伝紙に引用されたことは?」
「事実です。
魔王側は、私の書いた文を利用し、“人間の王は腐っている”と喧伝しました。
しかし、それが私の責任でしょうか?
私は事実を記しただけです」
男はまっすぐに判事を見る。
「今ここで裁かれるべきは、事実を書いた者なのか、
それとも、その事実を作り出した者たちなのか。
判事殿は、どちらだと思われますか」
しばし、沈黙。
法服の袖が、わずかに揺れた。
「本裁判は、魔王軍に利する行為を裁く場である。
“誰が本当に悪いか”を議論する哲学の場ではない」
判事の答えは、ある意味では正直だった。
ヨルンは、その一文も、そのまま紙に刻んだ。
◇ ◇ ◇
戦犯裁判が進むのと同じ頃、王宮では「英雄叙勲式」の準備が着々と進んでいた。
記録局には、両方の記録を残すよう命が下りている。
ヨルンは午前中に裁判所へ行き、午後には王宮の広間に顔を出す日が続いた。
王宮の大広間は、裁判所とは別の意味で息苦しい場所だった。
磨き上げられた床。
天井から下がる大きなシャンデリア。
壁には、歴代の王と英雄たちの肖像画が並んでいる。
その中央に敷かれた赤い絨毯の上で、今日、新たな英雄たちが勲章を授けられるのだ。
「……あれを見ろよ」
同じく記録に派遣された若い書記官が、ひそひそ声で呟いた。
指さす先には、豪奢な軍服をまとい、胸を張った男が立っている。
白い髭、広い肩、肥えた腹。
資料の中で、ヨルンはその名前を見たことがあった。
前線のひとつを任されていた将軍。
戦功は多いが、その一方で、占領地での略奪や虐殺の噂が絶えなかった人物だ。
噂はあくまで噂であり、正式な調査は行われていない。
今ここで彼に授けられるのは、「この戦争を勝利に導いた英雄」としての勲章だけだ。
「将軍閣下は、敵の村を三つ焼き払って士気を上げたお方だそうだ」
隣の書記官が、皮肉とも羨望ともつかない声で囁いた。
「燃える家を見て、自分たちも燃え尽きる前に敵を倒さねばと思った兵が多かったらしい」
ヨルンは、喉の奥に苦いものが込み上げるのを感じた。
戦犯として裁かれている伯爵や村人、書庫係の男。
彼らの行いは、「敵に利した」として罪に問われている。
一方で、この将軍の噂される行為は、
「味方の士気を高めた」「敵の抵抗力を削いだ」として、美談に近い形で語られている。
裁かれる者と、裁かれない者。
勲章を胸に笑う者と、縄で繋がれたまま罪を告げられる者。
何がその差を決めているのか。
目的か、結果か、それとも、ただの立場か。
式典が始まると、王が高座から立ち上がり、英雄たち一人ひとりに勲章を授与していった。
「王国を救った勇気と献身に対し、ここに感謝と栄誉を与える」
王の言葉に、広間は拍手に包まれる。
軍楽隊が祝奏を奏で、人々は笑顔で杯を掲げる。
同じ時間、裁判所の一室では、別の「言葉」が読み上げられている。
「被告に対し、死刑を言い渡す」
ヨルンは、その両方の言葉を、紙の上に書き留める役目を負わされていた。
◇ ◇ ◇
裁判の日々が続くにつれ、ヨルンの紙束は厚みを増していった。
戦犯として吊るし上げられるのは、立場の弱い者たちが多かった。
地方の小貴族。
徴税を任されていた役人。
魔王軍に寝返った下士官。
王都の大貴族の名は、ほとんど上がってこなかった。
名前が挙がっても、彼らには有能な弁護人がついた。
長い陳述の末、「部下の独断であり、自身は詳細を知らなかった」として無罪、あるいは執行猶予付きの軽い刑に落ち着いていく。
裁判の記録には、その過程が丁寧に残される。
『被告侯爵については、魔王軍との接触があったとの証言があったが、
慎重な審理の結果、直接的な共謀の事実は認められず――』
紙の上では、それは「公平かつ厳正なる審理」として記述される。
しかし、傍聴席の隅では、
戦場から帰ってきた兵たちが、小さな声で不満を漏らしていた。
「俺たちに命令したのは誰だと思ってる」
「村を焼けって言ったのは、この裁判で無罪になった奴らだろ」
その声は記録されない。
ヤジとして書き残されることはあっても、その中身は「雑音」として扱われる。
ヨルンは、自分が何を書いていて何を書いていないのかを、日に日に意識せずにはいられなくなっていった。
◇ ◇ ◇
夜、記録局の片隅で、ヨルンは机に向かった。
今日一日の「公式な裁判記録」はすでに清書し終えている。
判事の言葉、被告の陳述、証人の証言、判決文。
それらは適切な形式に整えられ、判事の署名と印を待っている。
その横に、もう一冊、薄いノートが開かれていた。
個人的な覚え書き用に使っているものだ。
そこには、公式記録には入れられなかった「余白」が書き込まれていく。
『本日の戦犯裁判において、
魔王側に寝返ったとされる村人の男が証言した。
「飢えた子どもたちに配るパンを、どちらの軍が多くくれたか。
それだけが、自分たちにとっての“正義”だった」と。
判事は、それを「動機の一部として理解はできるが、罪を軽くする理由にはならない」と述べた。
その言葉は、正しい。
だが、それだけでいいのかとも思う』
別の頁には、王宮の広間で見た光景がメモされている。
『英雄叙勲式にて、将軍は豪奢な勲章を胸に、笑いながら杯を掲げていた。
彼が指揮した部隊が焼いた村の数を、俺は戦死者名簿の端で見ている。
裁かれるのは誰か。
裁かれないのは誰か。
それを決めるのは、何か。
「勝者の正義」という言葉は、
戦場の兵の間でよく聞かれた皮肉だ。
今、その意味を、別の場所で見ている気がする』
ペンを置き、ヨルンは灯火を見つめた。
炎の揺れが、紙に落ちる自分の影を揺らす。
自分が書いているこれらの「影」が、
いつか、誰かの目に触れることはあるのだろうか。
公式記録だけを読めば、この戦犯裁判は「公平で厳正」だったことになる。
実際、形式の上ではそうなのかもしれない。
だが、その周囲で漏れた声や、飲み込まれた言葉や、
誰にも届かなかった言い訳と叫びは、どこに残るのか。
ヨルンは、静かにノートを閉じた。
紙に書くことしかできない自分が、
それでも紙に書くことをやめなかったのは、
せめてどこかに「別の見方があった」という痕跡を残しておきたかったからだ。
◇ ◇ ◇
──【大陸王国 戦犯裁判記録・公式版 序文】
本裁判記録は、魔王戦争終結後、
王国に対する重大な反逆行為および敵側への協力行為を行った者たちに対する裁きを、
公平かつ厳正なる審理のもとに行った結果としてまとめたものである。
ここに記される判決は、
王国法および戦時特例法に従い、慎重に検討されたものであり、
いかなる私情や感情に左右されるものではない。
この記録が後世において、
魔王戦争における正義の遂行の証として読まれることを、
我々は願うものである。
王立裁判所長官 署名 印
──【後世の編纂者による注記(百年史版)】
しかし、同時期に書かれた個々の兵士や記録官の私的手記には、
この「公平かつ厳正」なる裁きに対して、少なからぬ疑義と違和感が記されている。
裁かれた者と裁かれなかった者。
罪を問われた行為と、問われなかった行為。
それらの境界線が、常に「法」と「正義」によってのみ引かれていたのかどうか、
読者は、ここに挿入した一兵士ヨルン・エルネストの記録と共に、
改めて考える余地を持つべきであろう。