“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~ 作:こじまたり
戦争が終わってから、二度目の冬が近づくころ。
王立記録局の一角には、新しい紙束が山のように積まれるようになっていた。
戦死者名簿でも、戦犯裁判の記録でもない。
紙の上に行儀よく並んでいるのは、橋の再建計画、道路整備の設計図、家屋の再建申請――
「復興事業」と名のつくもの、すべてだった。
ヨルンは、その紙束の中に埋もれていた。
「エルネスト、こっちは終わったか」
隣の机から、年配の書記官が声をかけてくる。
白髪まじりの頭をかきながら、インクまみれの指で書類をめくっていた。
「まだ半分ほどです」
ヨルンは返事をしながら、目の前の紙をもう一度確認した。
『第七地区 河川橋梁再建事業 入札結果報告』
そこには、事業名と予算額、そして受注した商会や施工担当の名前が並んでいる。
――グラナ商会。
――グラナ商会。
――グラナ商会。
ページをめくっても、同じ名前が頻繁に出てきた。
別の用紙では、道路の改修。
別の用紙では、仮設住宅の建設。
そこにも、同じ商会の名が、まるで呪文のように書き込まれている。
「……随分、偏ってますね」
思わず低くこぼすと、年配の書記官が横目でこちらを見た。
「何がだ」
「入札の結果です。同じ商会や貴族の名前ばかりが続いているような」
「ああ、そのことか」
年配の男は、ふん、と短く鼻を鳴らした。
「戦争中から、兵糧や武具を卸してた連中だよ。“信頼できる取引先”ってやつだ。
戦争で懐を肥やしたなら、戦後も肥やす。そういう段取りだよ」
「段取り、ですか」
「そうだ。戦争のときに王家に貸しを作った連中は、戦後にそれを回収する権利がある、ってわけだ。橋一本、道一本、全部が借金の清算みたいなもんさ」
どこか諦めの混じった口調だった。
「俺たちの仕事は、その“段取り”がどう決まったかを詮索することじゃない。
決まった事を、決まったように紙の上に並べることだ」
年配の書記官は、それで話は終わりだと言わんばかりに、自分の紙束に視線を戻した。
ヨルンは、手元の書類に目を落とす。
橋の図面。
資材の内訳。
運搬費。
数字の端々が、ふと目に引っかかった。
瓦一枚の値段。
石材一つの値段。
前線の野戦病院で使われていた粗末な天幕の費用を、彼は覚えている。
兵士一人分の支給額も覚えている。
それらと比べて、ここに書かれている数字は、どこか膨らみすぎて見えた。
◇ ◇ ◇
その夜、ヨルンは仕事の帰りに、広場近くの安い酒場に立ち寄った。
狭い店内は、復員兵や工事現場の労働者たちで混み合っている。
汗と安酒と煮込みの匂いが、むせ返るほど充満していた。
木のカウンターに腰を下ろし、薄いビールを頼む。
一口飲んだところで、背後のテーブルから聞こえてくる会話が耳に入った。
「聞いたかよ。西の橋の工事、またグラナ商会が取ったらしいぞ」
「またかよ。あそこ、一体誰の懐にどれだけ突っ込んでんだ」
笑い声とも、諦めともつかない声が交じる。
「こちらは戦場で命張ってたってのによ。
帰ってきたら、仕事もない。
橋を造る仕事だって、全部決まった連中が持っていく。
せいぜい、石運びの小銭仕事が回ってくる程度だ」
「お前、兵の時は“王国のために”って叫んでたじゃねぇか」
「叫んでたさ。あのときは本気でそう思ってた。
今は“誰の懐のために”だったのか、分かってきただけだ」
乾いた笑いと共に、ジョッキがぶつかり合う音がした。
ヨルンは、背中越しにその会話を聞きながら、黙ってビールを口に運んだ。
紙の上で見た名前と、酒場で飛び交う名前が、頭の中で重なっていく。
戦争中、「国のため」に働いたとされる商会や貴族。
戦争後、「国のため」の復興を担うと称して、仕事を独占する同じ顔ぶれ。
そして、戦場から戻ってきても、「国のため」に戦った報酬をほとんど受け取れずにいる兵たち。
誰が何を得て、誰が何を失ったのか。
紙の上の数字は、黙して、ただ虚と実を交えて記されるのみだった。
◇ ◇ ◇
数日後、ヨルンは記録局の倉庫で、奇妙な書類を目にした。
復興事業の配分記録の控えを探していたときだ。
棚の奥で、うっかり積み上げられた束を崩してしまい、その中から一枚の紙がひらりと落ちた。
拾い上げてみると、それは「受注契約書」の写しだった。
正式な契約書と違って、そこには赤いインクで何かが書き足されていた。
『――紹介料として、総額の一割を王宮某局の担当官に支払うこと』
名前は省略されている。
だが、署名欄のイニシャルは、ヨルンにも見覚えのあるものだった。
復興事業の分配会議で何度も目にした、官吏の名前だ。
「……」
紙を持つ手に、じわりと汗がにじんだ。
これは、正式な帳簿には載らない金の流れだ。
表の書類には「橋梁再建費」として記されている額の一部が、別の名目で誰かの懐に滑り込んでいることを示している。
ヨルンは、その紙をしばらく見つめた。
頭のどこかで、「上に報告すべきだ」という声がする。
こんなものを放っておけば、「戦後の復興」は、ますます一部の者たちの利権遊びになっていくだろう。
別の声もする。
――上に報告して、それを調べる権限を持っているのは誰だ?
――その誰かが、そもそもこの金の流れに関わっていたら?
戦犯裁判の記録を思い出す。
裁かれた者と、裁かれなかった者。
罪を問われた行為と、問われなかった行為。
復興事業の配分も、同じような「線引き」で決まっているのだとしたら。
ヨルンは、そっと周囲を見回した。
倉庫には今、彼しかいない。
入り口の方からは、人の気配も足音も聞こえない。
もう一度、紙に目を落とす。
ここに書かれた一文を、紙の上から世界に引きずり出すことはできる。
告発文に書いて、どこかに届けることもできる。
だが、その先に何が待っているのか。
記録局の一書記官に過ぎない自分が、名前も顔も知られた上官や貴族たちの利権に触れたとき、果たして守られるのは「真実」か、「沈黙」か。
自分の家族、故郷、ようやく手に入れたささやかな部屋と机と。
それらを賭ける覚悟が、自分にあるのか。
答えは、すぐには出なかった。
◇ ◇ ◇
「エルネスト、どうした。書類は見つかったか」
倉庫の入口から、上司の声がした。
ヨルンは反射的に紙をめくり、別の束の中に紛れ込ませた。
「はい、今、確認しているところです」
自分の声が思っていたより落ち着いているのに、少し驚く。
上司は疑わしげな目を向けたが、特に追及はせず、「急ぎだぞ」とだけ言って去っていった。
ヨルンは、さっきの紙が混じった束の位置を頭に刻みつけた。
そして、必要な正式書類だけを持って倉庫を出る。
机に戻り、いつものように公的な記録を書き始めた。
『第七地区復興事業配分記録。
橋梁再建、落札商会グラナ。
予算総額金貨五千枚』
余計なことは書かない。
書いてはいけない――そう言われたわけではないが、書けば間違いなく、どこかで誰かの目に留まる。
「正しいことを書く」ことと「生き延びること」が一致しない場面が、
戦後にはいくらでも転がっていた。
◇ ◇ ◇
その夜、ヨルンは自分の部屋で、いつものノートを開いた。
蝋燭の小さな炎が、机の上に黄色い輪を作っている。
外では、どこかの酒場から笑い声が漏れ聞こえてきた。
彼は、昼間倉庫で見た紙の内容を、できるだけ正確に思い出しながら書き写した。
『本日、復興事業契約書の写しの中に、奇妙な一文を見つけた。
“紹介料として、総額の一割を王宮某局の担当官に支払うこと”
これは、公的記録には記載されない金の流れを示している。
復興の名のもとに動く金の一部が、誰か個人の懐に入ることを、
契約書自体が当然のように前提にしている。
この文言は、おそらくすぐにどこかの引き出しの奥に隠されるか、
破られて燃やされる運命にあるだろう。
少なくとも、記録局の正式な帳簿のどこにも、
こうした文は残らない』
ペンの先が、紙の上でわずかに震える。
ヨルンは一度ペンを置き、深く息を吐いた。
『これを上に報告すべきかどうか、半日考えた。
報告したとして、誰がそれを取り上げるのか。
その誰かが、私腹を肥やす側の人間である可能性はどれほどか。
もし、俺の行いが“余計な詮索”と見なされたら、
俺の机も、俺の紙も、俺の生活も、簡単にここから消されるだろう。
俺は勇者ではない。
たった一枚の紙切れのために、自分のすべてを賭けるほど強くもない。
だから、今日は黙る。
正式な報告書には、何も書かない。
ただ、このノートにだけ、見たままを書き留める。
それが、今の俺にできる、ぎりぎりの抵抗だ』
最後の行を書くとき、インクが少し滲んだ。
ヨルンは、その黒い染みを指先で見つめた。
戦死者名簿を書いていた頃も、戦犯裁判の記録を作っていたときも、紙の上にこぼれたインクは、いつも何かの「跡」に見えた。
血の跡。
焼けた家の跡。
誰かが飲み込んだ言葉の跡。
今、紙の端にできた小さな染みは、自分が呑み込んだ「告発」の跡のようにも見えた。
ヨルンは、ノートの最後に、短い一文を付け足した。
『――この行を、いつか誰かが読むのだろうか。
読まれないまま燃やされるとしても、私は書いておきたい。』
蝋燭の火が、ノートの上に落ちる影を揺らす。
外の笑い声が、少し遠くなったように感じられた。
◇ ◇ ◇
──【大陸王国復興事業配分記録(公式版)より抜粋】
戦後復興事業においては、王国財政の許す範囲内で、
橋梁再建・道路整備・住宅再建などの諸事業が計画的に進められた。
各事業の受注は、公平な入札手続きに基づき、
信頼と実績を有する複数の商会・工匠に分配されている。
当記録は、事業の名称・予算・受注者・工期を網羅的に記したものであり、
王国の誠実な復興努力の証左として後世に残されるものである。
王立記録局
──【同時期 ヨルン個人日誌より抜粋】
紙の上では、すべてが整然としている。
橋は立派になり、道は広くなり、家々は新しく建て直される。
誰がどれだけの金を動かし、
そのうちどれだけが「復興」に使われ、
どれだけが「沈黙を買うため」に消えたのかは、
公式の行には決して書かれない。
それを書けない自分を、臆病だと思う。
同時に、それを書こうとする誰かが、
この街のどこかで口を塞がれている光景も、想像してしまう。
だからせめて、ここにだけ書いておく。
この行がいつか誰かの目に触れるかどうかは、
もはや俺の手を離れた問題だ。